第162話 沈む陽と静かな決意
ニルヴィスと話し終えたレティシアは、ゆったりとした足取りでレイの部屋に向かていた。
廊下の窓から見える空は、鮮やかなオレンジや赤に染まり、柔らかく暖かみのある光が辺りを包む。
それでも、長く伸びた影は、どこかに冷たさを残している。
静かな背中は何かを語りかけてくるように見え、夕日を見つめるロイヤルブルーの瞳は、わずかに赤みががっている。
しかし、少し下げられた視線は何かを考えているように感じられ、彼女が歩き出すと床はわずかに音を鳴らした。
レティシアがレイの部屋のドアを開けると、なじみのある声が聞こえた。
「あら、アランも来ていたのね」
「ああ、おかえりレティシア。勝手に来て悪い、少しだけレイと話してたんだ」
アランはレティシアの方を見て言うと、レティシアはふふふと笑って微笑んだ。
2人の間には暖かな雰囲気が流れ、彼も微笑むと彼女は口を開く。
「アランにおかえりと言われるのは、懐かしいわね。ただいまアラン、勝手に来てたのは気にしなくていいわよ。でも、パトリックもルカの所にいるのでしょ? レイがアランを出迎えてくれての? ありがとう」
「いや、どちらかと言えば、居候してる身だし気にしなくていいよ」
レイは淡々と言うと、レティシアの表情を確かめていた。
彼女の表情からは、何かしら考えているのだと分かる。
しかし、彼には彼女の気持ちが分からず、悟られないように小さく息を吐き出した。
「ところで、そちらの方を紹介してくださるかしら?」
アランはレティシアから尋ねられると、一瞬だけ紹介したことがなかったのか考えたが、それでも青い髪のクライヴの方を向いて彼女に話す。
「ああ、彼はクライヴ。おれがエルガドラ王国から連れてきた側近のクライヴ・ハリー・アッシャー」
クライヴは、まるで興味なそうにレティシアに視線を向けると、彼女の表情を見ていた。
少しの間が開き、彼は気怠そうに短く息を吐き出すと、素っ気ない様子で「どうも、紹介とかいいから」と答え、そのまま彼女から視線を外した。
すると、レティシアは怪しんだ様子で「あら、そう」答え、そのままクライヴからアランに視線を移し「……それで?」と尋ねた。
「おれを絶対に裏切れないと言えば、なぜ同席させたか分かるかな?」
レティシアはアランの話を聞き、チラッとクライヴの方を見た。
そして、考えるように顎に触れると、一瞬の間が空き「なるほどね。それならいいわ」と答えた。
一方、その様子を見ていたレイは、2人の話が止まったタイミングで口を開く。
「紹介はすんだかな? 一応、レティシアと話してた通りに、ロレシオには用事を頼んでおいたよ」
「驚いていたでしょ?」
まるでいたずらっ子のようにレティシアが笑みを浮かべると、レイは軽く首を左右に振ってため息をこぼした。
そして、彼は彼女を見つめ、淡々と話し出す。
「いや? 淡々と了承してたよ。――みんなさ、ちゃんと見てんだよ。みんなちゃんと考えてんだよ。レティシアが何を考えるのか、どんな気持ちなのかってね。それで? そっちはどうなったの?」
「予定通りよ? 絶対に許さないと決めているの。だから、徹底的にやるわ」
レティシアはニルヴィスとの会話を思い出しながら答えると、静かな怒りを秘めた冷たい微笑みを浮かべた。
その様子を見ていたレイは、曖昧に微笑むと「そっか。レティシアがそれでいいなら、ボクは何も言わないよ」と呟いた。
「それで、アランは何をレイと話していたの?」
「あー……まだ、話してない……レティシアが来るのを少し待ってた。実はさ、詳しくは話せないんだけど、ルカの記憶について調べてたんだよ」
アランはレティシアに尋ねられると、困ったように頭をかいて言葉を選びながら答えた。
しかし、彼女に視線を向けると、ロイヤルブルーの瞳が彼の背筋をなぞった気がした。
「そうなのね。それで、何か分かったのかしら?」
「どういう意味か分からないけど「赤目と黒髪の魔族に会いに行け」っていう答えには辿り着いた」
レティシアは視線を下げ、考えるように長い指で輪郭をなぞると一点を見つめた。
暫しの沈黙が流れると、彼女は静かに「赤目と黒髪の魔族に会いに行け……ね……」と呟いた。
「この大陸には、もうハーフの魔族しか残ってないんじゃないのか?」
冷静な様子でレイが尋ねると、アランはレイの方を向いて頷いた。
「ああ、ハーフは残ってるけど赤目と黒髪じゃない」
「そうなると、海を渡れってことか……」
呟くようにレイが言うと、アランは深く息を吐き出した。
ヴァルトアール帝国で魔族がいなくとも、ベルグガルズ大陸には魔族が暮らしている国もある。
しかし、赤目と黒髪を持った上位魔族ともなれば、過去の事件の影響で残ってはいない。
