第164話 再び囚われる魂
神歴1504年6月16日。
アルディレッド伯爵邸の地下では、乾いた音が響くと、次の瞬間には鋭い音が続いた。
薄暗い部屋には、わずかに鉄分を含んだ匂いが広がっており、床には赤い染みが所々伸びている。
時折、男性の小さなうめき声が聞こえるが、鞭が空を切る音はその痛みを無視するかのように響き渡る。
彼の体は反射的に震え、痛みが全身に広がっているかのようだ。
ダークグリーンの髪を伝って汗が床に落ちると、再び痛ましい音が懲罰室に響いた。
「でき損ないのお前に、期待など一つも持っていなかった!」
低く、冷徹な声が広がった瞬間、遅れて鞭が空を切る音がし、鋭く乾いた音が鳴り響いた。
「弱者として逃げ出した挙句、我が家の恥晒しとなったお前は、いつまでその愚かさを晒すつもりだ!」
再び振り下ろさた鞭は、白い肌に赤い筋を付け、吊るされている男性はわずかにうめき声を上げた。
肌には既に無数の赤い筋が付けられており、腫れあがった跡は痛々しい。
それでも、男性は叫び声を1つも上げず、ひたすら痛みに耐えているようにも見える。
「お前がこの家に戻って来たのなら、最後位は家の役に立ったらどうだ、ニルヴィス」
セラフィンはニルヴィスを見ながら、大きく手を振り上げ、怒りに任せて腕を振り下ろした。
苦痛に歪むニルヴィスの顔は、たいして見ていてもつまらないものだ。
彼は目の前でぐったりしている息子が、死のうと生きようとさほど興味がない。
「お前が何も言わぬなら、お前にいいことを教えてやろうか?」
視点があっていない様子でニルヴィスが顔を上げると、セラフィンは僅かに笑みを浮かべた。
「お前が持っていた解雇通知書だがな……調べてもらったところ、本物のフリューネ侯爵家の家紋が押されていたぞ? これが意味することは分かるか?」
セラフィンはニルヴィスの瞳を見つめると、彼の瞳が見開かれ、小刻みに揺れ動いていることに気付く。
そのことから、ニルヴィスは何かをフリューネ侯爵から頼まれ、アルディレッド家に来たのだと分かる。
そして、持っていた解雇通知書は、偽物であるとニルヴィスが思っていたのも、彼の動揺から分かる。
「もしや、お前がした何時ぞやの裏切りに、フリューネ侯爵は気付いていたんだな。そして、フリューネ侯爵はそのことを許していないようだ」
セラフィンがそう言い切った瞬間、ニルヴィスの表情には絶望の影が広がる。
口をパクパクさせ、目には薄っすらと涙が浮かび始め、明らかに動揺している様子が見て取れる。
「かわいそうにな。フリューネ侯爵の言葉を信じ、逃げ出した家に戻って来たのに、実際はフリューネ侯爵からも捨てられていたとか、傑作じゃないか」
嘲笑うよにセラフィンが言い切ると、ツーっとニルヴィスの目から涙が流れ落ちた。
赤くなっていく鼻は彼の悲しみを映し出しているようにも見え、わなわなと震える唇は彼の絶望を物語っているようでもある。
「私も実に残念だよ、ニルヴィス。お前が帰って来てから、何日にも渡ってお前を教育し直したのに、もうお前を雇ってくれる家もなければ、この家にもお前の居場所はないのだからな」
セラフィンはそこまで言うと、じっくりとニルヴィスの様子を窺った。
視点が合わないような視線を見れば、はかり知られない絶望が渦巻いているのだと彼は思った。
最後の最後で、こんなに弱い息子を見るとは思っていなかっただけに、憤りは大きくなる。
しかし、いろいろと考えると、彼はニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
そして、セラフィンはニルヴィスに対し、さっきまでとは違う声色で話し出す。
「居場所がないお前にも、最後に家族としてチャンスを上げよう。フリューネ侯爵は旅の支度をしているそうなのだが、どこに行くのか知っていたら話してみろ……そうしたら、この家においてやってもいい」
彼の言葉は甘い果実のように優しく、ニルヴィスの心境を揺さぶっているようにも見える。
