二十一 初夜
週が明けた月曜日も、ひーこは義貴と一緒に学校へ向かった。
表面的にはいつもの通りだったが、二人の間に会話はほとんどなかった。
ひーこは義貴といることが苦痛だった。
しかし『一緒に登下校するのをやめたい』と言えずにいた。
もし口にしたら、二人の間は終わってしまう気がしたのだ。
自分でもおかしいと思いつつも、ひーこは義貴と別れることを想像できなかった。
自分をまっすぐ見てくれる義貴の気持ちが愛おしかった。
ひーこが感じるこの苦痛は、義貴への愛情ゆえだと知っていた。
だから辛くても側にいた。
ひーこは思った。
——もう、どうしたらいいのかわからない。
食事をまともに食べられないことも、眠れずに布団の中で考え続けることも、ひーこには初めてのことだった。
そんなひーこの異変を、これまでずっと近くにいた弟が気付かない筈がなかった。
***
大和が義貴に話をしたのは、樹の事件から二週間ほど過ぎた午後だった。
「ひーこ、どうかした?」
その日の体育の授業は、女子が外でソフトボール、男子は体育館でバドミントンだった。
体育は男女別に二つのクラスが合同で行っていたので、義貴は大和と組んで打ち合いをしていた。
大和は無意識に義貴を誘ったのだが、義貴は大和の運動能力の高さを認識していた。
大和は一見おっとりしていたが、洞察力と俊敏さに長けていた。
義貴には樹が大和と戦いたがった理由が分かった。
義貴はそんなことを思いながら、大和に言った。
「どうして?」
軽快な音とともにシャトルが飛ぶ。
大和は応えた。
「元気がない。ぼうっとしている。
俺が一緒に帰らなかった日からだ。
あの日、ひーこに何があったの?俺のせい?」
義貴は黙ったままシャトルを返した。
しばらくして義貴が口を開いた。
「いや、違うんだ」
大和と義貴は気がついていなかったが、周囲の人間は二人の軽快なラリーに驚きつつ見ていた。
しばらくラリーが続いた後、大和は唐突に言った。
「あのさ、義貴」
「何?」
「母さんは今週末、選挙特番が入っていていないんだ」
「ふうん」
「ひーこを泊まらせていいぞ。母さんにはうまく言っておくから」
大和の言葉に驚いた義貴は、シャトルを取り損ねた。
「は?」
大和は義貴の前に歩いてきた。
「別に何かしろってけしかけているわけじゃない。
二人とも喧嘩している風でもないし。
でも今のひーこは、絶対に普通じゃない。
ひーこは俺の言葉にほとんど反応しないんだ。
義貴ならなんとかできると思う」
義貴は大和を見た。
「心配かけて、すまない」
義貴がそう言うと、姉想いの弟は軽く笑った。
大和は義貴からのメールをずっと気にしていた。
大和はあの日のひーこに何かが起こったのだと確信していた。
ひーこと一緒に帰ることなど簡単なことだったのに、一人にしてしまったからだろうかと大和は気になっていた。
そして義貴は、大和の気持ちには感謝したが、今のひーこが義貴の家に来るとは思えなかった。
***
結局、ひーこを誘う話を義貴が切り出したのは、金曜日の放課後だった。
「明日はどこかへ行こう」
ひーこは近頃は何をするでも億劫そうだった。
ひーこは義貴の言葉が聞こえないかのように、黙ったまま歩いていた。
ほどなくして、ひーこは口を開いた。
「どこへ?」
「・・・海」
義貴は思いつきで口にしたが、改めて思い返して言い直した。
「海だよ。去年も行っただろ?水上バスに乗って。今度は外海を見よう」
ひーこはしばらく考え込んで返事をした。
「うん」
そう答えたひーこの瞳は、夜に見かける猫の目のように義貴には思えた。
ガラスのように美しくも、空虚でもあった。
義貴はひーこが恋人としての義務感から承諾したようにも思えたが、了承してくれたことを素直に受け止めた。
***
翌日の土曜日、二人は電車で二時間ほどかかる海に出かけた。
見慣れない車窓の風景は二人には目新しく、美しく見えた。
ローカル電車に乗り、降りてしばらく歩くと岬が見えた。
外海特有の、波のうねりを見たひーこは言った。
「すごいね。同じ海でもうちの街のとは全然違う」
二人は遊歩道を歩き、近くにあったベンチに並んで座ると、ぼんやりと海を見ていた。
義貴は、海を覗きこむひーこを見てきれいだと思った。
その姿を見て義貴は決心した。
「ひーこ」
「なに?」
ひーこは義貴を見た。
表情は冴えなかったが、ひーこはまっすぐ義貴を見られるようになった。
「今日、うちに泊まりに来ないか?帰るまでに返事をくれればいいから」
泊まることの意味をひーこは分かっていた。
義貴が帰りがけに言わなかったのは、ひーこに考える時間を持たせたかったからだったのだが、ひーこはすぐに応えた。
「いいよ」
あっさりと了承したことが、かえって義貴を心配にさせた。
「無理してない?」
義貴が聞くと、ひーこは義貴から視線を逸らし、海を見ながら応えた。
「うん。今日は選挙特番の準備で、母さんもいないし」
そしてひーこは義貴の腕を取ると、義貴の肩に自分の頭を乗せた。
