第119話 夜の書斎
カトリーナたちと初めて食堂で話した日。
家に帰ったレティシアは、着替えを済ませると足早に書斎へと向かった。
書斎机には治安維持や、経済政策の書類が山のように積み上げられている。
レティシアは椅子に座ると、それらの書類に目を通していく。
豊かだと言われている帝国でも、領民が肉や米を口にすることが少ない貧困地域が存在する。
フリューネ領は広大な土地と海に面しており、領民の生活も比較的豊かで安定している。
それでも、レティシアはそれだけでは不十分だと感じていた。
そこで、エルガドラ王国に残った後、フリューネ領に住む領民のために、学びの場や安心して医療に掛かれる環境を整えてきた。
少なくとも、知識や医療が整っていれば、エディットのような患者が出た場合、原因の解明に繋がると考えたからだ。
しかし、学びの場や健康の面で安心が増えると、新たな問題が出始めた。
それは、他の領地から移住を考える者たちの存在だ。
長寿が多い帝国では、後々のことも考えなければならない。
もし仮に、何も考えずに移住者を受け入れてしまえば、治安の悪化や同じ領民の間で格差が生まれることが考えられる。
多少の格差となれば、それも仕方がない。
けれど、今日食べる物にも困るような格差になれば、それでは学びの場や医療の意味がなくなる。
そして、そこで問題になるのが、格差が広がったことによって起きる治安問題だ。
治安の悪化は最終的に、フリューネ騎士団に任せればいい。
それでも、騎士団に所属している人たちも、無償で働いているわけではない。
治安が悪くなれば、それを取り締まるために、今以上に人員を増やす必要がでる。
そして、その分の予算を騎士団に回す必要性が出てくる。
だがそうなると、ゆくゆくはフリューネ領の財政を圧迫することとなり、税金を上げなければならない状態になってしまう。
無論、そうなってしまえば、フリューネ領が豊かだと言っても、税金が上がれば物価が上がることも予測ができる。
その結果、不作の年はギリギリの生活を強いられる領民が出てくる可能性もあるのだ。
レティシアは眉間にシワを寄せながら、移住希望者が書かれている書類を見ていた。
(団体での移住希望者ねぇ……確か、彼らが住んでいる領地は豊かではないけど、食べ物に困っていると聞いたことがないわ。それに団体で来るのはいいとして、仕事や住む所は、どう考えているのかしら?)
ドアをノックす音が書斎に響くと、レティシアは「入っていいわ」と告げた。
そして、彼女は先程まで見ていた書類に “面接後に判断” と書き、何気なくデスクの隅に置いた。
「ちょっといいかな?」
そう言って部屋の中に入ってきたライアンは、少しだけバツが悪そうな表情をしながら頭をかいている。
「ええ。別に構わないわ。どうしたの?」
レティシアが首をかしげて言うと、ライアンはホッと胸をなで下ろした。
彼はソファーに座り、思い詰めたように話し出す。
「実は……この家に出入りしている行商人から、とある噂話を耳にしてさ、それをレティシアに調べてもらおうと思ったんだよ」
「どんな噂話?」
「甥っ子たちの、噂話」
「……もしかして、婚約者がライラって話かしら?」
驚いたようにライアンはパッと頭を上げ、レティシアの方を見た。
しかし、彼女は目の前に積まれている書類に手を伸ばし、仕事の続きを始めている。
「驚いたよ……知ってたのか」
「ええ、今日たまたま私も知ったのよ。それで?」
淡々とした様子でレティシアが尋ねると、ライアンは彼女の方を見ながら答える。
「実は、彼らの婚約者候補は、これから決める予定だと、オレは兄上から聞いている。それなのに、どうしてそんな話が出回っているのか知りたい」
「そうね……そう噂される理由は、ライラの行動かしら? それと、皇子たちの行動もね」
書類を見ながらレティシアが言うと、ライアンは眉間に深いシワを寄せ、少しだけ首をかしげた。
「行動?」
「そうよ。彼女、学院の中では皇子たちにべったりだもの。皇子たちも満更でもなさそうだし、そんな噂話が1つや2つあっても、何もおかしくはないわ。だけど、誰もがそのことに付いて何も言わないのを、私もおかしいと感じているわ」
「……どこからか、圧力が掛かっているとか?」
「それも考えられるけど……他にライラがフリューネっと名乗っているから、侯爵であるフリューネなら仕方ないと思う貴族も、少なからずいるんじゃないかしら?」
ライアンは膝の上に腕を乗せ、軽く手を組んで思索にふけっている。
見つめる先の手元の指は時折動き、まるで考えをまとめているかのようだ。
動かしていた指がふと止まり、彼は息を吐く出すと話し始める。
「――なるほどな。だけど、1人の女性が2人の皇子と婚約しているって噂が出たなら、何かしら言ってくると思うんだよ」
羽根ペンを置く音が聞こえると、ギィッとレティシアがいる方向から椅子が鳴る。
「……そこなのよね。同じような噂が2つ……相手も別の人なのに、それについて何も言っていないところが変なのよね……」
レティシアは背もたれにもたれ掛かりながら、カトリーナたちと話していたことを、思い返すように目を瞑った。