「安心しろ、お前の話が事実だった場合、もうお前にこんな仕打ちもしないと誓うし、お前をちゃんと家族と認めよう」
セラフィンは声色を変えて言うと、再びニルヴィスの様子を静かに見ていた。
長い沈黙が流れると、セラフィンは思い出したように話し出す。
「お前が家出したことも、お前が人から盗みを働いたことも、お前がフリューネ侯爵家を裏切り、皇家に情報を流していたことも、フリューネ侯爵や周りが許さなくても私が全て許そう。これが最後のチャンスだ、ニルヴィス……フリューネ侯爵の行き先を話してくれ」
優しく諭すように言っても、ニルヴィスの表情は変わらなかった。
セラフィンはその様子を観察し、内心で溜め息をついてしまう。
彼はできるだけ優しさを込め、「少し考える時間も必要だろう」と言いながら、自分の上着をそっとニルヴィスにかけた。
そして、ニルヴィスを支えながら懲罰室の扉を開け、そのまま長い廊下を歩いた。
階段をゆっくりと上がると、メイドに「ニルヴィスのために、体に優しいものを頼む」と告げた。
周りが目を見開いて驚いている様子だったが、セラフィンはどうでもいいと思ってしまう。
なぜなら、今は息子が話すことが重要であり、そのための努力を惜しむ気はさらさらないからだ。。
彼は、2階に上がるための階段ですら気を使いながら、ニルヴィスを自室へと連れて行った。
「今晩は、ここでゆっくりと休んで考えるがいい」
セラフィンは優しく言うと、ニルヴィスをベッドに座らせた。
(ニルヴィスは、2階に上がったことも、私の部屋にすら入ったことなどない。本当はいやだが、今はそんなことも言っていられないからな……)
セラフィンはそう思うと、ニルヴィスに柔らかい笑みを浮かべた。
一方、アランは旅の支度に追われていた。
彼はエルガドラ王国の国王である父親に助言を頼み、竜人として海を渡ったことがある父親の知識を借りた。
そして、そこからある程度の航路を考え出し、船を出してくれる者を探している。
陸路を進むことも考慮しつつ、そのための移動手段も考えなければならず、彼は頭を抱えている状態だ。
(あー。こういう時、ルカだったらサクッと考えるんだろうなぁ……先に進む安全を考えつつ、退路も確保しなきゃいけないとか、どんだけいつも考えてくれてたんだよ……)
アランはそう思うと、疲れを感じて軽く息を吐き出した。
レティシアが設けた期限まで、残り2週間もないと考えれば、わずかばかり焦る気持ちが膨らむ。
彼は再び地図に向きなおすと、考えを巡らせながら、自分で書いた航路と陸路を指でなぞった。
「アラン、これ届いてた」
「悪い。あ、そうだ。食料とかの調達はどうなってる?」
アランはクライヴから手紙を2通受け取ると、淡々とした様子で尋ねた。
少しばかり間が開くと、クライヴは重たいため息を吐き出した。
「ああ、アルノエさんが手伝ってくれたから、粗方終わったよ」
「そうか、それなら良かった」
アランはそう答えると、手紙の封を開けていく。
1通目の差出人はレティシアからであり、彼は綺麗な文字をひたすら追い駆けた。
次第に彼の眉間にはシワが寄り、「はぁ?」という声が漏れた。
それでも気を取り直し、2通目を開けると、それはライアンからであった。
同じように文字を辿っていくと、アランは苛立って「マジかよ!? 先に言えよな!!」と言った。
「完全に面倒くさい流れだ……」
クライヴは小さい声でそう呟くと、足音を立てないように歩き出す。
幼い頃からアランを知る彼は、アランがどんな人が理解しているつもりだ。
そのため、こういう時はそっと離れた方が良いのも知っている。
しかし、後少しで部屋から出れると安堵した瞬間、「クライヴ、諦めろって」と言う声が聞こえた。
彼は大きく息を吸い込み、「はぁー……」と言いながら吐き出すと、「なんでしょうか?」と冷たく尋ねた。
「今さら逃げられないのは理解してるだろ? いい加減諦めろよ」
