第140話 投げ込まれる一石
訓練場に入ったベルンは、彼の方に向かって歩いて来るレティシアを見つけた。
片手をズボンのポケットに入れたまま足を止めた彼は、もう片方の手でうなじ付近をなでると息を吐き出した。
そして、方向を変えると、彼女の方へと真っすぐに歩み始める。
ある程度距離を詰めると、両手をポケットに入れたまま彼は口を開く。
「先に来てたんだな」
レティシアは、どこか緊張しているベルンを見て首をかしげた。
「ベルン様、どうかしたのですか?」
「いや? 特に何かあったわけじゃないけど、少しだけレティシア嬢と話したかったんだ」
ベルンの言葉を聞き、レティシアは眉間にシワを寄せた。
彼とは連休前に少しだけ話したが、連休が明けてからは特に話していない。
それは、彼がルシェルの側近になっていれば、できるだけ関わらない方が良いと思ったからだ。
「話とはなんでしょうか?」
「一応、オプスブル家とフリューネ家は親しい間柄だから、レティシア嬢にも報告しようと思ってな」
唐突に脈略のない話をされ、レティシアは意味が分からず再び首をかしげた。
しかし、ベルンは少しだけ視線を下げると、片手で首を触る。
そして、ゆっくり視線を上げると、今度は彼女の瞳を見て話す。
「先日、フリューネ領で事件があっただろ?」
「はい、それがどうかしましたか?」
「事件の影響じゃないけど、ルカ様からどうするのか返事を急かされた」
レティシアは、やっと彼が何を言いたいのか分かった。
だけど、彼がどんな結論を出したのか、彼女は知らない。
「そうだったんですね……それでベルン様はどうするのですか?」
「本当なら、対抗戦が終わってから返答しようと考えてたけど、父親とも話して家は弟に任せることにした」
「ということは……ルカの誘いを受けるのですか?」
「ああ、そういうことになる」
ベルンは伯爵家の長男だ。
順当に行けば、彼が伯爵家を継ぐことになる。
しかし、ルカの誘いに乗っただけでなく、弟に家を任せるということは、今後は彼が伯爵家を継がないことを意味している。
「ベルン様は、本当にそれで良かったのですか?」
「正直、帝国騎士団で父親と働くのも悪くねぇし、ルシェル殿下の側近をするのも悪いと思わねぇ。だけど、同じ誰かを守る仕事をするなら、俺は尊敬する人の元で働きたいんだ」
話を聞いたレティシアは、真っすぐにベルンを見つめた。
そして、オプスブル家がどんな家なのか知っているからこそ、きっぱりとした態度で告げる。
「そのような動機でルカの元へ行くのでしたら、私はお勧めしません」
一瞬だけ驚いたような表情をベルンは浮かべたが、次第に安心したように少しだけ微笑んだ。
「心配させて悪いな、でも大丈夫だ。オプスブル家がどんな家なのか、ある程度のことはルカ様から話を聞いた上で、俺も考えて出した答えだ」
レティシアはベルンの決意を聞き、諦めたように表情が和らいだ。
彼がこれから進む道は険しく、帝国の汚い部分を見ていくことになるだろう。
それは彼に用意されていた道とは大きく違い、煌びやかな世界とは程遠い。
それでも、彼女に彼を止める権利もなければ、彼の決意を否定する気もない。
「それでしたら、私からは何も言うことはありませんわ」
「ああ、それでなんだけど……実はもう返事したから……俺に対して敬語は使わないでほしい。それと……レティシア様って呼んだ方がいいのか?」
ベルンが首を何度も触りながら尋ねると、レティシアは口元を隠してクスッと笑う。
「なるほどね。そうね、それなら……できたら学院とか人目がないところでは、今までと同じで構わないわ。私も学院の者がいるところでは、これまでと同じようにベルンに対して接するわ」