(仮にライラが、どちらかの皇子と婚約の噂があっても、本人がフリューネと名乗っている時点で、貴族の間で婚約の話は問題にならない。だけど、2人の皇子となれば、普通は問題になる……それにもかかわらず、何もないどころか、どちらがライラに選ばれるのか気にしているような感じだった……)
レティシアは深く息を吐き出し、指を組んでデスクに頬杖をつく。
そして、彼女は小さくなった書類の山を見つめながら、感情のこもっていない声で話し出す。
「ねぇ、ライアン。――皇弟であるあなたに、こんなことを聞くべきじゃないし、あまり考えたくないのだけど……貴族たちが皇家を見限ることはあると思う?」
ハッとした様子でライアンは顔を上げると、レティシアの方を見た。
しかし、彼は沈んだ顔をすると、また手元に視線を戻して話す。
「――本音を言えば、オレには分からない」
ライアンは長い間、ヴァルトアール帝国で貴族として暮らしていなかった。
そのため、彼は貴族たちとの繋がりが薄い。
そんな彼が、皇家を貴族たちがどう思っているのか知るわけがない。
それゆえに、彼はレティシアに聞かれて初めて、皇家が見限られている可能性があるのだと気付いた。
だが、これは最悪の場合の話だ。
(皇家が見限られたのなら、頃合いをみてどこかの領地が独立宣言するはず……こういう話の場合、1番詳しいのはルカよね……だけど、今ルカは仕事で出掛けてるから、帰ってから聞くしかないわね)
レティシアはそう思うと、深く息を吐き出した。
そして、すっかり顔色がなくなったライアンに、彼女は視線を移すとゆっくり口を開く。
「あくまでこの話は、最悪の場合で可能性の1つに過ぎないわ。それと、他に考えられるのは、派閥争いよ。バージル殿下とルシェル殿下は異母兄弟。さっきの話じゃないけど、フリューネ家が独立を考えれば、それを可能にする領地と貴族や他国との繋がりがあるわ。――今はルシェル殿下の方が、継承権順位は上だけど、フリューネ家がバージル殿下に付けば、順位の話は変わってくると思うの。だから、フリューネ家がどちら側に付くのか見てから、動きたい貴族もいるんじゃないのかしら? これは私の考えだから、実際のところは知らないけどね」
レティシアはそう言って再びペンを取ると、先程までしていた仕事の続きを始めた。
(もしかしたら……どこかの領地が独立を考えているというより、これは派閥争いが絡んでいる気がするわ……もし本当に、派閥争いが絡んでいるとなれば、確かにフリューネと名乗っているライラが、どちらを選ぶのか中立の立場にいる貴族は気になって仕方ないわ)
レティシアはそう思いつつも、紙の上を走るペンの音はリズムを崩さない。
ライアンは少しの間、レティシアに言われていたことを考えていた。
だが、これ以上は彼女の邪魔になると考え、彼は立ち上がると彼女に声をかける。
「仕事中に悪かったね。ケーキを作ったから、後で食事と一緒に持ってくるよ」
そう言ってライアンはドアの方に向かうと、書類から視線を外さずにレティシアは言う。
「ありがとう、こちらでバージル殿下の方も探らせるわ」
ドアノブを握ったライアンは、振り返って困ったように笑って言う。
「悪いね。帝国の中じゃ、オレの判断だけで魔塔を動かせないから助かるよ」
レティシアは視線だけをライアンに向け、彼が部屋から出て行くのを確認した。
パタンッとドアが閉まると、1人になった部屋で彼女は、隅に置いていた書類を手に取る。
(団体の移住希望者……もしかしたら、さっきの話は……貴族にだけ限った話じゃないのかもしれないわね。この人たちが、なぜフリューネ領に来たいのか、しっかりと見極める必要があるわ)
レティシアはフリューネ騎士団のブローチを取り出し、左手でモールス信号のように小刻みに魔力を流す。
その間、右手で名刺サイズの紙に、彼女はペンを走らせ、書き終えると半分に折った。
暫くして、窓の付近で知っている人の気配を感じ取り、レティシアは立ち上がると窓を開ける。
すっかり辺りは暗くなっており、星を見ながら彼女は口を開く。
「帝国で起きていた結晶化の件と、ダニエルたちのことは引き続きやってほしいんだけど、それと同時に第三皇子のバージル殿下と、この紙に書かれていることを調べてほしいの。もしも、人が足りないなら言ってちょうだい」
レティシアは窓の外に手を出すと、窓の横に立つ人物に渡すように手を差し出した。
その手には、二つ折りにされた紙が人差し指と中指に挟まっている。
すると、音もなく黒服に身を包んだ男性が現れ、彼女の手から紙を受け取って暗闇に消える。
はぁっとレティシアが息を吐き出すと、暗闇の中で息は白く浮かび上がる。
(帝国に戻って来たのは良いけど、学院や仕事をしながらお母様のことを調べたり、他にもいろいろと調べるのは大変ね)
そう思ったレティシアは、窓を閉めると呼び鈴を鳴らした。
そして、パトリックが来ると、彼女は「ルカが帰ってきたら、話があるから書斎に来てほしいって伝えて」と伝言を頼んだ。
パトリックが「かしこまりました」と言って部屋を出ると、レティシアは再び仕事の続きに戻った。