そのため、上位魔族に会いたいとなれば、海を渡ってリスライベ大陸に行くしかないのだ。
「そういうことになるよなぁ……」
重たい息を吐き出すようにアランが言うと、レイは何かを考えるように腕を組んで指の背で顎に触れた。
薄紅色の瞳は一点を見つめているようで、微動だにしなかったが、ふと視線が上がると彼は口を開く。
「もしそうなった場合、2人はすぐに動けないから、早くても学期末が終わる頃か」
「いや、そこまで悠長にしてられないかもしれない」
アランの発言を聞き、レイは眉間にシワを寄せた。
そして、彼は「どういうことだ?」と疑問をアランにぶつけた。
「それも詳しく話せないけど、その間にルカが正気を失うかもしれない可能性がある」
アランはできるだけ冷静に話すと、その後に沈黙が流れた。
短い時間が長く感じられ、彼は視線だけを動かして周りの様子を窺う。
すると、思考している様子だったレティシアと目が合い、彼の心臓は大きく飛び跳ねた。
彼女の瞳は全てを見透かすようで、思わず彼は生唾を呑み込むと、「闇の精霊ね……」と言う彼女の声が聞こえた。
咄嗟に彼は「知ってるのか?」と尋ねると、レティシアが首を横に振る。
「いいえ、知らないわ。ただ、その可能性もあると考えていただけよ。だから私は、ルカが後で受けるショックも考えて、早めにルカを彼の生活に戻そうと考えたわ……よく考えたら、それこそ危険な行為だったけどね」
「ああ……おれも調べてて、レイの判断は正しかったと思ったよ」
「それなら、早めに行動した方がいいわね。フリューネ家がルカを匿えるのも、ここからは時間の問題だと思うし、私の考えが間違っていなければ、いろんな意味で悠長にはしていられないわ」
レティシアはそう答えると、考えを巡らせた。
現在、ルカの状況は、限られた人しか知らない状態だ。
しかし、考えられる様々な可能性を踏まえると、悠長にことは進められないと彼女は感じていた。
彼女が思想を続けていると、ふと「何かあったのか?」と言ったアランの声が耳に届き、彼女は彼の表情に心配が含まれていると感じた。
そのため、彼女は息を吐き出すと、気怠そうに話し出す。
「そうね……アランも知っていると思うけど、ルカの婚約は正式に発表されていないわ。それなのに、ルシェル殿下がそのことを知っていたわ。そして、私には皇帝主催のお茶会の誘いが届いていたわ」
「婚約者は皇家の差し金か……」
アランが考えている様子で呟くと、レティシアは小さく頷き再び話を続ける。
「単純に考えればそうなるわね。それで、ロレシオに頼んで、アルフレッド殿下に事実確認しに行ってもらったわ」
「だけど、海を渡るとなれば、学院はどうするつもりだ? おれは留学中だから適当な理由をでっち上げればなんとでもなるけど、レティシアはそういう訳にはいかないだろ?」
「そこは気にしなくていいわ。すでにそのことについても、私は私で考えているわ」
レティシアが淡々と答えると、アランは眉を顰めた。
そして、冷静に「独立する気か?」と尋ねると、彼女の反応を窺った。
「あら、アランは反対なの?」
彼女が首を少し傾けて尋ねると、アランは軽く息を吐き出した。
全く考えていなかったことではないからこそ、彼はヴァルトアール帝国よりも、レティシアと個人的に親しくしてきた。
そのため、彼はエルガドラ王国王太子として、彼女に答える。
「いいや、反対はしねぇけど……そうなると、おれの方も支援するために動かなきゃだから、行動する前には教えて欲しいだけだ」
「そう言ってくれると思っていたわ。ありがとうアラン」
レティシアはそう言って微笑むと、胸をなで下ろした。
所詮、独立宣言をしたところで、支援してくれる人がいなければ、様々な問題が浮上する。
そのことを知っているからこそ、国としてアランが支援してくれるのは、彼女にとって心強いのだ。
「さぁーて、それじゃ話もまとまったし、ちょっとおれも準備しとくか」
アランは腕を伸ばしながら言うと、「はぁ、本当に信じらんね……」と言う声が聞こえた。
声がした方を向いた彼は、面倒くさそうにしているクライヴの顔を見つめた。
そして、彼は自信に満ちた笑顔を浮かべると、楽しそうに口を開く。
「クライヴ、諦めろよ。君がおれの側近になった時点で、そういう運命だっただけだ」
アランとクライヴが部屋から出て行くと、残ったレティシアをレイは静かに見つめた。
(こんな時、ルカならレティシアになんて声かけるんだろう。どうするのか聞くのかな? それとも、何も言わずに動くのかな? フリューネ家が独立を決めたなら、オプスブル家も彼女の決断に従うことは分かってる。でも、今の状況でボクの指示を聞くやつが、どれだけいるんだ?)
