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チカラ  作者: 長月ニーナ
8/32

八 覚醒

義貴は思った。


——制服姿で街中を移動すれば、補導されてしまう。


制服姿だった義貴は、水族園の最寄り駅の中にあった衣料品店で、シャツとTシャツとジーンズを買って着替えた。

そして、移動中の電車の中で宅配便のラベルに宛名を書いて制服を入れた紙袋に貼り、乗り換えの合間にそれを自宅に発送した。

義貴が研究所に着いた時には、水族園から三時間近くが経っていた。

何事もなければちょうど集合時間だった。

教師達は今頃生徒の安否確認をしているはずだが、舞が一時的にひーこと義貴の存在を教師や友人の意識から消すので騒ぎにはならなかった。

それをできるチカラが彼女にはあった。

義貴は思った。


——ひーこはまだ、目が覚めていないのか。


義貴は先程から研究所の中をチカラで『視て』いたが、ひーこの意識が感じられずにいた。

ひーこが研究所以外の場所に連れて行かれた可能性もあった。

たとえば、義貴の母親の病院先ならば、水族園から一時間以内で着いた。

しかし義貴は、今回の誘拐はおそらく母親は関知しないことだろうと読んでいた。

母親がひーこを拉致させるのであれば、人目を避けてするだろうし、何より理由がない。

息子を呼び出すのなら、電話をすれば済むことだからだ。

義貴は、ひーこはここにいると判断した。

義貴は研究所内に忍び込むことも考えたが、彼ら仕掛けた出来事なら正面から入った方が話は早いと思い直した。

義貴は養護園に向かいながら考えた。


——ひーこ自身に用がないから、危害を加えることはないだろう。


義貴が養護園の入口に向かうと、その先に例の管理人がいた。

管理人以外は、受付にも廊下にも人の気配が薄かった。

管理人は驚いた表情も見せずに言った。

「義貴様。さすがですね」

その沈着ぶりは誰かから連絡が行ったのか、それとも義貴が来ることを予想していたからなのか、義貴には判断できなかった。

義貴は自分が冷静になるために、彼に尋ねた。

「まずは、あんたの名前を聞きたい」

石井いしいと申します」

「石井、俺はひーこを迎えに来た」

義貴はひーこを本名で呼ぶのを止めた。

義貴は思った。


——こいつらは、ひーこの身辺を調べたはずだ。


石井は否定もせずに頷いた。

「はい。やはり、気づかれていましたか。視たのですか?」

義貴は思った。


——彼らの目的が俺の能力を計ることであれば、わざわざ教える必要はない。


義貴は、石井の問いを無視した。

「彼女を返せ」

「さて、あなた様の能力でこの建物を視ても、判りませんか?

姫呼さんはもう、起きていますよ」

石井の言葉の意味を義貴には判断できかねていた。


——俺にかまをかけているのか、『視る』チカラを遮ることができる場所にいるのか。


義貴は亮の居場所も分からないことから、後者であると予想した。

石井は素直にひーこを出さないと判断した義貴は、石井を素通りして近くのドアの前に立つと、内部をチカラで『視て』、透視できない部屋を開けはじめた。

鍵がかかっていても、チカラで鍵を内側から物理的に外すことはできた。

すると義貴は石井に呼び止められた。

「義貴様、判りました。亮のところへお連れします」

「俺が探しているのは亮じゃない」

「姫呼さんの居場所は亮が知っています。こちらへ」

石井が示した場所は、建物の二階をあがった最奥部の、体育館のような広い空間だった。

入り口側の壁は一面鏡になっていたが、運動器具などはなく、窓すらなかった。

そして部屋の奥に亮が立っていた。

亮は嬉しそうな声で言った。

「おにーちゃん、招待する前に来てくれるなんて」

「ひーこを返せ」

「よく判ったね。俺が彼女をさらったこと。それも『視える』の?」

「俺に何の用だ」

「俺と戦って、勝ったら彼女を渡す」

亮の意図は義貴の予想通りだった。

義貴は苛立ちを抑えるために深呼吸をしながら思った。


——やはり。この間、徹底的に叩けば良かったのか?


