第9話:名前のない灯り
あの日から。
少しだけ、歩き方が変わった。
行き先は、まだ決まっていない。
でも。
立ち止まることは、減った。
(……できることを、やる)
それだけは、決めたから。
朝の空気が、少し冷たい。
市場の端。
人通りの少ない場所で。
また、しゃがみ込む。
「……じっとしててください」
小さな声で、そう言う。
目の前には、腕を押さえた少年。
転んだらしく、浅い傷ができている。
血は、少しだけ。
でも。
放っておけば、悪化するかもしれない。
手を、かざす。
あの日と同じ。
でも、違う。
迷いは、少ない。
光は、まだ弱い。
それでも。
じんわりと、傷が閉じていく。
「……すご」
少年が、ぽつりと呟く。
その一言で。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
(……まだ、できる)
完全じゃない。
でも。
ゼロじゃない。
「……ありがとう」
小さな声で、言われた。
顔を上げる。
少年の目が、まっすぐこちらを見ている。
逃げない。
逸らさない。
その視線に。
ほんの一瞬、戸惑う。
でも。
今度は、逃げなかった。
「……気をつけてね」
ぎこちなく、そう返す。
少年は、うん、と頷いて。
走っていった。
その背中を見送りながら。
息を、ひとつ吐く。
(……これで、いい)
誰にも頼まれていない。
評価もない。
称賛もない。
でも。
それでも。
確かに、ひとつ。
救えた。
その事実だけが。
静かに、胸に残る。
立ち上がる。
そのとき。
「……最近、よく見るな」
後ろから、声。
振り返る。
見知らぬ男だった。
警戒が、少しだけ走る。
でも。
その表情は、穏やかだった。
「金は取らないのか?」
意外な問い。
一瞬、言葉に詰まる。
「……考えて、ませんでした」
本音が、出る。
男は、少しだけ驚いた顔をして。
それから、苦笑した。
「変わってるな」
そう言って。
懐から、小さな包みを取り出す。
「パンだ。余りもんだが、食える」
差し出される。
思わず、目を瞬く。
(……いいの?)
言葉にはしなかったけれど。
表情で、伝わったらしい。
「さっきの、見てた」
男は、短く言った。
「助けてただろ」
胸が、少しだけ強く鳴る。
評価じゃない。
でも。
“見ていた人がいる”。
その事実が。
こんなにも、重い。
「……ありがとうございます」
両手で、受け取る。
温かい。
ほんのりと、手に熱が伝わる。
パンの匂いが、ふわりと広がる。
その香りに。
急に、現実が押し寄せる。
(……そういえば)
ちゃんと、食べていなかった。
お腹が、静かに鳴る。
少しだけ、恥ずかしくなって。
視線を逸らす。
男は、それ以上何も言わず。
手をひらひらと振って、去っていった。
その背中を見送りながら。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……報い、か)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
大きなものじゃない。
称賛でも。
地位でも。
ただの、パンひとつ。
でも。
それが。
こんなにも、嬉しい。
包みを、少しだけ強く握る。
涙が、出そうになる。
でも。
今度は、こらえた。
代わりに。
小さく、笑った。
(……もう一度)
やり直せる気がした。
全部じゃなくていい。
少しずつでいい。
それでも。
ちゃんと。
積み重ねていけば。
きっと。
何かに、なる。
顔を上げる。
人の流れ。
いつもの街。
でも。
昨日とは、少し違う。
ほんの少しだけ。
ここにいてもいいと、思えた。
そのとき。
視界の端に。
見慣れた姿が、映る。
少し離れた場所。
シエラ・ノクシアが、立っていた。
何も言わずに。
ただ、こちらを見ている。
視線が、合う。
一瞬だけ。
沈黙。
でも。
今は、もう。
逸らさなかった。
ほんの少しだけ。
頭を下げる。
シエラは。
それに対して。
わずかに。
本当に、わずかにだけ。
頷いた。
それだけで。
十分だった。




