第95話 屋根裏の監視者
レティシアたちがラウルと会ってから2日後、神歴1496年10月28日。
ステラは、とある宿屋の一室を監視していた。
辺りは暗く、埃とカビの匂いが交じり合う。
彼女の白い毛並みは、汚れそうで汚れることはない。
それは、首輪に施された付与術のおかげかもしれない。
唯一足元に見える隙間からは、光が差し込み、部屋の風景が見える。
時折、隙間からは食事や茶の匂いが、天井裏に潜んでいるステラの所まで届く。
甲高い女性の短い悲鳴が聞こえると、すぐに食器が割れる音が響いた。
その瞬間、ステラからは思わずため息がこぼれた。
そして、彼女は足元にある穴から部屋の中を覗き込んだ。
短い悲鳴を上げた女性は、床に膝をついて割れた破片を拾い集めていた。
割れている破片から、元々それがティーカップだったことが分かる。
そして、メイド服のエプロンについた薄い茶色のシミから、ティーカップを投げつけられたことが想像できた。
「あなた、まともにお茶も入れられないのかしら?」
ソファーに座っている赤髪の女性は、まるで軽蔑するかのような視線をメイドに向けた。
彼女の黒い瞳は冷たく、彼女の方を見たメイドはビックっと肩を震わせ、勢いよくその場にひれ伏す。
「も、申し訳ございません」
自分の爪を見ている赤髪の女性は、メイドがひれ伏すの見ると口角を上げた。
肉付きのいい唇でニヤリと不気味な笑みを浮かべた彼女は、おもむろにソファーから立ち上がる。
ゆったりとした足取りで歩く彼女は、だんだんとメイドに近付いていく。
その瞬間、ひれ伏したメイドは、ガタガタ震えだし、泣きながら必死に額を床に擦り付ける。
「お、お許しください!」
「あぁ~そっか、あなた人族だったものね? わたくしが、あなたがいれた、まっずぅいお茶を飲ませて差し上げますわ」
赤髪の女性は、近くにあったティーワゴンから、ティーポットを手に取ると楽しげに笑う。
そして、ひれ伏しているメイドの頭上で、ポットをゆっくりと傾けた。
注ぎ口からは湯気が立ち込め、こぽこぽと音をたてながら流れ出す。
湯気を纏った茶色い液体は、メイドの頭に注がれる。
メイドは小さく悲鳴を上げたが、赤髪の女性は目を輝かせた。
「も、申し訳ございません! 次はお気に召すように、お入れします! どうかお許しください!」
メイドは必死に言うが、それでも赤髪の女性が止めることはない。
ポットから茶色い液体が出なくなると、赤髪の女性は「あら?」っと言って、ポットから手を離した。
次の瞬間、ガッシャ! っと大きな音をたてポットが割れると、メイドの頭から血が流れ始めた。
しかし、赤髪の女性は、それを見てわざとらしく大きなため息をついた。
「はぁ~あ、もういいわ。こいつを城の地下にある牢屋に入れてちょうだい」
「「はっ!」」
壁際に立っていた獣人族の兵士は、返事するとメイドに駆け寄った。
彼らはメイドの両脇を抱え、無理やりメイドを立ち上がらせるが、メイドはその手を解こうと暴れる。
「ま、待ってください!」
「わたくしが城に戻ったら、しっかりと立場を分からせてあげるわ」
「ま、待ってください!! ど、どうかお許しください!!」
青白い顔をしながら、メイドは大きな声で泣いて謝る。
その声は、喉が潰れてしまいそうなほど大きく、悲鳴に近かった。
けれど、赤髪の女性は、蔑んだ視線を兵士に向けると命令する。
「あなたたち! 何をしているの!? 早くしてちょうだい! 人族の悪臭で、この部屋が臭くなるわ!!」
赤髪の女性の声から、彼女が苛立っていることが分かる。
そのため、兵士たちは慌ててメイドを引き摺って連れ出していく。
(いやだ! 連れて行かれたくない!!)
「待ってください! お許しください!! 王妃殿下! 王妃殿下!!」
(いや! いや! やめて!! 行きたくない!!)
