第144話 影に潜む脅威
雨が降る森の中、レティシアは周囲に注意を払いながら走っていた。
先に行かせた3人の少女たちに追い付くため、止まることなく前へと進む。
しかし、先に行かせた少女たちの痕跡が見当たらず、彼女の顔には徐々に焦りの色が浮かび始める。
(すでに会場に学院の者以外が忍び込んでいるなら、最悪の場合は……)
いやな想像が次々と湧き上がり、不快な汗が頬を伝うと、彼女は強く歯を噛み締めた。
それでも眉尻は下がり、払拭するかのように頭を何度も左右に振っている。
(落ち着いて考えなきゃ……きっと私からの合図を見て、ルカがこの森に来てくれているはずだわ……大丈夫よ)
まるで自分に言い聞かせるように、レティシアはそう思うと前方を睨んで足を動かす。
森の中は不気味なくらいに静まり返り、雨の降る音しか聞こえないことが余計に不安を煽るようだ。
しかし、突如ハッとした様子で彼女が足を止めると、咄嗟に後ろに跳び退きながら、足元に向かって水壁魔法を使った。
その瞬間、地面から伸びた地属性の槍が足元に広がった水壁に衝突した。
槍が水に突き刺さる鈍い音と、硬い土が砕ける重い音が森の中に広がり、続けてズッズーっという音と共に少女が地面に降り立つ。
そして、すぐに辺りを見回し、攻撃した者を探そうと神経を集中させた。
だけど、どんなに耳を澄ませても、気配が感じられない。
雨音しか聞こえない中、彼女は舌打ちすると木の上へと登り始める。
もし攻撃してきた者の得意属性が地属性であるなら、この森は相手にとって有利だ。
木に登ったからといって、地属性と対等な立場になったわけではない。
(もし、今のがあらかじめ仕掛けた罠なら、敵が近くにいなくて当たり前よ……だけど、あれは明らかに仕掛けられたものじゃないわ……敵が近くに隠れていると考えるべきね)
冷静な頭でレティシアはそう思うと、目を皿のように見開いて辺りを見渡した。
木の上からの視界は、先程よりも枝によって遮られている。
それでも足元の視界が明確になり、地面からの攻撃を避ける時間は充分だ。
しかし、地上からの攻撃だけではなく、空からの奇襲攻撃も考えられる。
そのため、彼女はゆっくりと目を閉じると、遠くの音まで拾えるように耳を澄ます。
(さっきの攻撃は、この雨にもかかわらず濡れてない土が紛れていたわ。そうなると完全に地属性の魔法……それなら雨と風が匂いを消し去るまで、1番頼りになるのは耳からの情報よ)
微かな音も聞き漏らさないように、彼女は自分の息遣いに気をつけ、早くなる鼓動を落ち着かせた。
次第に彼女の気配は極端に薄まり、近くの巣にいた鳥が彼女の肩に乗る。
まるで思考を止めたかのように彼女は動かず、静かで穏やかな時間が流れる。
トンッと数メートル先でわずかな物音が聞こえたが、それでも彼女が動くことはない。
その物音の正体が分からない以上、味方の可能性も考えられる。
緊張感に包まれても不思議ではない状況にもかかわらず、彼女の息遣いすら落ち着ているようだ。
暫くして、トンットンッとわずかな足音が近付いて来ると、彼女は瞼をゆくっりと上げる。
(この足音と気配に息遣いまで、私の記憶にある人物とは合致しないわ……それなら、確実に外部の人ね……)
音が聞こえた方に向けている瞳は色を失くし、彼女から漂う雰囲気は息を呑むほどに静寂に包まれている。
葉に打ち付ける雨は先程よりも強くなり、地面には無数の小さな窪みができている。
雨の匂いが肺を満たし、彼女の匂いも消し去っているが、それは敵も同じことだ。
しかし、彼女はスーッとさらに空気を吸い込むと、空に向かってふーっと息を吐き出しながら自身の魔力を乗せた。
すると、次第に打ち付ける雨はひんやりとし始め、吐き出される息はわずかに白さを帯びる。
(さぁ、これで対等になったわよ……姿を見せないあなたはどう出るのでしょうね)
鋭い眼差しで一ヵ所を見つめながら、ほんのわずかに彼女の口角は上がった。
一方、黒服を全身に纏った男性は腕を摩っていた。
レティシアがどこに居るのか分からず、彼は周囲を見渡すが全く気配を感じられない。