義貴は冷静な声で言った。

「ひーこを巻き込まなきゃ、俺を呼び出せないのか」

「彼女がいなきゃ、本気出さないだろ?」

義貴は黙っていた。

義貴は亮の能力を知らない。

義貴自身も『チカラ』でどれだけ戦えるのかを把握できていない。

義貴は考えた。


——ここがチカラを出してもいい空間であるならば、亮は何らかの形で訓練を受けているはず。

本来の能力は俺が上だとしても、戦いで俺に勝算があるかは分からない。


これまで義貴は物を飛ばして相手に当てることはできた。

しかしここには物がない。

義貴は目を閉じると、『チカラ』を空中に集中させた。


***


これより三十分前。

ひーこが目を覚ますと、真っ白な部屋の中にいた。

六畳ほどの部屋にはベッドだけがあり、傍らの椅子に男・亮が座っているのが見えた。

ひーこは呟くように言った。

「ここ・・・水族館?」

亮はひーこの顔を見て応えた。

「そう思う?」

「水のにおいがしない」

水族館の中は少し蒸し暑い、湿度の高い空間だった。

しかしここには生き物のいる雰囲気がしなかった。

ひーこはベッドから起きあがり、そのままベッドの上に座った。

ひーこは制服のままだが、目の前の彼はTシャツにジーンズ姿だった。

ちょっと小柄の彼は、ひーこの目には年下に映った。

亮は淡々と言った。

「そう。ここは水族園じゃない」

「・・・どういうこと?」

ひーこは彼の方を見た。

暗い目をした彼の顔は勝ち気にも、寂しそうにも見えた。

「俺があんたを連れてきた。橋本姫呼」

「あなた誰?」

ひーこはまっすぐ亮を見た。

しかし、亮はひーこの視線を逸らせた。

理由は判らなかったが、ひーこの視線をまぶしく感じたのだ。

亮は途惑った。


——なんだ、この女。


ひーこが眠っている間、亮はぼんやりとひーこを見ていた。

義貴はこの国の経済に深く影響する、間宮家の跡継ぎだった。

しかも義貴本人が社会に影響を及ぼせるだけの強いチカラを持つ。

亮は兄の話をそう聞かされて育った。

だから亮は義貴に恋人ができたことを知ったとき、その女を見たいと思っていた。

しかし目の前で眠っているのは、どう見ても普通の女子高生だった。と

ころが亮はひーこの目を見て、そして声を聞いて気持ちが落ち着かなくなった。

義貴が近づいていることを感じているのか、それともひーこ自身に対して何かを感じているのかは、亮には判断できなかった。

亮はひーこに言った。

「俺は間宮亮。あんたとは、前に会っている」

「間宮?間宮くんの親戚?」

「義貴の弟」

「間宮くんの弟が、どうして?」

現状が把握できていないはずのひーこのが冷静であるのに対して、亮は自分の中から沸き上がる感情を抑えられなくなってきた。

亮はひーこの前に立ち、彼女をベッドに押し戻した。

亮は小柄と言っても、ひーこよりは背が高く、彼女の自由を容易に奪うことができた。

亮は自分の身体でひーこの身体を押さえると、顔をひーこの顔に近づけた。

ひーこは自身に起きたことを理解できないなりにも、とっさに腕を自分の顔の前で交差させて、迫る亮の顔から逃れた。

「なにをするの?」

それでひーこは思い出した。

「あなた、河原で」

亮は口の両端を歪めるように笑いながら言った。

「そう、河原で会ったの、覚えている?」

亮はひーこの右手をベッドに押しつけた。

ひーこは河原での出来事を思い出した。

友人と別れた帰り道、ひーこは河原沿いの道で三人の男にすれ違った。

すると、ひーこの行く道の先に亮が立っていたのだ。

ひーこは、亮を見ながら不思議に思った。


——ずっとこっちを見ている。さっきすれ違った人の友達かな?


