第143話 対抗戦の裏で
対抗戦の開始の合図が鳴らされた後、貴賓席に座っていたルカは、深く息を吐き出して席を立った。
そして、貴賓ラウンジへと向かい、給仕している男性からグラスを受け取る。
用意された長いテーブルには、色とりどりの軽食が並び、観戦する貴族を気遣った物だろう。
暫くラウンジを観察した後、彼は学院に通う生徒たちの親族と話し始めた。
貴族である彼は、たとえ面倒だと思うことがあっても、貴族同士の交流がもたらす重要性を知っている。
しかし、レティシアたちと過ごす時とは違い、グラスを片手に話している彼は能面のように無表情だ。
あちらこちらで話し声が聞こえるラウンジは、賑やかな声とは違い、装飾はとても落ち着いて見える。
対抗戦の会場には、至る所に映像を映し出す魔法器具が設置されている。
給仕している者たちは、器用に片手でトレイを持ち、どこか落ち着いているようにすら感じられる。
その結果、対抗戦の様子が映し出されているスクリーンが、貴賓ラウンジと会場の温度差を物語っている。
ルカはラウンジ内で数人と会話を交わした後、ベラトル・アドガー伯爵と話していた。
彼がベラトル・アドガー伯爵との話に集中していると、1人の男性が笑みを浮かべながら近付いてきた。
「オプスブル家は、いつからフリューネ家の関係者になったんだ?」
耳障りな声が聞こえると、ルカは内心でため息をついた。
しかし、彼の表情が変わることはなく、無表情のまま男性の方を見る。
「俺は、直接レティシアから頼まれたんだ。何を勘違いしてるのか分からないが、俺たちは敬語を使わなくていいくらい、親しい間柄でもないと思うが?」
ダニエルは一瞬だけ顔を顰めたが、すぐにぎこちなく笑みを浮かべる。
「勘違いしてるのは、俺じゃなくてお前だろ。年頃の娘がいる家に、婚約もしてない男性が入り浸ってるんだ。親の俺には、それについてお前に言及する権利がある」
彼の言葉に、ルカは表情を変えずにいたが、グラスを持つ手には力が入ったように見えた。
ダニエルの指摘は、親としてなら決して間違ってなどいない。
レティシアが帝都に着いた当初、ルカも婚約者でもない彼が一緒に住んでいいものかと戸惑ったものだ。
それでも、結局のところ彼はレティシアの提案を嬉しく思い、それを受け入れて今に至る。
しかし、レティシアとの関係が破綻しているダニエルは、ルカに対して彼女からそのような提案があったことすら知らない。
「悪いが、少なくとも俺はそう思わない。フリューネ家の現当主はレティシアであって、ダニエル様ではない。それに、彼女の安全のためにオプスブル家として、俺は彼女の提案を受け入れたんだ。ダニエル様がそれに対して言及するということは、フリューネ当主の意見に対し意義を唱えることだと理解してるのか?」
「意義を唱えるとは大げさだな。俺は親として当然のことを心配してるんだ」
ルカのことを見下したようにダニエルが言うと、今日初めてルカの表情が変化した。
彼は首を左右に振り、軽くこめかみを押さえると呆れたように大きくため息をつく。
「……本当に親として心配する気持ちがあるなら、彼女の行動の意味をもう少し考えると思うがな。それに、俺にはダニエル様が、親としてレティシアを心配してるようには到底見えない」
ダニエルはルカの断固とした態度に、苦虫を嚙み潰したような表情をした。
「そうか? 俺は皇帝陛下が主催した茶会に、レティシアが参加しなかったのは、お前の責任だと思ってる。お前が彼女の家に入り浸ってるから、彼女も皇帝陛下が主催した茶会に参加しにくかったんじゃないのか?」
うっすら額に汗を滲ませながらダニエルが挑発的に言うと、彼の口元はニヤリと笑みを浮かべた。
しかし、ルカの態度は変わらず、蔑むような視線をダニエルへと向けている。
「ダニエル様……それでは言わせてもらうが、もし仮にあなたが本当に彼女のことを心配してるのなら、あの茶会にあなたと愛人の間に生まれたライラがいたのはどうしてだ? あの日、俺は途中まで陛下の護衛としてあの場にいたが、ライラに招待状は届いてないはずだ。ライラの行動が、レティシアの顔に泥を塗るとは少しも思わなかったのか?」
淡々とした様子でルカが告げると、ダニエルはギリっと奥歯を鳴らした。
強く握られた拳は小刻みに震えており、時折鼻筋にシワが寄る。
それでも、彼の反応に無頓着なルカがグラスを口元に運ぶと、ダニエルは少しだけルカの赤い瞳を見上げた。
