二十二 思慮
週が明けた月曜日の昼休み、ひーこは教室で友人たちとお弁当を食べていた。
「ひーこ、なんだかご機嫌だね」
友人の一人はそう指摘したが、ひーこは素知らぬ顔でご飯を食べていた。
「そう?普通だよ」
「ひーこって、食べるのに飽きると箸でご飯をつついて食べなくなるでしょ?
このところ、ずっとそんな感じだったし」
「そんな、お行儀の悪いことしていたっけ?」
ひーこは表面上は淡々としていたが、友人の鋭い指摘に内心びくびくしていた。
その時、食堂から戻ってきたクラスメートの男子に、ひーこはいきなり声をかけられた。
「おい、ひーこ。間宮が学食で女に口説かれていたぞ」
彼の言葉に教室にいた人間が騒然となった。
ひーこは声を出せずにいると、友人達が口々に言った。
「なにそれ?間宮くんがひーこ以外の女の子と話をすることなんてめったにないのに」
「たまたま話しかけただけじゃないの?」
しかし彼は言った。
「下級生っぽい女の子が、間宮にでかい声で『あたしとつきあってよ』とか、『ひーこと別れさせる』とか言っていたぜ。食堂にいた他の奴にも聞いてみろよ」
彼はそう言うと、他のクラスメート数人と一緒に席についた。
ひーこは大して気にしなかったが、義貴が教室に戻ってきた途端、ひーこの友人の一人が義貴の前に立った。
「間宮くん、教室で女の子に口説かれたって本当?」
怖い物を知らない彼女はあけすけに聞いたが、義貴は驚いた表情もせずに言った。
「いや」
義貴は何事もなかったかのように彼女の脇をすり抜け、ひーこを見ることもなく席についた。
ひーこはクラスの友人の微妙な視線を感じながら、ぼそぼそと弁当を食べ終えた。
***
その日、義貴はいつものように学食にいた。
義貴はメニューに関係なく、日替わり定食を食べていた。
好き嫌いのない義貴は、栄養の偏りを考えるのが面倒で日替わり定食を選んでいたのだが、一人暮らしであることを食堂のおばさんに知られてからは、小皿料理をおまけしてもらうこともあった。
義貴は今時の高校生の男の子にしては挨拶をちゃんとするので、おばさん達に好かれていたのだ。
「いつもありがとね、間宮くん」
「いただきます」
義貴は定食の載った盆を持って、窓際の席に座った。
すると、おもむろに前の席に女の子が座った。
学食が混雑するときには前や隣の席にも人が座ることはあったが、異性が来ることはほとんどなかった。
義貴は軽い違和感を覚えて前を見ると、見覚えのない顔がそこにあった。
小柄で髪が長く、一重瞼なのに大きな目の、勝ち気な印象の女の子だった。
義貴は彼女を無視して食事を始めると、彼女はおもむろに口を開いた。
「間宮先輩」
義貴は彼女を一瞥したが、すぐに視線を逸らすと黙って食事を続けた。
自分に近づいてくる人間には裏があることを義貴は知っていた。
反応のない義貴に彼女は再び話しかけた。
「話をしてもいい?」
義貴は相手をしないことに決めた。
しかし、彼女が次に言った言葉に義貴の箸が止まった。
「樹とひーこさんの関係、知りたくない?」
義貴は食事の手は止めたが、彼女に話しかけることはせずに黙って彼女を見た。
「あたしは二階堂みつき。このあいだ、ひーこさんを樹の家に連れて行ったのはあたし」
義貴はひーこから、樹の家へ連れ込まれた経緯を聞いていた。
女の子が落としたコンタクトレンズを探したこと。
その女の子を家まで送ったこと。
もし目の前の人物が当人だとすれば、ひーこの話と辻褄があった。
義貴はようやく彼女に対して口を開いた。
「目的は?」
するとみつきはにっこり笑って言った。
「あたしは樹の味方なの。樹の望むことならなんでもする」
義貴はみつきを見た。
「俺にどうしろと?」
「あたしとセックスして」
