第1話:選ばれた勘違い聖女
――わたしは、人を救うために選ばれた。
そう、信じていた。
疑う理由なんて、一つもなかった。
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「聖女様、こちらへ」
控えめに差し出された手に、わたしは少しだけ視線を落としてから、指先だけを重ねた。
「ええ。急がせないで」
自分でも分かるくらい、声は落ち着いている。
……少し前までの自分なら、こんなふうに振る舞えなかった。
誰かに手を引かれることも。
誰かに“様”付けで呼ばれることも。
なかったから。
(これが、“選ばれた”ってこと)
胸の奥が、じんわりと満たされていく。
平民の娘だったわたしが、神に選ばれ、“聖女”になった。
神殿に迎えられ、王城に招かれ、貴族たちに囲まれる。
――そして今は。
「本日の装いでございます」
侍女が差し出したのは、白を基調としたドレスだった。
清楚で、慎ましくて、いかにも“聖女らしい”。
……でも。
「地味ね」
思ったことが、そのまま口に出る。
侍女の指先が、ぴくりと揺れた。
「本日の茶会には、上位貴族の方々も……特に、シエラ・ノクシア様がいらっしゃいますので」
「シエラ・ノクシア?」
聞き慣れない名前に、わたしは小さく首を傾げる。
「公爵家のご令嬢で、殿下の――」
「それで?」
言葉を遮る。
侍女が、息を飲んだのが分かった。
「その人が来ると、何か問題があるの?」
「い、いえ……そうではなく、礼節を――」
「礼節なんて、あなたたちが気にすればいいことよ」
わたしは軽く肩をすくめた。
「わたしは聖女。誰よりも上に立つ存在でしょう?」
空気が、静かに冷える。
でも、それに気づくほど、わたしは鈍くはなかった。
ただ――
(どうして、そんな顔をするのよ)
侍女の“困ったような顔”が、妙に気に入らなかった。
まるで、わたしが間違っているみたいに。
まるで、何も分かっていないみたいに。
「……着替えるわ。これでいい」
ドレスを受け取りながら、わたしは視線を逸らした。
それ以上、その顔を見たくなかったから。
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王城の大広間は、光に満ちていた。
磨き上げられた床に、シャンデリアの輝きが反射する。
貴族たちの笑い声、グラスの触れ合う音、香水の甘い匂い。
すべてが、わたしを中心に回っているように感じた。
「聖女殿」
呼ばれて顔を上げると、そこには。
「お待ちしておりました」
ノクト・エルディ殿下が、穏やかに微笑んでいた。
静かな瞳。無駄のない所作。
感情をあまり表に出さない人だけど、その分――言葉の重みが違う。
その視線が、まっすぐにわたしを捉える。
それだけで、胸が満たされる。
(ああ、やっぱりわたしは――)
選ばれている。
ここにいていい。
そう思えた。
「皆に紹介しよう」
殿下の声で、場が静まる。
「公爵令嬢、シエラ・ノクシアだ」
静寂の中、ひとりの少女が前に進み出る。
深い色の髪を揺らし、無駄のない足取りで。
華やかさはない。
けれど――目を逸らせない。
そんな存在感。
「初めまして、聖女様」
完璧な一礼。
その所作は、洗練されすぎていて、少しも隙がなかった。
……だからこそ。
気に入らなかった。
「ええ、初めまして」
わたしも微笑みを返す。
形だけは、完璧に。
(この人、嫌い)
理由なんてない。
ただ、そう感じた。
そして――その感覚を。
わたしは疑わなかった。
「本日の振る舞いについて、少しだけ――」
「必要ないわ」
シエラの言葉を、わたしは遮る。
ぴたり、と場の空気が止まる。
「わたしは、わたしのやり方でやる。あなたに指図される理由はないでしょう?」
柔らかく、でもはっきりと。
線を引く。
――あなたとは違う、と。
一瞬だけ。
シエラの瞳が、わずかに細められた。
感情の見えない、静かな視線。
それが、なぜか胸の奥をざらつかせる。
「……そうですか」
それだけだった。
怒りも、呆れも、見せない。
ただ、引いた。
最初から、何も期待していなかったかのように。
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その時のわたしは、まだ知らなかった。
この人が。
わたしのすべてを壊すことになる相手だなんて。
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そして。
わたしがこれから選ぶ“正しさ”が。
ひとつの命を、静かに奪うことになるなんて。
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――それでも、わたしは。
自分が間違っているなんて、思いもしなかった。




