第106話 囚われの心
壁を伝う雫が地面に落ちるたび、不穏な音色を奏でている。
ブツブツと独り言のように呟く男性の声と、複数の人の気配。
時折、ライアンは振り返ると、眠っているレティシアを不安げに見つめた。
彼らがここに連れてこられて、半日が経とうとしている。
けれど、彼にはこの状況を打破する手段が思い浮かばない。
蝋燭で照らされた室内はうす薄暗く、ゆっくりと瞼を開けたレティシアはボーっと一点を見つめる。
冷たい床が生きていることを実感させ、痛む頭が現実味を持たせた。
今世で彼女は毒に対する免疫をつけておらず、その影響が体の不調として現れている。
レティシアは頭を押さえて体を起こすと、周囲をゆっくりと見渡す。
鉄格子の近くにはライアンが立っており、彼女にひと時の安心をくれた。
(頭も痛いけど、体もだるいわね)
レティシアの視界に映る景色から、ここが前にアランたちと訪れた地下牢であることが分かる。
知らない所より、知っている場所で思わず彼女は胸をなで下ろした。
ライアンが振り返ると、彼は足早に彼女に駆け寄り体を支えて尋ねる。
「ララ様、大丈夫ですか?」
「ええ、頭が痛むくらいで、他は大丈夫よ……ジャンは大丈夫?」
「オレは生まれが生まれなので、体が薬には慣れているので、大丈夫ですよ」
「そうなのね、それなら良かったわ」
「これからどうしますか?」
ライアンがレティシアに尋ねると、彼女は首枷を摘まんで引っ張った。
「これがある限り、どうしようもないわね。とりあえず、これを外しましょう」
首枷に視線を向けたライアンは、静かに頷き床に膝をついて軽く指を切った。
「では、それはオレに任せてください」
ライアンは真剣な顔で床を見つめ、魔方陣を描き始めた。
だが、次第に彼の顔は青白く変わり、魔方陣を描く指は小刻みに震える。
「無理しなくてもいいんだよ?」
ライアンを見ていたレティシアは、彼にできるだけ落ち着いて声をかけた。
魔力暴走を起こし、記憶を無くした彼にとって、魔法を使うことに対し、恐怖心があっても不思議ではない。
そのため、彼女は彼が魔法を使えるとは考えていない。
「……大丈夫」
ライアンは短く答えたが、まるで彼自身に言い聞かせているようでもあった。
しかし、震えが大きくなると、彼は何度も「大丈夫」と繰り返した。
「――そう、それならいいわ」
レティシアは静かに彼の描く魔方陣を見つめた。
ライアンが大丈夫だと告げたことによって、彼女は手を出すことはできなかった。
顔色が悪い彼を止めることもできず、今は彼を見守るしかない。
額から汗を流し、それが雫として描いている魔方陣に落ちた。
青白い顔は、震える指先と共に彼の心情を告げる。
それでも、少しずつ魔方陣を描く彼には、彼なりの覚悟があった。
不安げに見つめる少女が彼の視界にわずかに映り込み、彼はひたすら自分を鼓舞し続ける。
最後の文字を描き終えると、彼は深く息を吐き出した。
そして、ズボンのポケットから赤く丸い玉を取り出し、まだ震える手で魔方陣の上に置いた。
魔方陣が発動すると、光の中から黒く光沢のある長毛を持つ猫が現れた。
黄色い目は、自信に満ち溢れて美しく、ライアンは安心したように微笑んだ。
「久しぶりだね、急に呼び出して悪いんだけど、この首枷をとってほしんだ」
『ふん! 久しぶりに呼んだと思うたら、貴様は捕まっておるのか』
黒猫はライアンに対し、軽蔑な視線を向けていた。
しかし、ライアンの手を見ると、諦めたように大きなため息をついた。
黒猫が短い距離を歩くと、長毛が風に揺れ動く、それはまるで黒い炎のようでもある。
けれど、前足を上げた黒猫の爪は鋭く、ライアンの首についていた首枷をいとも容易く切り落とした。
そして、黒猫はレティシアに近寄ると、同じように彼女の首枷も切ってしまう。
『これで良いだろう』
「ありがとう、助かったよ」
『チッ、もう時間か……次に呼ぶ時は、もう少しこっちに居られるように呼ぶんだな』
先程の赤い丸い玉には、それほど魔力が込められていなかったのだろう。