レイはそう思うと、視線を下げて手のひらを見つめた。
汚れていない手は、今までも血で染めたことはない。
そんな彼とは違い、オプスブルに忠義を誓っている者たちは、何かしらの形で手を血で染めている。
そのことを思えば、彼の中では不安が募り、ルカを思えば立場の違いを突き付けられる。
「レイ、心配しなくても、すぐには行動しないわよ。今はルカの方が先よ。それだけは、間違えないでちょうだい」
まるで全てを察したようにレティシアが言うと、レイは視線を上げて彼女の顔を見つめた。
真っすぐなロイヤルブルーの瞳は、淡く揺れ動き、彼女も不安なんだと彼も気付く。
「ルカならさ、きっと今のレティシアを支えるんだろうなぁ」
「そうね、だけど……ルカもきっと不安になるはずよ。だから、レイはレイにできることをすればいいのよ。それに、アランの話だけど、多分……」
レティシアが言い淀むと、レイは眉をわずかに寄せ、「多分?」と言って首をわずかに傾けた。
重い息をレティシアは吐き出すと、足元を見つめ、覚悟を決めて話し出す。
「多分……ルカの記憶が戻っていない状態で、私か彼に危険が及べば、闇の精霊がルカの体を動かすわ。仮にそうなった場合、彼の精神が再び闇の精霊と入れ替わるのかどうかは定かじゃない……もしかしたら、そのまま入れ替わらない可能性もあると私は考えているわ。だから、今は悟られないように独立の準備を進めつつ、リスライベ大陸に行く方法を探して、私たちにできることをやるべきよ」
「ニルヴィスの方はどうする?」
レイが淡々と尋ねると、ふとレティシアが視線を上げた。
「彼には予定通りに動いてもらうわ。独立をするにしても、しないにしても、裏で誰が動いていたのか知っておいて損はないもの」
「確かにな……それじゃ、目途は最初に話していた一ヵ月か……」
「そうなるわ。それ以上は匿えないし、ルカを危険に晒すことになると考えれば、準備が整っていなくても、私たちは海を渡るしかないわ」
そう言ったレティシアの声は芯が感じられ、レイは固く拳を握った。
「分かった。それじゃ、ボクは……ボクは……」
レティシアはレイが言い淀むと、静かに彼を見つめた。
本来であれば、彼が残ってルカの代わりを果すべきだ。
頭ではそれが正解だと分かっていても、レティシアは彼の気持ちを考えると息を吐き出した。
そして、彼に微笑みかけると、できるだけ優しく話す。
「一緒に行きたいのでしょ? それなら、ジョルジュに話してみなさい。今の彼なら力を貸してくれると思うわ。多分、アランに力を貸したのも彼だと思うから」
レイは涙を目に溜めると、震える唇を軽く噛み締めた。
今ルカと離れてしまえば、次に会った時は闇の精霊かも知れない。
そんな小さな不安から、彼はルカと離れたくなかった。
だからこそ、彼女の言葉が嬉しいと思い「……ありがとう」と感謝を伝えた。
「気にしなくていいわ。はぁ……私もニルヴィスが持っていくお土産を考えながら、必要だと思う物を準備するわ」
どこか疲れた様子でレティシアは言うと、その場に腰を下ろした。
そして、空間魔法からいろいろ取り出し始めると、床に並べ始めた。
「ここで作業するの?」
鼻声でレイが尋ねると、レティシアは静かに「ええ」と短く返事した。
「記録を残す物なら、ボクの方で用意できるけど?」
「それだと、絶対気付かれないとは言えないわ。それなら、新しいものがいいわ」
淡々とレティシアが答えると、彼女は緑の宝石が付いたブレスレットに付与を始めた。
指先から伸びる魔力の糸は、微かな揺らぎもなく文字を刻む。
キラキラと光を発しながら流れる魔力は、そこに存在するのにしないようにも見える。
刻まれる文字が何を意味するのか、それは細かすぎて目視で確かめるのは困難だ。
時間は静かでありながらも、刻一刻と過ぎていくように外の景色の色を少しずつ変えていく。
ふぅと息を吐き出した声が聞こえたかと思えば、彼女は別の物に付与を始めている。
「ボクにも手伝えることは」
「ないわ。今は静かにしてて」
レイの言葉を遮るようにレティシアが言うと、レイは深くため息をついた。
そして、彼は彼女が作業している姿を、静かに見守るしかなかった。