すると亮が腕を伸ばして、人差し指をひーこに向けた。

その瞬間、ひーこは後ろから男に羽交い締めされたのだ。

ひーこがその時のことを思いだしていると、亮は再びひーこに顔を近づけて言った。

「あんた、中学の頃、剣道部だったって?正面からいくと暴れられそうだからな。

ほら、今も。左手の力が強い」

亮はひーこの左手もベッドに押しつけた。

「あなたは、どうしたいの?」

そう言いながらひーこは思った。


——もし前のように襲うつもりなら、私が寝ている間にできたはず。

彼は私が嫌がる姿が見たいんだ。冷静になろう。


亮はひーこの質問には答えずに言った。

「やめて、って言いなよ。ほら」

ひーこは迫ってくる亮の顔から自分の顔を背けた。

すると亮はひーこの首筋に口を付けた。

ひーこが顔を動かすと、亮はブラウスの隙間からひーこの鎖骨に舌を這わせた。

ひーこは身体をひねって亮から逃れようとした。

「いやだ・・・・いやだって言っているでしょ!」

ひーこは思った。


——大和のプロレス技、ちゃんと構ってやれば良かった。


プロレス好きの大和は子供の時によくひーこに技をかけて遊んだ。

大和は手を抜いてかけていたのだが、何かの拍子でかけられた技があまりに痛くて、怒ったひーこはしばらく弟と口をきかなくなった。

それ以降、大和はひーこにプロレス技をかけるのを止めた。

ひーこがそんなことを思い出している間も、亮は左手でひーこの両腕を束ねると、右手でひーこのブラウスのボタンを外し始めた。

「ちょっと、やめて」

ここで初めてひーこは男女の力の違いを感じた。

大和とけんかをしても負けないつもりだったのに、いくら力を出しても自分より年下に見える男を押し返せなかった。

冷静に対応しようにも、体力の差が大きすぎた。

亮はひーこのブラを押し上げて胸を露わにし片手で揉むと、乳首を口に含んだ。

その瞬間、ひーこは思い切って恋人の名前を呼んだ。

「間宮くん、間宮くん!助けて!」

亮はその言葉にむっとした。

「身体越しに聴くと、うるさいな」

そう言うと、ひーこの胸を強く揉むと、その白い胸元に噛みついた。

「いやっ」

ひーこが悲鳴をあげたその時、ドアの横にあるインターフォンから男の声が聞こえた。

「亮、義貴様が研究所に到着しました」

一瞬、亮は身体を震わせ、身体を起こした。

亮のあまりの動揺ぶりに、ひーこは冷静になって考えることができた。


——間宮くんだと思ったのかしら?


亮はベッドから降りてドアを開けた。

そこには中年の男が立っていた。

亮は男に言った。

「わかった。訓練室に連れてこい」

亮はひーこを振り返りもせず、中年の男と一緒に部屋を出て行った。


***


ひーこはあわてて起きあがり、呼吸を整えながら胸元を直した。

亮に噛まれた胸元には紅い内出血の跡ができた。

好きでもない異性に素肌の胸を触られたひーこは、精神的にショックを受けて身を震わせた。

ひーこは自分を落ち着かせるために、彼の言葉を反芻した。


——義貴様?研究所?あの人は誰?私はどこにいるんだろう。


壁の雰囲気からして、ビルの中のにいるとひーこは思った。

ひーこはふと、亮が座っていた椅子に自分の鞄がかかっているのを見つけた。

中を開けると自分の携帯電話があったが、圏外になっていた。

建物全体がシールドされているので電話の電波が入らないのだが、ひーこはアンテナの中継地がない地域なのだと思った。

「電波が届かないって、どんな田舎なの、ここ」

時間を見るともう夕方だった。

どういう経緯でここに連れてこられたかわからないが、水族園から姉がいなくなったら大和は心配するだろうとひーこは思った。

しかし電話をかけても通じなかった。

ひーこが状況を飲み込めずにいると、しばらくしてインターフォン越しに声が聞こえた。

「橋本様、入っても宜しいですか?」

亮の声ではなかった。

「はい」

ひーこが返事をすると、先ほど亮に声をかけた男が扉を開けた。

「先ほどは亮が失礼なことをいたしました。気分はいかがですか?」

男の言葉遣いが丁寧なので、ひーこは少し途惑った。

「はい・・・・」

「私は亮の教育係で、石井と申します」

「あの、私はどこにいるのでしょう?私は水族園にいたはずですが」

ひーこは至極まともな質問をしたつもりだった。

しかし石井は静かに笑った。

「あなたは物事に動じませんね」

ひーこは思った。


——どこが?


亮といい、石井といい、ひーこの質問に全く答えていない。

ひーこはここの人間と会話が通じないのではないかと不安になった。

石井は淡々と続けた。

「あなたは義貴様からあまり話を聞かされていないようだ。

なので、あなたがどこにいるかはまだお知らせしない方が良いでしょう。

先ほどの人物は、義貴様に用事があってあなたを誘拐した。

そして義貴様は今ここに来ています。もちろん、あなたを捜しに」

「間宮くんに用があって、どうして私を誘拐するの?

