第147話 不調和音の中で
少女は涙で滲む視界を、何度も手で拭きながら走り続けていた。
2つにまとめた髪は水分を含んで重く感じ、通り過ぎていく景色は色を失くす。
雨は彼女を孤立させ、行く手を阻むかのように彼女を叩きつける。
彼女の遠い背後にどのような景色が広がっているのか、今の彼女には分からない。
振り返らないと決めた決心が揺らぎそうになるも、友の顔が浮かび涙が流れる。
(早く! 速く! 一秒でも早く、殿下たちに伝えないと、みんなが……)
今にも泣き叫びたい気持ちを堪え、彼女は必死に重たい足を動かしている。
一方、その頃合流地点では、少女の甘ったるい声が響いていた。
「ルシェル殿下、もおぅ移動しませんかぁ? ララ、洋服が雨に濡れてぇ、不快に感じてるんですぅ」
微かに微笑んでいたルシェルは、目に涙を溜めたライラがそう言うと、一瞬だけ感情のこもっていない視線を彼女に向けた。
しかし、彼はすぐに困った表情に変えて、彼女の方を向くと手を伸ばす。
そして、掴まれた腕を払うでもなく、彼は彼女の顔についた雨粒を手でふき取っていく。
「ララ、さっきも言ったけど、最初に合流地点はここだと決めてるから、僕たちだけの判断だけでそれはできないんだよ」
少し離れた木の下で、その様子を見ている少年たちは、呆れた様子で首を左右に振ると冷ややかな視線を向けた。
彼らの視線の先には、青いマントで屋根を作り、その下で雨宿りしている一組の男女が映っている。
濡れた服は徐々に体温を奪い、それでも聞こえる声にいら立ちが募って体温が上がる。
不快な気持ちがさらに不快に感じられ、腕を組んでいるティノから思わず本音がこぼれる。
「また始まったのか」
シリルは慌てた様子で右手を伸ばし、ティノの左腕を掴むと、「おい!」と小声で強めに発言した。
「シリル、だって本当のことだろ? 何回このやり取りを繰り返せば気が済むんだよ」
ティノは呆れたように息を吐き出すと、ルシェルとライラから視線を外した。
彼の左側からは、小声で「そうだけどさ……」と言うシリルの声が聞こえ、彼は再びため息をついた。
彼らがここに到着して、かれこれ2時間半は立とうとしている。
対抗戦が始まってから降り始めた雨は止むことを忘れ、雨脚は強まるばかりだ。
天候がもたらした不快感に加え、仲間の心配もしないライラに対する怒りもあるのだろう。
彼らからは苛立ちが感じられ、張り詰めた空気が流れている。
静かに腕を組んで目を瞑っていたアルフレッドは、周囲の音を注意深く聞きながらも、彼らの会話を聞いていた。
この場にいる者が黙ると、再び周囲の音が時を数えるように彼の耳に届く。
雨が葉に落ちる音は不規則になり、どんなに耳を澄ませても聞こえない。
しかし、雨に掻き消される音の中に、爆発音や魔法らしき音も時々耳に届く。
待つことしかできない思いとは裏腹に、確実に時間は刻一刻と進んでいる。
暫くすると、同じ会話が繰り返され、アルフレッドは10分前にティノが言った言葉を思い出した。
そして、小さく「確かにな」と呟くと考えるそぶりをした。
彼は一瞬だけ息を整えると、静かにルシェルへと視線を向け、冷静な口調で問いかける。
「兄さん、少しライラ嬢に対して、甘過ぎなんじゃない?」
「アルフレッド、レティシアたちの到着が遅れていることで心配する気持ちも分かるし、それに苛立ちを感じるのは仕方ないとは思う。だけど、ララの気持ちも考えてあげなくちゃ」
ルシェルは一瞬だけ困ったように眉を顰めたが、軽く息を吐き出して優しい口調で答えた。
それは、まるで子どもに言い聞かせるように優しく、とても落ち着ている声だった。
2人の間にはわずかな間が空き、そこに吹き抜ける風はまるで2人の溝を映し出す。
アルフレッドはルシェルの言葉を聞き、舌打ちすると「なんも分かってねぇよ」と小さく呟いた。
しかし、彼は視線をライラに向けると、冷静でありながらも彼女に対し言葉をぶつける。
「ライラ嬢、フリューネ家に行った時も思ったけど、ライラ嬢はもう少し自分の発言を考えた方がいいんじゃないの?」
「アルフレッド殿下、ひどいですぅ! そんなにララのことをいじめたいんですかぁ?」
目に涙を溜めたライラは、そう言うとギュッとルシェルの腕に縋るように抱き付いた。
程よい筋肉質な腕は一瞬強張るが、それに気が付いた彼女は彼の心理など些細なことだと感じた。
しかし、彼女は明らかな敵意をアルフレッドから感じ、わずかに肩が上がる。
振り続ける雨でアルフレッドの顔はハッキリと見えないが、稲妻が彼の代わりに鳴ったのだとすら錯覚する。
「そういう別けじゃないけど、ライラ嬢の発言は身勝手だと言ってるんだよ」
アルフレッドはそう言うと、少しだけ内心では驚いていた。
自分では落ち着いて話していると思っていたのにもかかわらず、発した声があまりにも冷たかったからだ。
そのため、彼はライラに対して鬱憤や苛立ちを、思っていた以上に募らせていたのだと改めて自覚した。
しかし、皇子として態度に出してしまったのは、どうなのかとも悩んでしまう。
「アルフレッド、そんなにララのことを責めないであげて、かわいそうだよ?」
ライラの様子とアルフレッドの声から、ルシェルはそう言うとライラの背中をなでた。
この場で、ルシェルの行動や思考を理解できる者はいない。
だが、彼の行動や言動を疑問に感じている者はいる。