「理解はしてるけど、それを受け入れるのかは、また別の話だろ」
呆れた様子でクライヴが言うと、アランは額に手を当てて、手紙を差し出した。
「まぁ、いい。少しだけ予定が変更になったから、この手紙を持ってアルノエとアルファール大公のところに行って、話を聞いて来てほしい」
「やっぱり、面倒くさい流れだった……」
「御託はいいから、行って来いよ。それとも、おまえが代わりにフリューネ侯爵家に1人で行くか?」
クライヴはアランの話を聞き、眉間にシワを寄せると思わず舌打ちをした。
そして、深く息を吐き出し、心底うんざりとした気分で口を開く。
「そっちは、完璧にパス。絶対に行きたくない」
「なんで、そんなにいやがるんだ?」
クライヴはアランが首をかしげると、彼に冷たい眼差しを向けた。
それから、息を吐き出した彼は、昔のことを思い出しながら話す。
「なぁ、アラン……僕が何も知らないとでも? 昔、アランの婚約者だと騒がれたララって、レティシア嬢だろ? 始めて彼女を見た時に、興味がないフリをしたけど、すぐに気付いたよ……彼女がララだってね。狼の獣人の僕がそれをどう思うのか、アランは考えたことはあるのか?」
「いや、深く考えたことはない……悪い。だけど、前にも噂されてた婚約者の説明したけど、彼女は世間を欺くために」
「それでもだ! アランには悪いけど、彼女に対して普通に接することは、難しいと考えてくれ。アランがどう思っていても、僕はすでに彼女を1度アランの番だと認めたんだ。だから、彼女に君の番になってもらいたいと考えてる。それがいやなら、極力彼女と僕を関わらせないことだ」
アランの話を遮ってクライヴはハッキリと言うと、続けて「クソッ」と言って唇を噛み締めた。
クライヴは、すでにアランの番がこの世にいないのを知っている。
そのため、アランの心に空いた穴を埋めてくれる相手が必要だということも、獣人として分かっている。
アランの幸福を願っているからこそ、アランの望まない結末にはしたくない。
それでも、獣人としての本能が、アランの番にレティシアを求めてしまう。
アランは短く「悪かった……」と言うと、申し訳なくて視線を下げた。
獣人としての本能は、抗えない部分も多く、番に関しては特にだ。
そのことを知っているからこそ、それ以上彼は何も言えなかった。
それから1週間後の神歴1504年6月23日。
夕飯時のアルディレッド伯爵邸で、ニルヴィスは家族に囲まれていた。
おどおどと戸惑っている様子も見受けられるが、彼の表情はどこか幸せそうにも見える。
家族が囲む食には、暖かい料理が並び、さまざまな匂いが広がる。
「それにしても、フリューネ侯爵はどこに行く気なんだろうなぁ」
「そうよね……オプスブル侯爵様も隠して、フリューネ侯爵は何がしたいのかしら……」
フレデリック何気ない様子で尋ねると、続いてアリストリドが淡々として様子で答えた。
途端に、ニルヴィスは下を向き、セラフィンは彼の背中をなでながら話し出す。
「ニルヴィス、気にするな……話したくなったら話せばいいんだ」
「父さん……」
セラフィンは不安そうな表情を浮かべるニルヴィスに対し、落ち着かせるように何度も背中を擦った。
「大丈夫だ、今は話さなくてもいいんだ。ニルヴィスの気持ちが落ち着いたら、話せばいいさ」
「フリューネ侯爵は……エルガドラ王国を経由して」
ニルヴィスはそこまで言うと言い淀んだ。
しかし、「無理しなくていい」とセラフィンに言われ、暫しの沈黙が流れると彼は「フリューネ家が海に出る」と話した。
その瞬間、セラフィンは満足気にほくそ笑むと、悪意に満ちた笑みを次第に浮かべた。
その晩……
アルディレッド伯爵邸の広間では、家族だけの小さな宴が催されていた。
けれど、どんなに会場を見渡したところで、そこにはニルヴィスの姿はない。
だが、ニルヴィスが幼い頃に使っていた地下の部屋からは、どす黒い染みと共に鉄分を含んだ悪臭が漂い始め、扉は固く閉じられていた。




