第123話 夕日に消える黒蝶
応接室には沈黙が流れ、時折カップが微かにソーサーに触れて音を立てる。
ダニエルは、あれから返す言葉が見つからず、レティシアの言葉を否定することもできない。
結局のところ、彼はただ怒りに震え、口を開くこともできない。
時間だけが過ぎていき、レティシアの膝の上にいたステラは眠たそうにあくびをした。
すると、諦めたようにレティシアが小さく息をつき、彼女は話し出す。
「もう1度だけ言います。フィリップはフリューネで引き取り、これまで彼に掛かった費用は、こちらで計算してその金額をお支払いします。なので、彼をこちらに引き渡してください」
時間を掛けて、どうにか冷静になろうとしていたダニエルは、レティシアの言葉を聞いて再び怒りが込み上げた。
彼は顔を真っ赤に染め、こめかみには血管が浮き出て、怒りに任せて大きく口を開ける。
「ガキの癖に、いい気になるなよ!!」
怒鳴りながら立ち上がったダニエルは、レティシアに手を伸ばした。
テーブルの上に置かれていた食器が激しくぶつかり合い、ガチャン! っと大きな音を立てる。
しかし、伸ばされた手がレティシアに届く前に、立ち上がったアランがダニエルの手を掴んだ。
ギロっとダニエルがアランを睨み付け、どうにか掴まれている手を振り解こうとする。
けれど半分とは言え、竜人であるアランの手を、日頃から鍛えていないダニエルが到底振り解けるはずがない。
ダニエルは「離せ!」と叫びながらテーブルの上に乗り、掴まれていない反対の手でアランに殴り掛かる。
だが、アランは澄ました顔でそれを防ぎ、腕を掴んでいる手に力を込めた。
すると、骨がきしむ音が微かに鳴り、ダニエルの顔は徐々に痛みで顔が歪む。
(今も昔と同じで、手が出る癖は治っていないのね)
レティシアはそう思うと、床に落ちて割れてしまったカップとソーサー見つめた。
そして、彼女はわざとらしく、はあぁっとため息をつくと叫び続けているダニエルの方を見る。
「……話になりませんね。どうやら頭に血が上って、正しい判断ができないみたいなので、今日のところはお引き取り願いますか?」
「ふざけるな! 俺たちがここに住むのを認めないなら、俺は一歩もここから動くつもりはない!!」
「……そうですか、力尽くであなたたちを追い出すことも、可能なのですよ?」
レティシアが落ち着いた様子で尋ねると、ダニエルは彼女のことを見下したように鼻で笑って言う。
「こいつに頼むのか? それとも、騎士団を使って俺たちを追い出すのか?」
かつて、ダニエルは雪の雫隊に所属している団員に怪我を負わせている。
そのため、どうにかできると考えているようだが、帝都にいる騎士団は領地にいる騎士団とは違う。
争いが起きた際、帝都にいるフリューネ騎士団は最前線に立つことが予想されている。
それゆえに、フォス隊やスキア隊と同様、訓練の内容も実戦を想定し、厳しいものとなっている。
「騎士団がいやでしたら、お引き取り願います。自足で出て行ってくれるのでしたら、こちらは何もいたしません。ですが、出て行かれないのでしたら、騎士団を呼ぶしかありません。アラン、もういいわ。離してあげてちょうだい」
アランが掴んでいたダニエルの腕を離すと、彼は何度も掴まれていた部分を擦った。
それでも、怒りが収まらない様子でダニエルがアランを睨むと、アランが睨み返す。
すると、ダニエルは後退り、慌ててテーブルの上から降りた。
「あなたね、母親からどんな教育を受けたのか知らないけど、父親であるダニエルに対して、失礼なんじゃないの!?」
セブリーヌがそう言うと、レティシアは彼女に冷たい視線を向ける。
「先程の話を聞いていました?」
「聞いてたわよ? それでも、子どもが親に対して取って良い態度ではないわ」
レティシアからすれば、親らしいことをダニエルから1度もしてもらった記憶はない。
ダニエルがしたことは、実の娘の宝石を盗み、幼い子どもに母親の悪口を吹き込んで、愛人の話をしただけだ。
そんな人を、レティシアは親と思うことはできなかった。
もちろん、妻がいると知りながら関係を持ち、子どもを作った人も、レティシアは継母と認めることもない。
「セブリーヌ……」
「大丈夫よあなた、ここに住む権利はわたしたちにもあるわ」
「お姉さま! ララもフィリップもお姉さまと一緒に住みたいだけなの。……だから、ララたちもここに住んでいいでしょ?」