そんなの、間宮くんに会いたいと言えば済むことじゃない」

石井は申し訳なさそうな顔をした。

「橋本様にはご迷惑をおかけして申し訳ございません。

亮には亮なりの考えがあったのです」

ひーこは大人の言い分に腹が立った。

亮への怒りも相まって、ひーこは声を荒げた。

「申し訳ないというのなら、彼のしたことが間違っていることが判っているのでしょう?

どうして大人が止めないのですか?」

その口調は、アナウンサーである母親のそれにそっくりだった。

石井は淡々と言った。

「そうですね。申し訳ございません」

「申し訳ないとおっしゃるのは、本当にすまないと思うときだけにしてください」

石井は苦笑した。

「なるほど、さすが義貴様に選ばれた方だ。しっかりしておられる。

ではお話ししましょう。単刀直入に伺いますが、橋本様は義貴様の能力はご存じですか?」

急に石井の口調が変わり、ひーこは少し驚いた。

ひーこは自分の口から、義貴の能力について口にするのをためらった。

石井はひーこの挙動から、無言の肯定を認めて言った。

「義貴様には手を触れなくても物を動かせる能力と、近い将来を見ることができる。

私たちは総称して『チカラ』と言っておりますが、その能力を持っています。

これは間宮家の先祖代々から伝わる能力なのです。

この能力を持つため、義貴様は間宮家の跡継ぎとして育てられてきました。

現に義貴様は水族園であなたがいなくなったことに気がつき、あなたを探すためにここに来ています」

ひーこは石井の話を黙って聞いていた。

「義貴さまには許嫁もおられます。

にもかかわらず、義貴様は橋本様とおつきあいを始められた。

普通の子供ならいざ知らず、これは間宮家にとって一大事なのです」

許嫁という言葉に実感の沸かないひーこは、呆然と尋ねた。

「さっきの弟という人は跡継ぎではないの?私を誘拐したのはその許嫁さんですか?」

「亮は義貴様の実弟ではございませんので、間宮の跡継ぎになれません。

許嫁はあなたもご存じの方ですが、この件には全く関与されておりません」

ひーこは何も返さなかった。石井は続けて言った。

「義貴様がどのような経緯で橋本様とのおつきあいを始められたのか、義貴様のお考えは判りません。

ただし、今回のようなことはなくても、義貴様とおつきあいをされるということは、間宮家のお家騒動に巻き込まれることを覚悟しなくてはいけません。

もし橋本様にそのお覚悟がないようでしたら、今のうちに義貴様とのおつきあいはなかったことにされた方が、あなたのためです」

ひーこは義貴の言葉を思い出した。


——もしかすると、俺のチカラのせいで、ひーこを傷つけることがあるかもしれない。でも。守るから。


ひーこは石井に尋ねた。

「間宮くんは、今どこにいますか」

「義貴様はこの建物の中で、亮と話をされています。

二人に会わせることはできませんが、義貴様の能力を知る機会になるかもしれません。

ご案内しましょう」

石井は部屋のドアを開けて、ひーこを廊下に促した。


***


石井がひーこを案内した部屋は、先ほどの部屋と同じような造りだった。

6畳ほどの部屋は白い床と壁、ベッドの代わりに椅子が5脚ほどあった。

違うのは部屋の壁の半分がガラス張りだった。

ガラスの向こうは学校の体育館のような広い空間で、その空間の両端に亮と義貴がいた。

ひーこは思わずガラスの前に駆け寄った。

「間宮くん」

石井が冷静に説明した。

「彼らにはあなたの姿は見えないし、あなたの声も聞こえません。

向こうの部屋からここは鏡に見えます」