(依頼者から、ターゲットのことを調べる時間は与えてもらえなかったけど、1人の少女に対して依頼人も警戒し過ぎなんだよ。対抗戦中、彼女の護衛が会場まで入って来ないなら、こんな大会めちゃくちゃにしたって問題ないのに、いちいちやり方が回りくどいんだよ)
男性は木の陰に隠れながらそう思うと、息をついて疲れた様子で木に寄り掛かった。
5月にしては気温も低く、凍えるような雨が徐々に体から熱を奪っていく。
彼は懐から小さな人形を取り出すと、しばし見つめた後、強く目を瞑りながら握りしめた。
そして、祈るようにして口元に運び「必ず助けるからな」と声にならない声で囁いた。
再びゆっくり目を開けると、わずかに赤くなった目で小さな子が好きそうな人形を見つめた。
軽く人形をなでる指は微かに震え、それでも覚悟を決めたように息を吐き出すと人形を懐に戻す。
ふと木の影から先程魔法が発動した場所を再び覗くと、彼は目を見開いて木の影から出てしまう。
(おいおい、嘘だろ……確かに水属性と雨は相性が良いけど、雨が降っている日に地面を凍らせるのは至難の業だ……それにもかかわらず、溶けるどころかその厚みが増してるだと?)
男性は目の前で起きていることに、驚きのあまり一歩も動けずにいる。
直接彼女が凍らせたのなら、それは不自然ではない。
しかし、今の状況は雨に魔力を含ませ、凍らせているのだと分かる。
彼の額からは大粒の汗が流れ、喉が一度上下に動く。
雨が降っている日に地面を凍らせることは、自然の状況下ではほぼ不可能だ。
なぜなら、雨が降ると地面の温度は通常、氷点下にはならないからだ。
(通常、雨水は暖かくて地面を冷やさない、それどころか暖める傾向がある……それなのに……ックソ、誰だよ警戒し過ぎだってバカにしたやつ)
そう思った男性はバッと方向を変え、標的から距離を取ろうと木から木へと急いで移動を始める。
肺に入ってくる空気は氷のように冷たく、彼は咳払いすると目の下まで襟元で覆った。
それでも、濡れてしまっている服は水分を含み、襟元までその水分が浸透していて呼吸が苦しい。
(襟元で口元を覆わなければ、まるで瞬間的に肺が凍り付いてしまいそうだ……それなのに……クソッ)
男性は苛立った様子で口元を覆っていた襟元を下ろすと、ぷはっと空気を肺に含んだ。
だが次の瞬間、彼は眉間にシワを寄せると、立ち止まって何度も咳を繰り返す。
顔は赤く染まり、涙を溜めた目は充血している。
雨音以外ない静寂に包まれた森の静けさが破られ、彼は必死に口元を腕で覆う。
しかし、少ししてからトンッと彼の背後で小さな足音が聞こえ、思わずビクッと肩を少し上げ目を見開いた。
「初めましてよね? あなたの依頼者を教えてほしんだけど、まだ話せるかしら?」
幼い声が背後から聞こえて彼の鼓動は早くなるが、それは呼吸を苦しくさせ咳を止められない。
それでも彼はゆっくり振り返ると、青い瞳が彼のことを見降ろしている。
「空気中に飛ばしていた氷の粒子に気付かれにくくするために、地面を凍らせてそちらに意識を向けさせたの。なんの対策もしないで、氷の粒子を吸い込むのは苦しいでしょ?」
「な……んで……ゴホッ、俺が……対策」
男性は咳をしながらも、必死に声を絞り出す。
けれど、言葉は綺麗に繋がらず、目の前にいる少女は微笑を浮かべる。
「なんで対策してないの分かったかって? それは、普通そこまで考えないからよ。少なくとあなたは1人で来てるわ。そのことを考えれば、あなたは最初から私を格下に見ていたはずだわ。そんな相手は、驚きを与えてあげれば、他のことに注意を払う可能性は低いのよ」
男性は目に涙を溜めて彼女を睨み付けるが、両膝は無残にも地面に降ろされた。
「あなたが話すと言うなら、私はあなたの肺に入ってしまった氷の粒子から魔力を解くわ。だけど、あなたが話さないと言うなら、そのまま肺が内側から凍り付いていく苦しさを、あなたは最後の瞬間まで味わうことになるわ」
淡々とレティシアが告げると、続けて彼女は「どうする?」と首をかしげて尋ねた。