親だから……血の繋がりがあるから……
それだけで、ここに住めると思っている彼らに、レティシアは頭を抱えそうになった。
(本当に一緒に住みたいだけなら、場所は関係ないでしょ。一緒に住みたいのではなく、ここに住みたいの間違いでしょ……それに、ダニエルのことを婿養子だと思っているから、余計ここに住めると思っているようだけど……)
彼らを同じ家に住まわせれば、もっと簡単に彼らの動向が分かる。
だけど、そうしないのはレティシアの気持ちが関係している。
彼女はこれ以上フリューネの屋敷を、彼らの手で踏み荒らされたくなかったのだ。
応接室に音もなくパトリックが入ってくると、彼はレティシアに近付いた。
そして、口元を隠し「ルシェル殿下とバージル殿下がお見えになっています」と微かに聞こえる声で耳打ちした。
それに対し、レティシアはテレパシーを使って答える。
『帰ってもらって。彼らがいたら、余計に話がややこしくなるわ』
静かに頷いたパトリックは、入ってきた時と同じように音も立てずに応接室を後にする。
このタイミングで、ルシェルがなぜ来たのか、レティシアは疑問に思った。
しかし、パトリックが出て行くと、ライラがパンッと手をたたいた。
「お姉さま、お客さまですか? それなら、ララがお客さまとお茶をしながら、話を聞いてきます!」
ライラがそう言うと、レティシアは先程の疑問の答えが分かった。
そのため、彼女は間を開けず「その必要はないわ」と断った。
(なるほどね……ここに来ることを、あらかじめ殿下たちに話して、一緒に住むように言わせるつもりだったのね)
一瞬だけ悔しそうな表情を浮かべたセブリーヌを見ながら、レティシアはそう思った。
「あのさ、口を挟んで悪いんだけど、とりあえず今日はフィリップを置いて帰ったらどうかな? お互いに冷静じゃないと思うし、今まで家族と過ごす時間が少なかったレティシアが、フィリップと住むことによって、彼女の気持ちも変わるかもしれないだろ? 長年レティシアのことを見てきたから知ってるけど、こう見えてレティシアは家族に飢えてるんだ……今のままだと、騎士団の手によって4人とも追い出されて、レティシアが後で一緒に住みたいって思っても、言い難くなると思うよ?」
そう言ったアランを、レティシアは目を見開いてみていた。
セブリーヌはレティシアの顔を見ると、考えるようなそぶりをした後、ゆっくりと口を開く。
「……アラン殿下の言う通りですね。今日のところは、その方がいいのかもしれません。レティシアにも家族と過ごす素晴らしさが分かれば、考えも変わるかもしれないわ。――フィリップ、くれぐれも、失礼がないようにね」
「はい、母上。――姉上、よろしくお願いします」
まだ納得がいかないという様子のダニエルとライラだったが、セブリーヌが彼らに何かを耳打ちする。
すると、渋々ながらも2人は納得した様子を見せた。
「それでは、後で何かを言われても困りますので、書類の方を作成して持ってきますので、こちらでお待ちください」
レティシアはそれだけ告げると、彼らの気持ちが変わる前に急いで書斎へと向かう。
(あまり言い回しを使った文にすると、セブリーヌが何度も読み返すはず……それなら……)
そう考えながら、レティシアは書斎に着くと書斎机の1番上の引き出しを開けた。
そして、中から高級紙を3枚取り出し、同じ内容の書類を作り始める。
スラスラと羽根ペンは紙の上をひた走り、綺麗な文字が並ぶ。
紙の上になら文は、明瞭で簡潔に書かれている。
暫くすると、レティシアはふぅっと息をついた。
それから、3枚の書類を少しだけずらして並べ、フリューネの紋章が描かれている判を押す。
誰が見ても分かりやすく書かれている書類を、彼女は作り上げた。
彼女はこれなら、ダニエルたちも迷うこともなくサインすると確信がある。
書類を持って、彼女は再び来た道を戻って足早に応接室へと向かう。
応接室に戻ったレティシアは、書類をテーブルに並べた。
「お待たせしました。こちらの書類の内容に問題がなければ、こちらに名前だけサインしてください」
ダニエルは言われた通りに、書類を読んでサインしようとした。
しかし、セブリーヌが横から書類を手に取り、内容を確かめるように読み始めた。
(絶対的な決定権は、セブリーヌってところかしら?)