再び雨音だけが耳に届き、その場には静寂が訪れた。
けれど、それは今まで元は違い、息が詰まるような感覚さえ与えた。
だが、その静寂を破るかのように、突如遠くから足音が近付いて来る。
雨音に搔き消されるかのように微かに聞こえていたその足音は、次第に大きくなり、息を切らせた少女の姿が現れた。
その瞬間、ホッとした雰囲気がその場に流れるが、泣きだしてしまった少女以外に誰も後から来ない。
「ア、アルフレッド殿下……た、大変です……」
エミリその場に座り込み、泥で汚れた手で溢れる涙を拭き、嗚咽を漏らさないように必死に堪えている。
スカートの下から見える膝には血が滲み、雨に乱れた髪は汚れている。
それでも彼女はアルフレッドを瞳に映すと、息を整える間もなくアルフレッドたちに向かって叫んだ。
彼女の目には強い決意が宿っており、疲労と焦燥が入り混じった表情だった。
「レ、レティシア様が……レ、レティシア様たちが危ないんです!」
1人を除いた4人の視線が一斉にエミリに向けられ、彼らの表情には焦りが見える。
「何があったんだ、詳しく教えてくれ!」
アルフレッドはエミリに駆け寄ると、真剣に彼女の話に耳を傾けた。
必死に息を整えながら、先ほどまでの出来事を断片的に語り始めた彼女は震えており、彼女の緊張と恐怖が彼にまで伝わる。
それでも、彼女の声は雨音に負けないほどの切迫感に満ちていた。
「……レ、レティシア様が……状況を伝えろと……」
その言葉を聞いた途端、アルフレッドや周囲の少年たちの顔に緊張が走った。
状況を伝えろと言うことは、班のリーダーに状況を知らせ、棄権を求めることでもある。
そうすれば、外部からの支援を受け入れやすくなり、このような緊急事態にも対応してもらえる。
しかし、それは同時に対抗戦の成績はなかったことにされる。
「分かった……。兄さん、棄権してくれ」
短くも言い切ったアルフレッドの顔には迷いがなく、それと同調するようにティノとシリルも頷いた。
「えぇ~それって、成績が残らないことですよねぇ? お姉さまぁのわがままでみんな棄権になるってぇ、ちょっとぉひどくないですかぁ?」
ライラは不貞腐れたように言うと、ルシェルに甘えるような視線を向けた。
「そうだね、確かにレティシアの言葉だけで判断し、棄権するにはみんなの将来が掛かり過ぎてる」
ルシェルはライラを軽く見ると、そう言って軽く視線を落とした。
対抗戦の影響で苦戦を強いられている可能性も考えれるが、レティシアの傍にルカの姿がチラつき、彼は息を吐き出した。
下げられた視線には、燃えるような炎が見え、レティシアのことを思えば胸は甘く傷む。
だが、ルカと彼女の信頼関係が崩れれば良いと思うと、意識していなければ笑みが零れそうになる。
「で、ですが……」
「エミリの言ってることは理解できるけど、全員分の将来を君は背負えるの?」
「い、いえ……む、むりです。で、ですが!」
エミリは涙を拭きながら答えると、自分の無力感に押しつぶされそうになった。
学院に通っていても彼女は庶民であり、貴族の将来など背負えるわけがない。
それゆえ、たとえ貴族であろうとも、皇族に切り捨てられる可能性があることを知った。
その事は、彼女から皇族に対する信頼を奪い、ただただ今も戦い続ける仲間の無事を願う思いに変わる。
「兄さん、さっきの話ちゃんと聞いてた? 刺客が送り込まれてるなら、相手はぼくたち学生とは違ってプロだ!」
アルフレッドは呆れたように話し出したが、レティシアたちのことを考えると、徐々に怒りに変わった。
レティシアとカトリーナは貴族だが、彼女たちのような貴族が帝国を支えている。
そして、それは庶民であるリズも変わらないことだ。
簡単に割り切って良い話ではないと、彼は感じていた。
「うん、ちゃんと分かってるよ? だけど、それをどうにかする力をフリューネ家は持ってるよね?」
淡々とルシェルが告げると、ティノがいる方から鼻で笑う声が聞こえた。
一瞬の静寂が支配し、それはさらなる重みに変わる。
「呆れた。本当に皇子の言葉かよ」
ティノは不意に言い捨てると、場の雰囲気がピリつき、他の者たちの気配から緊張が走ったのを感じ取った。
それでも、真っすぐにルシェルを見つめ、意識的に視線を逸らさない。
握られた拳は震え、皇族に対する不適切な発言による恐怖も交じる。
けれど、少しでも悟られないように、彼は胸を張って言葉を続ける。
「もし、棄権しないのであれば、オレたちが取らなきゃいけない行動は2つ」
ティノは右手の人差しを立てると、一呼吸おいて話し出す。
「1つ、完全にレティシア嬢、カトリーナ嬢、リズ嬢を完全に切り捨てる」
続けて右手のな指を立てると、指が2本並ぶ。
「2つ、彼女たちの支援に向かう、この2つに1つだと思うんだけど?」
重苦しい空気が流れ、雨は彼を孤立させていく。
しかし、突如パンッと手をたたく音が聞こえると、この場に相応しくない甘ったるい声が響いた。
「それならぁ、助けに行けばいいじゃん! うん! そうだよぉ、そうした方が良いよね! ね! ルシェルでんかぁ、助けに行きましょぉ?」
ライラは明るくそう言うと、ルシェルの腕に絡みついた。
そして、ルシェルが「ララがそう言うなら……レティシアたちの支援に向かう」と言うと、彼女はニヤリと笑みを浮かべた。