黒猫は不貞腐れた様子で告げると、ライアンの陰の中へと消えた。
「使い魔がいたのね、驚いたわ」
「一応ね、彼とは若い頃に契約したんだ。また呼べるか不安だったけど、呼べて良かったよ」
眉を下げながらライアンが笑うと、レティシアは胸を押さえて微笑んだ。
しかし、レティシは背を向け、手を合わせて息を吹きかけた。
彼女が合わせた手を広げると、2頭の黒蝶が創り出されておりて、黒蝶は飛び立っていく。
そして、彼女は落ちていた首枷を手にし、静かに首枷を観察し始めた。
ライアンはただレティシアの行動を見守ることしかできず、己の不甲斐なさに拳を震わせる。
けれど、彼女が複製魔法で首枷を創り出し、何も言わずライアンに差し出した。
渡された首枷は重く、質感から全て本物だと誤解しそうになる。
だが、彼女が首に着けるのを見て、ライアンも首にはめると、違和感を感じて首枷を摩った。
「ありがとうございます、先程違って変な感じがしますね」
「すぐに慣れるわよ。違和感は魔力が封印されてないからよ、それを着けていても魔法は使えるから、ただの飾りだと思えばいいわ。だけど、自分で魔力を抑えないと、気付かれることもあるから、気を付けてちょうだい」
「分かりました」
レティシアは鉄格子に近付き、試しに魔力を使って開けようと魔力を流した。
しかし、予想していた通りに魔力は弾かれ、彼女は過去に同じような物がなかった考え始めた。
「普通に出るのは無理ね……アランたちが手紙を読んで、2人が戻ってくるのを待っていてもいいのかもしれないわね」
「そうですね……この牢屋は魔法を使って逃げられないようにしているので……」
(魔法を使う前提で考えているのがダメなのね……それなら、まだ手はあるわ!)
レティシアは髪を止めているヘアピンを髪からとると、微かに笑みを浮かべた。
このヘアピンはレティシアが必要ないと言ったにもかかわらず、ルカが彼女の髪を整えていた時にわざわざ使ったものだ。
彼女は牢屋の外に腕を出し、鍵穴をヘアピンでいじり始めた。
薄暗い静かな地下牢に、カチカチと何かがぶつかる音が小さく響く。
レティシアは鍵穴から聞こえる音を頼りに、パズルを解くために少しずつヘアピンを動かす。
その姿はとても落ち着きがあり、わずかに動かす指先がまるで刺しゅうを刺しているように静かだ。
暫く経つとカチカチと鳴る音は止み、代わりにガチャッと鍵が開く音が響いた。
(開いたわ……)
魔法が使えないのなら、使わなければいいだけのこと。
過去の転生で、レティシアは社会の裏側で生きたことがある。
そのため、牢屋の鍵を開けることなど、それほど難しい話ではない。
しかし、彼女に鍵開けの知識があると知らなかったライアンは、驚いたように彼女を見つめる。
けれど、ライアンの様子を彼女は気にする様子はどこにもなく、牢屋の扉を開けると外に出て背伸びをしていた。
「なんと言いますか……ララ様の知識量に、オレはこの先も勝てなそうですね」
感心するようにライアンは言うと、レティシアは振り向いて笑顔を向ける。
「そんなことはないわ、少なくとも、料理に関して言えば私はジャンに負けているわ」
レティシアの笑顔は明るく、全てを包み込んでくれる温かさがそこにはあった。
だけど、先程まで静かだった地下牢は、人が動く気配が無数に存在している。
鉄格子から伸ばされた手は、「助けて」と助けを求める声が2人の耳に届く。
「ララ様、他の方たちはどうしますか?」
ライアンは不安げにレティシアに尋ねたが、レティシアは今の段階で牢屋に居る彼女たちを外に出すつもりはない。
彼女たちを牢屋から出したところで、彼女たちを連れてここから出る姿がレティシアには想像できないのだ。
たとえ魔法で彼女たちの姿を隠して移動しても、外に出た瞬間にレティシアの指示に従わず、1人でも走り出してしまえばすぐに見つかってしまう。
そうなれば、レティシアは彼女たちを守りながら、リビオ王の部屋に向かわなければならない。
しかし、王妃から酷い仕打ちを受けた彼女たちが、果たして国王を信じられるのだろうか?