「ガキの癖に俺に対して偉そうにするな」
ポツリとダニエルが呟くと、ルカは呆れたように大きくため息をついた。
「ダニエル様は、本当に何か勘違いしてるな。確かに、オプスブル家はフリューネ家から依頼を受けたり、フリューネ家を護衛したりするが、それは決してオプスブル家がフリューネ家より下だからじゃない」
感情がこもっていない声でルカは言うと、スーッと赤い瞳にダニエルを映す。
そして、彼は少しだけ目を細め、真っすぐに見つめて続きを話す。
「幼い頃、俺がレティシアの護衛としてダニエル様に会ったことがあるが、それがダニエル様がオプスブル家を見下していい理由にはならないし、先程の発言に至っては、現当主ではないダニエル様がオプスブル侯爵家の現当主である俺に対して許される発言でもない」
ルカの当主として発言には威厳が感じられ、近くにいたベラトルは薄っすらと微笑んだ。
近衛騎士団で団長をしているベラトルは、ルカと比べると全体的に大きく、顔には大きな傷がある。
筋肉質な体格は、長年に渡る訓練の成果によるものなのだろう。
彼は大きな手で口ひげを軽くさわると、楽しそうに大きな口を開く。
「ダニエル殿、この場はいったん引いた方が良いと思いますよ。少なくとも、先にオプスブル侯爵と話していたのは私であり、貴殿は私たちの会話に割って入っています。もし、引き続きオプスブル侯爵と話したいのであれば、時間を空けてまた来ていただけますか?」
ベラトルは、一歩後退ったダニエルを見て呆れてしまう。
そして、悔しそうに顔を歪めたダニエルが背を向けて歩き出すと、ベラトルはルカの方に向きなおした。
「ルカ様、勝手なことをして誠に申し訳ございません」
「アドガー伯爵、気にしないでください。むしろ助かりました」
「なんと申しますか……こう言ったら問題になるが……私の息子からは、フリューネ侯爵であるレティシア様の話は聞いておる。しかし、どうやら話に聞くレティシア様とは違い、彼女の父君には知性も理性も感じられんな。あの方は弱いと判断した者には、強く出る性格のようだな」
ダニエルの後姿を横目で見ながらベラトルが言うと、ルカも同じようにダニエルに視線を向けた。
ちょうど給仕していた青年とぶつかり、ダニエルが口汚く青年を罵っている。
「俺の口からは、ダニエル様に付いて何かアドガー伯爵に申すことはありません。そして、今後はアドガー伯爵の息子であるベルンにダニエル様のことを聞いても、ベルンはもうアドガー伯爵に情報を提供するようなこともありません」
「なぁに、そんなことは分かっておるさ。ただ……息子がどのような世界で生きようとも、私は彼の親であることは変わらないさ……たとえ、刃を交えることになってもな……」
淡々とした様子でベラトルが言うと、ルカは少しだけ視線を下げた。
その表情は悲しげで、どこか落ち込んでいるようにも見える。
しかし、赤い瞳は視線を上げてベラトルを見上げると、力強く真っすぐな視線を向ける。
「できればこの先も、アドガー伯爵とベルンが刃を交えることがないことを、俺も願っています。しかし、今の帝国が抱えている問題や情勢では、それは夢物語になる可能性があります。そのため、どうか今後も陛下に正しい助言を頼みます」
「そうか……このまま陛下たちが彼女の意志を無視し続ければ、そのような未来もあるということか……」
「……俺には、今の彼女が何を考えているのかは分かりません。しかし、茶会に参加しなかったことを考えれば、少なくとも彼女はこの帝国の皇族になるつもりがないんだと思います」
ルカの言葉を聞き、ベラトルは肩を落として大きくため息をついた。
「どうやら私が考えていたよりも、フリューネ侯爵は目先の富や地位より、彼女が描く政策があるのだろうな……その結果、もしかしたら本当に衝突する未来もあるのかもしれんな」
「……」
ベラトルは腕を組んでチラッとルカの方を見ると、スクリーンに視線を向けた。
そして、黙ってしまたルカに、彼は小声で話しかける。
「すまないな……息子が決めた道に水を差すつもりはないんだが……どうも陛下の周りが最近騒がしい気がしてな」
スクリーンには、森の中を進むルシェルの姿が映し出されている。
そこにライラが駆け寄り、彼の腕に彼女が腕を通して歩き始めた。
その瞬間、ベラトルは呆れたように頭を押さえ、深くため息をつきながら首を左右に振った。