ひーこは石井に尋ねた。

「どういうこと?」

「あなたが見ている空間は、彼らのような能力者を訓練する場所です。

その様子を見るためにこの部屋はあります。

橋本様もしばらくご覧ください。あなたが愛する人がどんな能力を持っているのか分かるはずです」

そういうと石井はドアの方へ戻った。そして言った。

「私は用がありますので部屋を離れます。

申し訳ないですが、鍵はかけさせていただきます。

かわりに、もう亮に触れさせないことは約束しましょう」

石井は部屋を出て行った。


***


義貴は亮の攻撃を受けていた。

亮は自分の『チカラ』を刀状にして飛ばすことができた。

それは『かまいたち』と呼ばれるものに性質が似ていて、飛ばしたモノに触れると切ることができた。

義貴は最初、亮から放たれた『かまいたち』を反射的に『チカラ』で弾き返した。

チカラの扱い方に慣れなかった義貴は、『かまいたち』を避ける時に切り傷を負ったが、逆に亮の能力を視たことで『チカラ』の使い方を理解した。

義貴にとって『かまいたち』を『チカラ』に具現化するのは割と簡単だった。

手の中に何かを持つようにイメージすると『チカラ』が小さな球状の塊になった。

あとはそれを相手に向けて飛ばせば良かった。

義貴から繰り出される『チカラ』は球状で、当たっても切れないが、『かまいたち』や亮を押し返すことができた。

亮は最初のうちは義貴の『チカラ』を押し返したが、義貴が『チカラ』でできた塊の扱い方に慣れてくると『チカラ』の大きさも早さも増して、亮は何度もはじき飛ばされた。

亮の『かまいたち』は凶器にはなるが、パワーが乏しいので、かまいたちタイプの『モノ』しか飛ばせないのだ。

義貴は自分の能力に驚いていた。

義貴は亮を連続ではじき飛ばした後で尋ねた。

「どちらか死ぬまでこれを続けるのか?そろそろひーこを返せ」

義貴がこの部屋に来てから一時間ほどが経って、形勢は明らかに義貴に有利だった。

これまでは『チカラ』を抑制することしかしてこなかった義貴は、『チカラ』を容赦なく使えることが快感ですらあった。

『チカラ』を強めれば亮を殺すこともできると思った。

しかしこの頃から、義貴はかすかにひーこの意識を感じていた。


——ひーこは近くにいる。必ず連れて帰る。


義貴はひーこの意識のおかげで、かろうじて理性を保っていた。


***


石井がひーこと別れて入った部屋にはモニターが六台あり、さながらテレビ局の編集室のようだった。

そしてその部屋では、一人の女性がモニターに釘付けになっていた。

彼女の姿に石井が少し驚くと、彼女はモニターから目を離さずに石井に言った。

「石井、これは何の余興?」

美子よしこ様。今日は来られるご予定でしたか」

「息子が亮に呼ばれているという話を聞いてね。来てみたくなったの」

美子——義貴の母親はモニターを通じて息子の様子を冷静に観察していた。

まるで実験動物を観察する研究者のように。美子は独り言のように言った。

「義貴はチカラをかなり安定して使えている。精神が安定している証拠よ。で、あの子が息子の彼女?」

彼女は別のモニターを指して言った。

そこにはガラスに椅子をたたきつけているひーこの姿が映っていた。

石井はひーこの行動に唖然とした。

「橋本様」

監視用のガラスは『チカラ』が当たっても割れないように強化されていたが、両側から力を加えられれば割れる可能性はあった。

美子は微笑みながら言った。

「あの子はガラスを割りたいのかしら。じゃあ、割らせてあげようかな。

石井、亮はインカムを付けているわね?