「いや!! 王妃殿下!! お許しください!!」
両脇を抱えられ、引き摺られながらもメイドは懸命に叫んだ。
兵士の手から逃れようとメイドは暴れるが、鍛え上げられた兵士からは逃げることはできない。
だが、この部屋に彼女を助ける者など誰1人としていない。
それを物語るように、獣人族のメイドによって部屋の扉は閉ざされた。
「全く、人族の分際で、わたくしに許してもらおうなんて、おこがましいわ」
王妃殿下と呼ばれた赤髪の女性が歩くたび、カツンカツンと床が音を鳴らす。
彼女はドサッとソファーに座ると、傍に控えていた獣人族のメイドが紅茶を出した。
部屋には先程と同じ香りが広がり、ティーカップの中には先程と同じ紅茶が姿を見せる。
「新しいお茶を、お入れしました」
王妃殿下はティーカップを手に持ち、香りを楽しむと微笑みながら言う。
「ん~。やっぱり純血者がいれたお茶は、香りから美味しく感じるわ」
◇◇◇
ステラと視覚と聴覚を共有していたレティシアは、あまりの出来事に唖然とした様子で口を押えた。
『……何あれ……あれが本当に、この国の王妃なの……?』
聴覚の共有で、ここ数日の様子は聞いて知っていた。
だが、レティシアはここまでとは、思っていなかった。
せいぜい、王妃付きのメイドが手を出し、それを王妃が見ていただけだと彼女は考えていた。
そのため、先程の光景が信じられず、驚きを隠せないでいる。
『すごいよね。ステラからしたら、人族も獣人族も大差なんてないのに』
呆れたようにステラは言ったが、それが彼女の本心なのだろう。
『……そうね。純粋な能力値で言えば、人族は獣人族に劣っているけど、見た目は似ているものね』
『そそ、同じ人なのに、なんであんなに嫌うのか分からないよ。人族だって得意分野で戦えば、獣人族にだって負けないよ?』
『ん-。生き物だからじゃないかしら? ほら、周りと違うと、魔物も人も、その輪から弾こうとするでしょ? きっとそれと似ているのよ』
過去の立場や生まれなどで、レティシアは差別を受けた過去があった。
だけど、差別する側になったことはなかっため、レティシアはなんとかそう言った。
しかし、魔物や動物が群れから弾く場合と、人が群れから弾く場合の理由が違うことを、彼女はよく知っている。
それでも、他にどう説明すればいいのか、彼女には分からなかった。
『ふーん。ステラには、理解できないわ』
『理解しなくてもいいと思うわ。私も、差別する気持ちなんて理解できないもの』
そう言ったレティシアの瞳は、どことなく悲しげだった。
本人にはどうしようもないことでも、差別する人は一致数いる。
自分と違うものを恐れてしまうのは、人としての本能かもしれない。
だけど、相手のことを知ろうともせず、初めから嫌うのは違うとも思っている。
差別を正当化していい理由など、どこにも存在しないからだ。
『……でも、人族が嫌いなのに、なんでいつも人族を呼ぶのかしら?』
『さぁ? ステラには分からないわ』
仮に、王妃が心の底から人族が嫌いなら、関わらなければいいだけの話だ。
だが、ステラが王妃を見張るようになって、今日で3日目。
必ず人族のメイドが1人はいて、先程のようにちょっとした理由で連れて行かれている。
『王妃殿下も見張りたいし、さっきの女性がどうなるのかも知りたいわ……困ったわ』
この時、レティシアは使い魔が、もう1匹いてくれたらと思った。
けれど、幻獣であるステラと会えたことも、契約できたことも、全て幸運が重なった出来事だと理解している。
なぜなら、たとえ他の使い魔と契約できたとしても、幻獣や聖獣でなければ、感覚の共有ができるとは限らないからだ。
『ステラが分身を使えたら、問題解決だったのにね』
『……分身、分身かぁ……』
(分身ねぇ、分身……分身……)
何気なくステラが言ったことだったが、レティシアは分身と聞いて深く考えだした。
実際、レティシアは魔の森で冒険者と戦った時、彼女は分身を作っていた。
だけど、等身大あるレティシアの分身を作っても、今は役に立たない。
『そうよ! 分身だわ!!』
『レティシア、悪いけど……ステラ分身は使えないよ?』
『大丈夫よ。任せてちょうだい』
レティシアは自信ありげに言うと、手を合わせた。
彼女は合わせた手に息を吹きかけ、ゆっくり手を開くと、魔法で創られた1頭の黒蝶が姿を現した。
レティシアは、黒蝶に対し「君の力を、また借りるよ」と言って優しく微笑んだ。
この黒蝶は、彼女が過去の転生先で、ある少年が使っていた魔法だ。
彼は魔力のせいで親から虐待され、見た目で人々から差別されていた。
しかし、彼は蝶を創り出しては、子どもたちを喜ばせていた。
その子どもたちの親は、日頃から彼を差別していた。
だが、それでも彼は「あの子たちと、あの子たちの親は違うよ」と言って笑っていた。
手のひらから飛び立った黒蝶は、ヒラヒラと宙を軽やかに舞いながら窓へと向かう。
そして、窓の外に出た瞬間、黒蝶はスーッと姿を消した。
『さっきの黒蝶は何? 失敗したの?』
『いいえ、成功しているわ。あれは、私の魔力だけで作った魔法よ。音を聞けるだけで、あまり偵察には向かないけど、もう王妃の行動は見なくても分かっているから、ステラは城に向かってくれるかしら?』
『分かったわ』
ステラは頷いて返事すると、共有していた感覚を切った。
1度だけ下を向いた彼女は『哀れな生き物ね』と呟くと、部屋を出て行った兵士たちを追った。
暫くしてから、先程までステラがいた場所に1頭の黒蝶が現れた。
黒蝶は床にとまると、羽をゆっくりと動かし、次第に動きを止めた。