レティシアは2人のやり取りを見て、密かにそう思った。
セブリーヌが書類の内容に納得したのか、書類をダニエルの前に戻すと、彼は何も言わずにサインしていく。
「これでいいか?」
「ええ、ありがとうございます」
「レティシア、おれにもその書類を見せてくれ、見せてくれたついでに、おれのサインもしてやるから」
「アラン殿下、お願いします。その方がわたしも安心ができますわ」
何を思ったのかセブリーヌがそう言うと、レティシアは何も言わずに受け取ったばかりの書類をアランに渡した。
3枚の書類を読んだアランは、フリューネの紋章が割印してある方とは逆方向に紙をずらして重ね、そこにサインしていく。
これで間違いなく、3枚が同じ内容だということが証明される。
そして、同時にこの決定は、エルガドラ王国の王太子が証人の1人になったこと表す。
空はすっかり茜色に染まり、鳥たちは家路へとつき始める。
春の風はほのかに蜜の香りを運び、張り詰めた空気を和らげる。
「レティシア、フィリップのことよろしくね」
セブリーヌはそう告げて、ダニエルとライラが乗っている馬車に乗り込んだ。
少しして、ゆっくりと馬車は動き出し、徐々にスピードを上げてフリューネ家を後にした。
「リン、フィリップの部屋を用意してちょうだい」
「レティシア様、かしこまりました」
リンは丁寧にお辞儀すると、フィリップの方を一瞥し室内へと向かう。
「フィリップ、あなたはリンについて行って」
「はい、姉上」
リンを追い掛けるようにフィリップが室内に入って行くと、レティシアは静かに話し出す。
「アラン、まさか私が家族に飢えていることを、あなたが言うとは思わなかったから、とても驚いたわ。……それでも、助かったわ、ありがとう」
アランは頭をかきながら、レティシアに答える。
その声には、わずかばかりに申し訳なさが滲む。
「いや、何か考えがあってフィリップを引き取りたかったんだろ? それなら、レティシアが家族に飢えてるから、気持ちが変わると匂わせた方がいいと思ったんだ。それでも、事実とはいえ勝手に悪いな」
レティシアは、アランの言葉を聞き、軽く息を吐き出し首を左右に振った。
「ううん、あのまま彼らが引いてくれなかったら、フィリップは諦めようと思ってたから……」
「それなら、本当にあのフィリップってやつが、レティシアの弟なのか?」
「そのことについては、ルカが戻ってからライアンも呼んで話すわ」
アランはレティシアの顔を見たが、彼女の表情からは何も分からない。
しかし、彼女の声や雰囲気で、これ以上聞いても彼女が答えないことをアランは知っている。
「ふーん、――じゃあさ! ルカが帰ってくるまで、騎士団の方に行っていいか?」
「ええ、今日のお礼じゃないけど、後で呼びに行かせるから、好きに過ごしてちょうだい」
「よっしゃっ! ありがとう! ちょっとアルノエの所に行ってくる」
アランはガッツポーズすると、楽しそうにスキップをしながら訓練場へと向かった。
夕日に染まった空に、1頭、2頭、と黒蝶が飛び始めると、次第に黒蝶は数を増し、飛んで消えていく。
『レティシア、やっと体がこの土地に慣れたから、もういつでも動けるよ。慣れるまで、ほとんどの時間を寝て過ごしてごめん』
『いいのよ、ステラの力を後で借りようと思っていたから、それは嬉しい報告だわ』
レティシアとステラは、空に飛び立つ黒蝶を静かに眺めていた。
しかし、踵を返すと、2人は何も言わずに玄関ホールへと入って行く。