ミラーの左から三メートル、下から一メートルのところに『チカラ』を当てるように言いなさい。

義貴に気づかれないように」

「美子様、あのミラーは簡単には割れません」

「亮のチカラならね。ほら見て、ここ。わずかだけどひびが入っているの」

美子はひーこの映るモニターを指した。

美子の指した位置のミラーには、薄い傷があった。

石井は美子の指示に従った。

「判りました」

美子はモニターを見たままつぶやいた。

「さぁ、どうするかな」


***


ひーこが椅子を振り上げたその時、ひーこが椅子を当てていたガラスの同じ場所に、亮の『かまいたち』が当たった。

「きゃあっ」

ガラスは割れなかったが、不安定な姿勢をしていたひーこはその衝撃で椅子を持ったまま転んでしまった。

ひーこは最初、亮と義貴の戦いを呆然と見ていた。

義貴が見えない何かを飛ばす仕草をすると、亮が吹き飛ばされた。

二人の能力の差はひーこの目から見ても歴然としていた。

その様子を見てひーこは感じた。


——間宮くんは戦いを楽しんでいる。


義貴はわずかな動作で『チカラ』を発動し、亮を吹き飛ばした。

義貴は笑顔こそ浮かべていなかったが、能力を不自由なく使えることを楽しんでいるように見えた。 

義貴の様子を見てひーこは怖くなった。

このまま義貴が『チカラ』を使い続けたら、相手を殺しかねないと思った。

ひーこは無意識にそばにあった椅子を掴んで振り上げた。


——間宮くんを止めないと。


そうして、ひーこは椅子をガラスに叩きつけた。


***


美子は石井からインカムを取り上げて、亮に告げた。

「亮、ミラーを背にして、左端から3メートルのところに行きなさい。

そしてそこで義貴を怒らせなさい。

あの子のことを話して、義貴にかなり大きな『チカラ』を使うように仕向けなさい。

義貴は連続して『チカラ』を出せるほど攻撃に慣れていない。

ガラスが割れた時に、隙ができるわよ」

美子は即座にインカムを切った。

「美子様、それは」

石井はいいかけて、しかし美子ににらまれて口を閉じた。

美子の義貴に対する評価は嘘だった。

義貴のスピードとパワーは、石井の目から見ても、亮のそれを大きく上回っていた。

美子の冷淡な声が、部屋に響いた。

「石井。この余興の理由は後で聞くわ」


***


亮はミラーの前に立つと唐突に言った。

「おにーちゃんはひーこさんと、寝た?」

義貴は亮の言葉に反応しないふりをした。

亮は構わずに続けた。

「ひーこさんの様子を見ると、まだだね。男に慣れていない。

せっかく会えたから、ちょっと味見させてもらったよ。

胸はあんまりないけど、肌は白くてキレイだったな」

亮はそう言うと舌で軽く唇をなめた。

「ひーこを返せ」

淡々と言う義貴に対して、亮は自分の左胸を指しながら言った。

「もうすぐ彼女に会わせてあげるよ。そうしたら彼女の左の胸元を見たらいい。

俺の食べ跡があるから」

義貴は静かにキレた。

そして美子の予想通り、強いチカラを亮に向けて投げた。


ひーこはその直前、ガラス越しに亮の後ろにおり、亮の言葉を呆然と聞いていた。

そして次の瞬間、亮が避けたと同時に派手な音がして、目の前のガラスが割れた。

ひーこはガラスの破片とともに、後ろの壁に叩きつけられた。


***


ガラスが割れた瞬間、義貴はひーこの意識をはっきりと感じた。

ひーこの身体がガラスとともに背面の壁に叩きつけられて、その身体を壁に伝わらせた時、義貴はひーこの位置を感知して自分の身体を飛ばした。

義貴はガラスまみれのひーこの身体を抱き抱えて叫んだ。

「ひーこ」

ガラス自体は粉々に割れていたのだが、それがひーこの身体に注がれた結果、体中に無数の切り傷ができていた。

さらに爆風で飛ばされて、頭と背中を打ちつけていた。

ひーこは一瞬だけ義貴を見たが、すぐに意識を失った。

ガラスが割れた瞬間、ひーこはとっさに腕を交差させて受け身になったようで、顔にはそれほど怪我がなかった。

しかし腕や足には無数の傷をつくり、こめかみや頸からは血が流れて床に落ちた。

義貴は自分でも驚くほど落ち着いて、ひーこの傷の手当をした。

出血のひどい動脈の傷は、『チカラ』で止めた。

しかし全ての傷の止血には『チカラ』が足りないことに気がつくと、義貴は自分のシャツを脱ぎ、それをひーこに着せて両腕の袖口を縛り、自分の頸にひーこの両腕を通してひーこを抱き上げた。

心臓よりも傷を高くすることで出血量を減らそうとしたが、それでもシャツが少しずつ紅く染まっていった。


***


義貴がひーこの手当をしている間、亮は呆然と義貴の様子を見ていた。

義貴が投げた『チカラ』を避けることはたやすかった。

しかしガラスが割れた次の瞬間、義貴がガラスまみれになったひーこの側に瞬間移動をしたのを見切ることができなかった。

本当に一瞬で自分の横を通過したのだ。

これは義貴が本気になれば、接近戦で亮を倒せることを意味していた。


——倒すなら、今だ。


亮は頭の中ではそう思ったが、身体は動かせなかった。

義貴は明らかに戦闘慣れしておらず、かなりの『チカラ』を使った後なのに、『チカラ』が全く衰えないことにも驚愕した。

そして今、義貴は亮に全く関心を持っていない。

義貴は亮を振り向きもせず、ひーこがいた部屋の入口の鍵を『チカラ』で破壊した。

義貴が扉を蹴って開けると、警備員が義貴の周囲を取り囲んだが、義貴は彼らが動く前に『チカラ』で彼らを吹き飛ばした。

そして義貴は近くにあった窓に飛び込み、ひーこの身体を抱いたまま建物の外へ出た。

研究所の敷地内を出た義貴は携帯電話を取り出し、舞に電話をかけた。

「ひーこが大けがをした。おじさんに頼んで迎えに来てくれないか」

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