目の前に立つ少女の瞳には温かみを感じられず、男性は全身の毛が逆立つ感覚を味わった。
しかし、彼は胸元を押さえる手で強く服を掴むと、口からよだれを垂らしながら告げる。
「俺……が……ゴホッゴホッ……言うと……ゴホッ、思うかよ……ゴホッゴホッ」
彼の言葉を聞き、レティシアは大きくため息を吐き出した。
命令に忠実なのは、大抵は作戦が失敗すれば命の保証がないからだ。
それでも、依頼人のことを言わないのは、その仕事に誇りを持っているか、弱みを握られている可能性がある。
「そう、それならあなたはここで死ぬことになるけど、保護すべき人がいるなら今のうちに言うことね。きっとあなたが死ねば、私が手を下さなくても、その人もあなたと同じような運命を辿ると思うから」
レティシアが言い終わると、男性は表情を変えた。
そこには死への不安は感じられず、視線を落とした彼は左手を見つめている。
(間違いなく、戻ったところで俺は死ぬ……人質を取っておいて何が簡単な依頼だ……ごめん……兄ちゃんが助けてやれなくて……ごめん)
彼はそう思うと、妹と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡った。
笑顔が可愛い兄想いだった妹は、ある日忽然と姿を消した。
それは、街に2人で出掛けた良く晴れた日で、少しだけ妹の右手から手を離した、そんな僅かな時間だ。
数日が経った頃、彼女が最後に持っていた人形が家に届き、彼はこの依頼を引き受けるしかなかった。
悔しさが涙となって溢れようとした瞬間、レティシアの深いため息が彼の耳に届いた。
「あなた、私を見下してたんじゃなくて、依頼人から渡された私の情報が極端に少なかったんじゃない? だから、私を甘く見てた。それどころか、時間を掛けて私を調べようとしたら、対抗戦中は私に護衛がいないから大丈夫とでも言われていたんじゃなくて?」
呆れたようにレティシアが言うと、男性は青白い顔をして彼女を見た。
目は赤く充血し、それでも瞳が「そうだ」と訴えるようにも見える。
「残念だけど、私も護衛を任せているルカと同様に戦えるわ。それで? 誰が依頼人なのかしら?」
レティシアは魔法を少しだけ緩めると、途端に男性の方から激しく咳き込む声が聞こえた。
ゼェーゼェーとかすれた声で呼吸するが、彼女から向けられた視線は男性に突き刺さる。
「依頼人の……ゴホッ……顔は知らねぇ……名前もだ……」
「そう、それで何か有益な情報は?」
「ゴホッゴホッ……タトゥーだ……蛇のタトゥー……妹を、取られた……」
苦しげに男性が告げると、レティシアは考えるようにして顎に触れて目を細めた。
(さっき、3人と別れた後に戦った男にも、蛇のタトゥーがあったわ……今目の前にいる男性が、妹を人質に取られたことも考えれば、蛇のタトゥーをしている人物は複数いることになる……それに、この男性が準備に時間を掛けられなかったのを考えると、もしかしたら大勢の刺客がこの会場に送り込まれたのかも知れないわ)
「それなら、もし仮に私があなたの妹を助けたのなら、あなたは私に協力してくれるのかしら?」
「それは……ない。ゴホッ……どの道、命を狙われることになる……ゴホッゴホ……俺は使えない」
「あなたは、私に情報を提供してくれるだけでいいわ。その後は、落ち着くまであなたと妹の命も保証するわよ?」
男性はレティシアの言葉を聞き、思いつめるように視線を下げた。
そして、胸元を押さえる手で自分の胸ぐらを力強く掴むと、ゆっくりと口を開く。
「悪い……一方的な接触だったから……依頼人の情報は……タトゥー以外ないんだ……」
(彼が嘘を吐いているようには見えないわ……それなら、妹の引き渡し条件は、依頼に成功した時だけだと考えられるわね……)
レティシアが、暫く思い悩んでいると、見知った気配が近付いてくるのに気付いた。
途端に彼女は大きくため息をつき、困った様子で頭をかき始める。
それでも、時間は止まってくれるはずもなく、その気配がスーッと彼女の背後まで来ると、再び少女の口からは息が漏れた。