「分かった。悪いな……」
レティシアは軽く首を左右に振ると、ベルンの方を見ながら口を開く。
「構わないわ。それに、ベルンは当分ルカの指示で動くのでしょ?」
「ああ、今度の対抗戦では敵同士だけど、ルカ様からすでに指示があった」
「ルカからの指示なら、敵同士であっても、私に危険が及ぶなら駆けつけろってところかしら?」
淡々とした態度でレティシアが尋ねると、ベルンは言葉を失くした。
確かに彼女の言う通り、彼はルカから彼女に何かあったら駆けつけろと言われている。
しかし、その話をされたのは、訓練場に来る少し前だ。
それにもかかわらず、彼女が言い当てたことに彼は驚いた。
「あら? 違うのかしら?」
「いや、あってるよ。ルカ様って、何を考えてるのか分からない雰囲気があるのに、レティシア嬢は分かるんだなぁって思ったら、単純にすげぇなぁって思って言葉が出なかった」
頭をかきながらベルンは答えると、彼女が不思議そうな表情を浮かべた。
「私も、ルカが何を考えているのか分からないわよ? だけど、彼ならそうしてくれるかなって思っただけよ」
「それでも、やっぱすげぇよ」
感心するようにベルンが言うと、レティシアは遠くの空を見つめた。
彼女とルカの出会いは、彼女が1歳になる頃だ。
そのため、幼い頃から、共に育ったようなものでもある。
「凄くなんかないわよ。ルカが仕事に対し、どのように向き合っているのか知っているだけよ」
レティシアはそう言うと、胸の辺りがチクッと痛んで首をかしげた。
離れている期間も、確かに胸が痛むことはあった。
だけど、それは寂しさや、気付かないところで彼が変わっている気がしたからだ。
しかし、今は一緒に住んでいるため、当時のように距離で寂しさを覚えることはない。
それなのに、なぜ胸が痛んだのか、彼女には分からなかった。
「レティシア嬢? 大丈夫か?」
ベルンは、何度も首をかしげるレティシアに対し、心配して尋ねた。
「ええ、大丈夫よ。心配させてごめんなさい」
「いや、別にいいけど……体調が悪いなら、ちゃんと医者に診てもらえよ」
レティシアは、過去の経験から自分が病気じゃないことは分かっている。
けれど、病気じゃないのなら、この胸の痛みがなんなのか理解できない。
それでも、彼女はエディットに対しても、同じように胸が痛むことがあった。
そのため、尚更なぜルカのことで胸が痛むのか、理由が分からない。
「大丈夫よ。病気じゃないことは分かっているから、ただ……時折この当たりが痛むの」
レティシアは胸の辺りをなでながら言うと、今度はベルンが首をかしげる。
「ん-。俺は医者じゃねぇから分かんねぇけどさ……それって、レティシア嬢が何かしらに傷付いてるんじゃねぇのか?」
呆けたようにレティシアがベルンを見つめると、彼は呆れたようにため息をついた。
「俺も良く分かんねぇから偉そうなことは言えねぇけど、レティシア嬢はなぜ胸が痛むのか、どんな時に痛むのか考えた方がいいぞ? とりあえず、みんなも集まってきたからさ、それぞれの属性が集まってるところに行こうぜ」
「ええ、そうね……」
短く答えたレティシアは、頭の中でベルンの言葉を繰り返しながら歩き出した。
初めて彼女がこの胸の痛みを感じたのは、最初の人生で親に振り向いてもらえなかった時だ。
しかし、今のルカは彼女の話に耳を傾け、彼女の隣を歩いてくれる。
そう考えると、胸の痛みは違う部類なのだと理解した。
(なんでルカのことになると、時折胸が痛むのかしら?)
