第159話 紅茶の香りと光陰
レティシアとレイはティーサロンの店から出ると、手で西に傾き始めた太陽を隠した。
優しくも厳しい太陽の光は、建物の後ろに長い影を造り出す。
通りの店には人々が集まり、楽しそうな声が聞こえてくる。
歩き出した2人はたわいもない話を続け、テラス席からは紅茶の香りと甘い香りが漂ってくる。
溢れる声は賑やかでありながらも、時折賑やかな声に交じって影を落とす声も聞こえてくる。
2人は話しながらも耳を澄ませ、できるだけそのような話を耳に入れている。
『どうやら、ルカが目を覚まさないという話が広がってるのは、本当のようだね』
レイは、口では別の話をしながらもテレパシーを使ってそう言った。
レティシアも口ではレイに返事をしつつ、テレパシーで返答する。
『そうね。対抗戦中にあなたの姿を見た人は少ないけれど、私が棄権したことも、憶測を立てる要因になってしまったようね』
『両家にとっては、レティシアの判断は正しかったと思うよ。まぁ、ルカが結晶化してるという話は、噂でも気に入らないけどね』
『同感だわ。噂や憶測には願望も含まれることがあると考えれば、中にはそう願っている者がいるということだもの。気分が悪いわ』
表情は口頭に合わせてコロコロ変わり、淡々とした様子で話すテレパシーとでは温度差が感じられる。
しかし、2人から違和感は感じられず、当たり前のように双方で会話が繰り広げられている。
彼らを包む空気は街並みに溶け合い、行き交う人々も彼らのことを気にしている様子はない。
レイとレティシアがさらに歩みを進めると、ふと前方から歩いてくる人物に目が留まった。
金の髪は風に揺れ、彼の存在に気付いた人々は彼と少しの距離を開ける。
彼の近くには、ダークグリーンの髪をした男性が立っており、腰には剣が添えられている。
「やぁ、レティシア、ここで君と会うとは思わなかったよ」
レティシアは彼の姿を見て、(話しかけてくるな)と考えていた。
それだけに、ルシェルに話しかけられると、思わず内心でため息をついた。
しかし、それを顔に出すことなく、彼女は落ち着いて話し始める。
「私も、ルシェル殿下とお会いするとは思っていませんでした。今日はお忍びで来ているので、これで失礼します」
淡々とした様子でレティシアが告げると、微笑んだままルシェルは一瞬目を細めた。
そして、彼はスッとレティシアの前に移動し、彼女の横にいる黒髪の少年に視線を向けた。
どこか冷めた目で上から下まで見た後、貼り付けたような笑顔で彼は訪ねる。
「そっちの少年は、レティシアの新しい護衛かな? それとも、臨時の護衛なの?」
レティシアはルシェルの言葉を聞き、心底呆れてため息をついた。
お忍びだと言ったのも目立ちたくないためであり、目立つルシェルとは話したくなかったからだ。
それにもかかわらず、彼はそんなレティシアの思いを無視し、話を続けようとしている。
その無遠慮さや配慮のなさが、彼女の中で小さな苛立ちを生んだ。
「それがルシェル殿下となんの関係が?」
ルシェルは冷たい彼女の声を聞くも、そこも愛しいと感じた。
昔と変わらない彼女の強さが彼の胸の高鳴りとなり、困ったように偽って彼は尋ねる。
「知りたくなったから……じゃ、ダメかな?」
「そうですか。では、答える義務はありません」
レティシアは冷たく言い切ると、ルシェルを避けて歩き始めた。
すると、「待って」という声とともに、彼女の腕はルシェルによって掴まれた。
一瞬の静寂が2人を包み込むが、どちらとも動きがないようにも見える。
しかし、蔑むような目でレティシアは掴まれた部分を見つめ、ルシェルは彼女に向かって微笑を浮かべている。
「再来月にある皇帝陛下主催の茶会、僕は君のためにドレスを用意している」
「だからなんですか? ルシェル殿下が勝手に用意したんですよね? 私とは関係ないと思いますが?」
優しく柔らかい声で言ったルシェルに対し、レティシアから返ってきた声は冷たかった。
ルシェルの方から息が吐き出される声が聞こえ、彼は前髪を少しだけかき上げて口を開ける。
「招待状は届いたはずだよ」
「ええ、今日届いていましたが、結果は同じだということです」
レティシアは届いた招待状を丸め、すでに燃やしている。