「フリューネ侯爵が皇家に対して好意的ではないのは……こういうところなのだろうな……」
ベラトルの表情には疲れが見え、普段から皇子たちのことで頭を痛めているようだ。
「レティシアがどう思うのか俺には分かりませんが、少なくとも皇子のあの姿を見て、好意的に思う貴族は少ないと思いますよ」
ルカは冷たく言うと、右耳に着けているピアスに触れながら森の方に視線を向けた。
静かに彼が森を見つめていると、森の一角では氷でできた雪の華が咲く。
すると、ルカは目を細め、そのまま視線を変えずに口を開く。
「アドガー伯爵、申し訳ないですが、俺はこの辺で自分の仕事に戻ります」
ルカはそれだけ告げると、ベラトルの言葉を待たずに歩き出した。
ラウンジの長いテーブルには、様々な食事が並び始め、漂う匂いの色を変えていく。
彼は途中でクリっとした目が特徴的なメイドにグラスを預けると、「仕事だ」と小さく呟く。
そして、そのまま前だけを向いて、ラウンジの出口へと向かう。
給仕しているメイドは、「かしこまりました」と小声で返事をすると、足音も立てずに厨房がある方のドアへと進む。
彼女はミルキーブランの髪からヘッドドレスを取ると、ルカの方を一瞥してドアの向こう側へと消えていく。
ルカが貴賓ラウンジから出て暫く経った頃、彼は陰影魔法を使って雨が降る森の中を進んでいた。
木の影が彼をさらに隠し、魔道具が彼を映そうとも彼の姿を見つけることはできない。
しかし、彼の行動を1人だけ認識している人物がいた。
「ルカ様、レティシア様は無事なのでしょうか?」
メイド服を脱ぎ捨てた少女は、代わりに黒服を身に纏い、必死にルカの後を追う。
けれど、前を進む青年からの返答はなく、少女は唇を噛み締めた。
「ルカ様、れ」
「いいから黙ってついてこい」
少女がもう一度声をかけると、ルカは彼女の言葉を遮った。
彼の声は冷たいが、後ろを気にしているように何度も少しだけ後ろへ視線を向けている。
そのことから、森を進む速度を少女に合わせているように見える。
2人が雪の華が咲いた場所の付近にたどり着くと、氷漬けにされた男性と地面に倒れている男性の姿があった。
ルカは氷の中にいる男性の方を見たが、すぐに横たわる男性の元へ向かって彼の首筋に指を当てた。
「どうやら、1人はレティシアが氷漬けにしたみたいだが、もう1人は自ら服毒したようだな」
「では、レティシア様は無事だと言うことですね」
安堵したように少女が言うと、思考を巡らせていたルカは口を開く。
「メイ、悪いがこの2人の処理を頼めるか?」
「はい、お任せください。しかし、他の者たちには連絡しますか?」
メイは氷漬けにされた男性の近くに行くと、片手で肘を押さえながら顎に触れるルカに尋ねた。
「来る途中で、もう陰には森に入るように指示した」
「それなら大丈夫そうですね。これからルカ様はどうしますか?」
「俺は他に対抗戦の邪魔をする者がいないか、影たちと森の中を周ってみる」
「かしこまりました。では、私もこの者たちの処理が終わりましたら、影と合流します」
ルカはメイの言葉を聞き、倒れている男性から視線を上げた。
しかし、またすぐに倒れている男性に視線を戻した。
「いや、お前は影と合流せず、この2人の身元を詳しく調べてくれ」
「かしこまりました……あの……ルカ様」
「なんだ?」
「これは多分レティシア様が残した跡だと思うのですが、これが意味することはなんだと思いますか?」
視線を上げたルカは、メイが指を指した方を見た。
しかし、彼がいる位置からは何も見えず、彼はメイがいる方へと向かう。
そして、彼女が指し示す場所を見ると、睨むようにして目を細めて倒れている男性の元へ戻った。
彼は勢いよく男性の胸元をめくると、胸の辺りに蛇のタトゥーを見つける。
その瞬間、顔を歪めてチッと舌打ちした。
「メイ、予定変更だ。この2人を処理したら、お前は影と合流しろ。俺は完全に気配を断って、レティシアの護衛につく」
「かしこまりました」
メイが答えると、ルカは赤いピアスに軽く触れて走り出した。
GPSの役割を果たすピアスからレティシアの位置を特定すると、彼は陰影魔法を使って姿を消す。
雨粒が音を立てて葉を揺らし、地面からは水分を含んだ匂いが立ち込めている。
次第に彼の走っている場所からは足音が消え、何もない場所からそよ風が吹き抜けた。