義貴はみつきの言葉を理解できなかった。
「なんで」
「樹が彼女にしたこと、後悔しているから」
「自分でしたことだろ」
「樹はひーこさんが好きなの。だから後悔している。
あなたが浮気をしたら、ひーこさんは樹を許してくれると思うの。だから」
「樹にそうしろって言われたのか?」
みつきは首を横に振って真剣な表情で言った。
「樹はあの日から何も話をしない。何にも反応しない。
女と寝るなんて、日常茶飯事なのに。
樹はあなたがひーこさんと別れると思っていたわ。
でも別れる気配なんて全然ない。
あなたも、ひーこさんもまるで何もなかったみたいに。
樹だけが傷ついて」
義貴はみつきを見据えると、はっきりした声で言った。
「樹が自分でしたことだ。俺たちを巻き込むな。迷惑だ」
表情のない義貴が、明らかに拒絶の声を出したことにみつきは驚いて一瞬黙った。
「あたしだって樹が他の女を気にする姿を見るのは嫌。
でも樹が辛い思いをしているのを見るのはもっと嫌なの。
樹が元に戻ってくれるなら、誰といてくれてもいい。
樹が笑っていてくれるだけでいいの。
そのために必要なら」
みつきは言いかけて、急に立ち上がると、周りに聞こえる声で言った。
「あなたとひーこさんと別れさせる」
みつきの声に食堂が静まりかえった。
しかし義貴は動じずに即答した。
「断る」
義貴は食事を終えていない盆を返却口に戻すと、学食を出た。
みつきは義貴の後を追った。
「ひーこさんなんて、ふつーじゃん。どこがいいの?」
みつきの言葉に、義貴はいらいらした。
義貴は振り向くと、みつきに言った。
「俺に近づくな」
みつきは義貴を追いかけようとしたが、誰かに足をとられたような感覚に陥って、派手に転んだ。
義貴がチカラで彼女の足の動きを止めたのだ。
周囲の生徒は彼女を見たが、義貴は振り向きもせずに教室に向かって歩いた。
義貴は思った。
——あの女、頭がおかしい。
彼女の思いこみは樹のせいかもしれない、と義貴は考えたりもした。
しかしみつきの、自分を犠牲にしても樹を好きだという主観は義貴を苛立たせた。
義貴は彼女をひーこに遭わせたくなかった。
みつきは教室のある建物まで追ってこなかった。
義貴が教室に戻ると、クラスメートの女子がいきなり義貴の目の前に立ち、口を開いた。
「間宮くん、教室で女の子に口説かれたって本当?」
***
その日の放課後も、ひーこと義貴は一緒に家路を歩いた。
義貴は帰路でみつきに会うかもしれないとチカラで周りを「視た」が、彼女の気配を感じられずにいた。
それに安堵しつつも、義貴は彼女の言葉を思い出して苛立っていた。
義貴は普段と同じ態度で接していたつもりだったが、ひーこは義貴の感情を察していた。
義貴の雰囲気に押されてひーこは黙っていたが、思い切って言った。
「あのさ、アイス食べに行かない?」
予想外の言葉に義貴は少し驚いた。
「なんで?」
「お腹空いているのかと思って。何だかイライラしているから」
「俺が?」
「うん。違う?」
ひーこは、何かあるごとにアイスを食べたがった。
義貴は、世の中の女子はこれほどアイスが好きなのかと思ったが、ひーこなりの配慮かもしれないと今になって気がついた。
義貴は身体の力がいい意味で抜けていくのを感じて、少し笑った。
「アイス、食べるか」
義貴がそう言うと、ひーこは笑顔で義貴の腕を引っ張った。
義貴は自分がずっと緊張の中を生きてきたので、休息の取り方を知らなかった。
ひーこは休息のタイミングを教えてくれている気がした。
そしてひーこは、苛立ちを肯定も否定もしない義貴は、きっと何かを考えていたのだと思った。
学食で何があったのか、本当は詳しく聞きたかったが、義貴の表情を見て黙っていることにした。