何度、同じように皇帝主催の茶会の招待状が届こうとも、彼女はそれに参加するつもりはない。
それは、領民のことを考えていなかったり、彼女の立場を理解していないからじゃない。
自分の立場を理解し、領民のことを考え、自分の気持ちも考えた上で出した答えだ。
レティシアがルシェルの腕を振り解くと、そのまま歩き出した。
すると、「待って!」という声と共に、再び彼女の腕はルシェルによって掴まれた。
その瞬間、彼女はルシェルに向き直り、彼の瞳を冷たい視線で見つめ、ルシェルは静かに彼女を見つめ返した。
彼女が振り解こうとすると、ルシェルの手にはわずかばかり力が入る。
「放してくださいますか?」
レティシアの冷え切った声が静かに響くと、ルシェルは鼻で笑った。
彼はレティシアを掴んでいる手を一度見ると、再び彼女に視線を戻した。
そして、首を少し傾けて「いやだと言ったら?」と言って微笑んだ。
2人の視線がバチバチとぶつかり、見ていただけのレイがため息をついて一歩踏み出した。
その瞬間、カチャッと甲高い小さな音と共に「動くな」と低い声が聞こえた。
「ええ、ボクは自分の仕事をしようとしただけなのに……」
レイは両手を上げて、疲れたように言った。
印璽が使われた手紙が、レティシアに届いていたことを彼は知らなかった。
けれど、それに対する驚きは彼には一切ない。
彼女が話さなかった理由も、単純に話すほどでもないからだとレイは推察している。
しかし、このままの状況では、彼女が怒るだろうと考えれば、面倒でも動くしかなかったのだ。
「今はルシェル殿下が話しております。少し立場を弁えてもらいたい」
「立場を弁えるのは君じゃなくて? 君、アルディレッド伯爵家の長男でしょう?」
レイが淡々とした態度で言うと、男性は眉を顰めた。
上から見下ろすようにレイを見つめ、蔑むような視線を向けている。
それでも、男性を見上げるレイの瞳は真っすぐで、一歩も引く気がないようにも見える。
「それが、どうした? 侯爵という地位に守られているだけで、大した実力もない癖にほざくな」
「黙りなさい。これ以上、レイに対する侮辱は許さないわよ」
男性はレティシアの冷たい声を聞き、思わず鼻で笑った。
彼女から感じられる魔力量は少なく、同時に黒髪の少年から感じられる魔力も少ない。
フリューネ家に居る末弟を思い出せば、フリューネ家は実力のない者に優しく、無能ばかりが集まっているんだと彼は思った。
しかし、ふとルカのことが頭を過ぎると、実力がある者たちが弱者に勘違いさせているんだとも思う。
「フリューネ家はどうやら、実力がない者を好んで自分の騎士にしてるようだな」
「フレデリック、それ以上は辞めるんだ」
ルシェルが大きめな声で言うと、男性は眉を顰め息を吐き出した。
「ルシェル殿下がそういうのでしたら……出過ぎた真似をしてしまい申し訳ありません」
「もうよろしいかしら? そろそろ、帰りたいのだけど?」
レティシアは冷たく尋ねると、腕を振り解こうとした。
その瞬間、彼の手に力が入ったのを感じ、彼女は今の状況にうんざりしてため息をついた。
そして、視線を上げてロイヤルブルーの瞳にルシェルを映すと、彼をキッと睨んだ。
「レティシア、君は再来月開かれる皇帝陛下主催の茶会に参加すべきだ」
「ですから!」
「ルカは目覚めてないんだろう? それに、ルカにはもう婚約者がいる。そのことを考えれば、君はルカの側にいるべきじゃないし、君は茶会に参加すべきだ」
レティシアの話を遮り、ルシェルは微かに笑みを浮かべて言った。
彼の瞳には彼女の姿が映り、彼女が腕を引くたびに、彼は力を込めているようにも見える。
彼女の顔が微かに歪む度、ルシェルの表情からは彼が何を考えているのか分からない。
「分かりました。考えておきます」
「それじゃ、ドレスはできたら君の家に届くようにするね」
レティシアはルシェルがそう言った瞬間、彼の手が緩んだのを見逃さなかった。
彼女は彼の手から逃れると、冷静にすぐさま一歩下がって彼と距離を取る。
そして、「分かりました。それでは、これで失礼します」と言うと、背を向けて歩き出した。
掴まれていたところを擦り、時間を掛けてゆっくりと息を吐いていく。
『……何か逆に怒らせて悪い』