レティシアがそう考えて歩いてると、彼女の様子を見ていたベルンが不意に口を開く。
「例えばだけどさ、レティシア嬢はルカ様から嫌いって言われたらどう感じるんだ?」
「昔1度だけ嫌いだと言われたけど、その時は腹が立ったわ」
ベルンはレティシアが答えると、2人にそんな過去があったのかくらいに思った。
そして、1度言われたことがあるなら、想像しやすいかと単純に考えた。
「それじゃさ、今ルカ様から嫌いって言われたらどう思う?」
「ルカはそんなことは言わないわよ?」
レティシアが呆れたように言うと、ベルンも同じように呆れたように口を開く。
「だから、例えばの話だ。今の関係で、ルカ様から嫌いって言われたらどう感じるんだ?」
「そうね……」
レティシアはそこまで言うと、想像力を働かせた。
暫く歩くと、胸を押さえたまま彼女は突然足を止めた。
そして、自分の鼓動が大きくなっていることに気が付く。
「ねぇベルン、ここがすごく傷んで苦しいわ」
戸惑ったようにレティシアが胸の辺りを押さえて言うと、ベルンは眉間にシワを寄せた。
「もしかしてだけどさ、レティシア嬢はその感情が分かんねぇのか?」
「ええ、ベルンは分かるの?」
ベルンはふと足を止めると、振り返ってレティシアを見つめた。
彼女の不安そうな瞳が視界に留まり、彼は雑に頭をガシガシとかいた。
「それってさ、好きってことじゃないのか?」
レティシアは眉を寄せ、不思議そうにして首をかしげた。
「私はベルンのことも嫌いじゃないわ。どちらかと言えば好きよ? でも、こんなに胸は痛まないわ」
ベルンは大きくため息をつくと、このような話を始めたことを後悔した。
しかし、一度始めてしまったのなら、仕方ないと諦めたように話し出す。
「それってさ、俺のことは友達とか、仲間として好きだからだろ? でも、ルカ様のことは特別で、レティシア嬢が苦しく思うのは、そこにルカ様に対する愛情が存在するからじゃないのか?」
「……ルカは確かに特別だわ。私も信頼しているし、お母様も信頼していたわ。だけど……そこに愛情があるのかと言われたら……私には分からないわ……」
ベルンはレティシアの言葉を聞き、(やっぱりな)と納得した。
彼女が幼い頃に、母親と離れたことは知っている。
そして、すでに彼は彼女とダニエルとの関係性をルカから聞いている。
そのため、彼女が他者に対して抱く、愛情や恋愛感情に疎い可能性があることを、頭のどこかで考えていた。
だからこそ、このような話を始めてしまったことを激しく後悔したのだ。
「レティシア嬢がルカ様に対して抱いてるその感情が、家族だと思ってるからなのか、それともルカ様を異性とし見てるのかは、俺には分からねぇ。だけど、この先もずっとルカ様がレティシア嬢の隣を歩くわけじゃない。もし、ルカ様が婚約や結婚した場合、ルカ様だってずっとレティシア嬢のことばかり気にすることは出来ないからな。難しいことばかり考えてないで、少しは自分の気持ちも考えた方がいいぞ。手遅れになってからだと、後悔してもしょうがねぇからな」
レティシアは、呆れるわけでもなく淡々と話したベルンが、彼女に背中を向けるのを呆然と見ていた。
頭をかきながら歩き始めた大きな背中は、徐々に彼女から遠ざかっていく。
これまで何度も転生してきた彼女は、このように彼女の感情に対して指摘する者はいなかった。
勇逸、今世では彼女の使い魔であるステラが指摘し、彼女は気持ちのままに生きて良いんだと学んだ。
その時、愛や好きという気持ちにも少しだけ触れたが、その時は深く考えたり追求しなかった。
時間がなかったと言えば言い訳にはなるが、ベルンが言うように常に彼女はエディットの事件解決のために今まで動いてきた。
その結果、今も彼女は好きと愛の境が分からずにいる。
(そうよね……ルカがいつまでも私の傍にいるわけじゃないわ……いつか婚約者もできるし……もし、婚約者がいやだと言ったら、ベルンのようにルカの代わりとして誰かを護衛に付けるわ)
また胸がズキンと痛み、レティシアは胸の辺りを押さえてた手で制服を掴んだ。
この感情が何なのか分からなくても、そこには確かな痛みが存在する。
(ルカは……私にとって……なんだろう……)
制服を掴んでいた手は無気力に下ろされ、ベルンの言葉が彼女の頭の中で繰り返される。
しかし、授業の始まるを知らせる鐘が鳴り始めると、彼女はハッとしたように現実に引き戻された。
けれど、慌てて踏み出した足は重く、耳に届く全ての音が遠くに感じられた。