不安は迷いとなり選択を強いられる、そして常に命を危険に晒す。
そのため、レティシアは彼女たちを連れて行かないという判断を下す。
「彼女たちはおいていくわ、今は私たちができることだけをしましょう」
「……そうですね」
ライアンは力強く拳を握ったが、2人で彼女たちを守れないことは彼も分かっている。
けれど、記憶を無くしてしまった事件が頭にチラつき、目の前にいる少女さえまともに見られない。
それでも、彼の気持ちなど知らない少女は透明魔法を使い、2人の姿を隠してしまう。
足音を立てずに上がる階段は暗く、頬に感じる空気は冷たい。
小さな背中は強さが滲み、ライアンは己の弱さを突きつけられる。
『もう少しで地上よ』
長時間、太陽の光を見ていないことを考え、レティシアはテレパシーを使ってライアンに話しかけた。
彼女は振り返らず、警戒しながら外につながる扉を開けると、彼女は太陽の位置を確かめた。
太陽の位置から、捕まってすでに1日が経っていることが分かる。
(アランたちと合流しよう)
レティシアはそう思うと、少しだけ歩く速度を上げてリビオ王の寝室へと向かった。
行き交う兵士はレティシアとライアンの姿に気付かない。
そのため、レティシアはあらかじめアランとステラに聞いていた、危険ヵ所を避けて城の中を進む。
白い壁は2人の姿を明かそうと白さが増し、赤い絨毯はまるで2人を鼓舞しているようだ。
しかし、レティシアは突如足を止めると、冷たい視線を進行方向に向けていた。
彼女の視線の先には、ピンクと深い緑色の髪の毛をした男女が並び、ディーンが対応している。
ディーンは必死に2人を追い返そうとしているようだが、2人が引き下がる気配はないようだ。
渋々と言った雰囲気を出しながら、ディーンが2人を部屋に招き入れると、レティシアとライアンも滑り込むように彼らに続く。
暫くの間、レティシアは聖女と精霊師の対応を見ていた。
結局、断れなかったディーンに、彼女は冷ややかな視線を向ける。
聖女が前回と同様にリビオ王の手を向け、微かに聞こえる声で呟くと、淡い光がリビオ王の周りに広がった。
そして、光が収まると、今度は精霊師が先程の聖女と同じように呟き、リビオ王に手を向ける。
リビオ王が淡い光に包まれると、レティシアは静かに光が収まるのを眺めていた。
彼らは前回と同じことをしているに過ぎないが、今回は前回とは違う。
なぜなら、リビオ王にかけられていた魔法は、完全にレティシアの手によって解かれていからだ。
だが、彼らも異変に気付いたのか、顔を見合わせて困惑している。
「陛下の容体が思っていたより、悪くなっています。じぶんたちはこれから陛下に、回復魔法を施しますので、ディーンさんとルークさんの御二人は部屋から出て行ってもらえますか?」
精霊師が冷静に言うと、ディーンは首を横に振った。
「2人というのは無理です。私が部屋から退室しますが、ルーク殿にはこの部屋に残ってもらいます。それがダメだと言うなら、許可はできません」
「ワタシからもお願いします! このままでは、リビオ王の容体は悪くなるばかりですよ!!」
「申し訳ございません。たとえ聖女様からの願いであっても、これはアラン殿下からのご命令でございます」
「分かった! だけど、後で前回のように、慌てて呼びに来ても、じぶんたちは知りませんよ? それでいいのですか!?」
「はい、そう言われておりますので、構いません」
「そうですか!!」