『目先の実力しか見ていない者が、私のことで何を言っても興味がないわ。だけど、私のために動き、私のことを考えてくれる者を悪く言うは許さない。それだけのことよ、気にする必要はないわ』
頭をかきながらレイが言うと、レティシアは淡々と答えた。
彼女の瞳は何も語らず、彼女の言ったことが彼女の正直な気持ちなのだろう。
歩く彼女の後ろには長い影が落ち、風になびく髪は太陽に照らされ輝いて見える。
人々は2人を避け、通りは彼らが通り過ぎると賑わいを取り戻す。
淡々と馬車が止まっている方に向かう彼らが、話している様子は見受けられない。
しかし、レティシアが時折顎に触れたり、レイが考えるような仕草をしていた。
レティシアは、馬車を降りるとそのまま騎士団がいる宿舎へと向かった。
伸びた背筋は彼女の覚悟を物語、前を向く彼女から迷いは感じられない。
草木は風に揺れ、柔らかく彼女に木漏れ日をこぼす。
騎士団の人は彼女とすれ違うと頭を下げ、彼女も軽く頭を下げる。
いつもと変わらない日常がそこにはあって、明日も変わらず時間が過ぎていくことを教える。
レティシアは宿舎に入ると、ゆっくり歩きながら辺りを見渡した。
彼女が歩く度、足元の床は彼女が来たのを知らせるように、小さな音を鳴らす。
静まり返った宿舎は時代を感じさせ、今までここに住んできた人々の息遣いが聞こえてくるようだ。
彼女は執務室のドアの前に立つと、優しくドアをノックした。
すると、扉は開かれ、髪をオールバックにしたロレシオが顔を見せた。
「レティシア様? どうかなさいましたか?」
「少し来たかっただけよ。入って良いかしら?」
「はい、大丈夫です」
「忙しいときに悪いわね」
レティシアは優しくそう言うと、足音も立てずに執務室の中に入った。
執務室に広がる紙とインクの匂いが彼女の肺を満たし、窓から差し込む太陽の光は柔らかく感じる。
辺りを見渡して瞳を閉じれば、こことよく似たフリューネ領にある執務室が瞼の裏に浮かぶ。
騎士団の全員と一緒にいた時間は短いが、彼らの優しさをレティシアは知っている。
(あれから、私はどれだけ強くなったのかな……案外、自分じゃ分からないものね。――多分、ルカがモグラの存在を見逃してたのは、情報を得るためだけじゃない……)
レティシアはそう思うと、ソファーに腰を下ろした。
ペンが紙の上を走る音が室内に響き、それすらも懐かしく思える。
彼女は息を吐き出し、ロレシオの方を向いて口を開く。
「ロレシオ、悪いのだけどレイの部屋に行ってくれるかしら? 彼から話があるみたいなの」
「かしこまりました」
首をかしげながらロレシオは言うと、ペンを置いて立ち上がった。
彼が歩く音が執務室に広がり、ドアを開けて出て行くと執務室の空気は変わる。
時計の針がカチカチと音を鳴らし、懸命に静寂を打ち消している。
細く長い針が必死に時間を進め、10回周った頃でも変わらずに走り続ける。
「あれ? レティシアちゃんどうしたの~? 帰ったらルカ様の所に来ると思ったのに」
「そうね……それよりもやりたいことがあったの」
レティシアはニルヴィスが入ってくると、微かに微笑んで返事を返した。
「ふぅ~ん。お茶入れるけど飲む?」
怪しむようにニルヴィスは聞くと、「ええ、お願いするわ」とレティシアの声が聞こえた。
彼は微笑を浮かべると、紅茶を入れるために執務室にある小さなキッチンへと向かう。
暫くすると、コポコポとお湯が沸き、彼は丁寧に紅茶を淹れ始める。
彼女の喜ぶ顔を想像しながら茶菓子を選び、それをかわいらしい皿に乗せた。
セットになっているティーカップとソーサーをトレイに乗せ、皿とポットも乗せると彼はそれをもって彼女の元に戻る。
静かに窓を見つめている彼女の瞳は煌めき、ニルヴィスは幼い頃の彼女を思い出して微笑んだ。
彼はテーブルにカップと茶菓子が乗った皿を置くと、カップに紅茶を注いだ。
執務室には紅茶の香りが広がり、彼女が息を吸い込む音が聞こえた。
「ねぇ、ニルヴィス。ところで、アルノエはいつ頃来るかしら?」
そう尋ねたレティシアの声はあまりにも冷たく、ニルヴィスは一瞬自分の耳を疑った。
初めて聞いた彼女の冷徹な声は、仕事をしている時のルカと重なる。
そして、顔を上げて彼女を見ると、窓の外を見つめるロイヤルブルーの瞳は氷のようだった。