苛立った様子で精霊師が言うと、聖女の腕を引っ張りながらドスドス音を立てて部屋から出て行った。
レティシアは魔法を解くこともせず、リビオ王の近くまで行くと、彼の容体を確認する。
最後にレティシアが見た時より、彼の容体はだいぶ回復している。
「小さなお嬢さん、そこに居るのかい?」
ゆっくり目を開けたリビオ王は、落ち着いた声でそう尋ねた。
「はい、ここに」
レティシアの声が聞こえると、見えない人物を警戒するように、ルークは剣に手を置いた。
しかし、彼の行動をレティシアは否定するつもりはない。
だが、ルークに対し、リビオ王は軽く片手を上げ、大丈夫だと彼の目が告げる。
「彼女たちが何をしていたのか、小さなお嬢さんには分かったのか?」
「いろいろと、ディーンさんとルークさんに言いたいことはありますが、今はやめておきます。聖女と精霊師が何をしていたのか、分かりましたので」
「そうか、それでこの後、予はどうすればいいのだ?」
「陛下も報告を受けているのではないですか?」
「ああ、もちろん予も報告は聞いておるよ」
リビオ王は姿が見えなくても、少女から向けられた視線を感じた。
沈黙が流れ、彼は彼女が口を固く閉ざしたのだと分かった。
彼女が何を考え、なぜ何も言わないのか彼には分からない。
しかし、彼女から向けられた無言は、今後の行動は国王が決めるべきだと言っているようにすら感じられる。
「――そうか……決断の時ということだな……」
「そうなりますね」
レティシアが淡々と言うと、リビオ王は寂しそうに笑った。
「今回、私は王妃の誘いに乗って、わざと捕まりました」
この国の将来に、レティシアは答えを出すことはできない。
しかし、呑気に様子を見守る時間は、もうこの国は残されていない。
そのため、彼女は国王に何があったかを話す。
「あのままどこに連れて行かれるのか、それも私の目で確かめることもできましたが、私の代わりにステラが他の場所にいた女性たちの行方を確かめてくれました」
「そうか……そなたの使い魔は優秀なんだな」
「はい、とても優秀です。ですが、陛下にも優秀な家臣や王子がおります。ですので、どうか正しいご決断を」
地下牢に捕まっていた女性たちの行方は、完全にステラに任せている。
そのため、彼女たちの安否も確認済みだ。
しかし、このままでは、彼女たちの安否を保証できなくなる。
だからこそ、レティシアはわざと捕まり、逃げ出すことによって、犯人が動かかなければならない状況を作り出した。
「アランたちは、いつ頃こちらに戻る予定か分かっているか?」
「問題がなければ、陛下が指定した日には、必ずこの城に戻って来ると思います」
レティシアの冷たい声が室内に広がると、リビオ王は深いため息をついた。
そして拳を握り、ディーンに向かって強い意思で告げる。
「1週間後、皆の者を謁見の間に集めてくれ。無論、王妃やこの国に居る他国の王族もだ」
「かしこりました」
ディーンは頭を下げると足早に部屋を出て行き、部屋の中には暫しの沈黙が流れる。
「迷惑を掛けて、すまないな……」
リビオ王は力なく言うと、握っていた拳を静かに見つめていた。
「いえ、私は1度アランたちと合流しますので、ここで失礼します」
見えないと分かっていても、レティシアは頭を下げた。
そして、彼女は前回ここに来たときに描いた魔方陣へと向かう。
しかし、同じ皇族として思うことがあったのか、ライアンは何かを言いかけたが、歯を食いしばって強くズボンを握りしめていた。