ひーこは何気なくした行為だったが、ひーこから義貴に触れたのは、あの事件以来初めてのことだった。
——起きてしまったことをいつまでも悩んでも仕方がない。
ひーこは、自分の気持ちも身体も義貴に預けたら楽になるかもしれないと思って目を閉じた。
潮の香りを感じて、波の音だけ聞いているのも心地よかった。
そんなひーこの肩を、義貴は抱こうとしてやめた。
無理強いしているような気がしたからだ。
ひーこが寄りかかる、肩の重さの分だけひーこを支えようと思っていた。
***
義貴のマンションに着いた時は、夜の九時を過ぎていた。
リビングに入った義貴はひーこを抱き寄せてキスをすると、ひーこは黙って応じた。
そして唇が離れると、ひーこが口を開いた。
「お風呂を借りてもいい?」
「ああ」
義貴はひーこの身体を離すと、バスタオルと寝間着代わりのTシャツとショートパンツをひーこに渡した。
「ありがと」
ひーこはそう言って脱衣所に消えた。
ひーこは鞄の中から、帰りがけに寄ったコンビニで買ったハブラシと下着を出した。
そして、まるで機械的に事を淡々と進めようとしている自分を感じていた。
恋人の家に初めて泊まる夜はもっと嬉しい気持ちだろうとひーこは思っていたが、今のひーこは憂鬱だった。
ひーこにとって、樹とのセックスは精神的にも肉体的にも辛い記憶だった。
樹は女性を抱くのに慣れた雰囲気だったが、ひーこにはかなり痛かった。
セックスをしなくて済むのならば、二度としたくなかった。
でも義貴がひーこを『抱きたい』と言った以上、それを拒むこともしたくなかった。
ひーこは以前、自身が義貴に言った言葉を思い出した。
——間宮くんの望むことをしてあげたいし、私のできることを間宮くんにしてあげたい。
それが恋人なんじゃない?
ひーこにはどんなに痛くても、義貴が望むなら受け入れたいと思った。
ひーこは自分の不安を洗い流すように、勢いよくシャワーを出すと頭から被った。
そしてひーこはふと身体に残った傷跡を見た。
去年、ガラスを被って怪我をした傷は治っていたが、いくつかは跡が残っていた。
それをぼんやりと見ていたら、ふいに涙がこぼれた。
ひーこは思った。
——ぼろぼろだな。せめてもっと綺麗な身体で抱かれたかったな。
涙をシャワーで洗い流したひーこは、もう泣かないことに決めた。
ひーこがリビングに戻ると、義貴はひーこを見ないまま、入れ違いで脱衣所に消えた。
義貴の家にはテレビもステレオもないので、静まりかえっていた。
ひとり残されたひーこは、黙ったままドライヤーで髪を乾かした。
ドライヤーを止めると、再び静寂が訪れた。
ひーこはベッドの端に座ると、空虚な気持ちでぼんやりと義貴を待った。
義貴はほとんど話をしないひーこを気にしていたが、気持ちを振り払うようにシャワーを浴びた。
そして着替えてリビングに戻ると、義貴は髪を拭きながらひーこの様子を見ていた。
義貴は、抜け殻のようなひーこの姿に胸を痛めた。
そんな気持ちを振り払うように、義貴はバスタオルを椅子にかけると、ひーこの右隣に座った。
それは以前、義貴がひーこの素肌の胸に触れようとして止めた時と同じ座り位置だった。
まるであの日の続きから始めるように、義貴は左手でひーこの肩を抱き、ひーこの頭を自分の肩の方に傾けると、今度はためらわずにひーこのTシャツの下から手を入れて素肌の胸に触れた。
義貴はずっと不安だった。
母親の自分に対する態度も、ひーこの暗い表情も、自分とひーこの距離を遠ざけているような気がしていた。
しかし義貴は驚くほど柔らかいひーこの胸に触れた途端、何も考えられなくなった。
いつも冷静な義貴からは想像できないほど、強引にひーこの唇を吸った。
そしてひーこを抱えると、ベッドに倒れ込み、服を脱がせていった。
義貴はひーこの肌に触れていると、まるで自分の中の何かが解放されていくかのような気がした。
ひーこの身体に残る傷跡も、温かく柔らかな肌も、吐息がかすかに漏れる唇も全てが愛おしかった。
義貴はひーこの身体の全てに触れていった。
***
義貴がひーこの中に入ろうとしたとき、ひーこは義貴の胸に両手をついて、口を開いた。
「お願いがあるの」
「なに?」
「中に・・入ったら、いいって言うまで動かないでいてくれる?」
義貴はひーこの言葉の意図を理解していなかった。
一瞬、拒絶されているのかとも思ったが、言葉通りに受け取った。
「わかった」
義貴はひーこの中に触れて、濡れているのを感じてからゆっくりと入った。
「っつ」
ひーこの顔が一瞬歪み、義貴の肩に顔を埋めたが、次の瞬間には驚いたような表情で目を開いた。
義貴はひーこの様子に驚いて、思わず声をかけた。
「痛いか?無理しなくていい」
ひーこも驚いていた。
義貴が入ってくる瞬間、身体の中がしびれるような感覚を覚えたが、不思議と痛みを感じなかった。
まるで自分の中にぴったりとあてはまるような感覚だった。
痛みを覚悟していた分、ひーこは拍子抜けした気持ちでもあった。
ひーこは義貴に言った。
「そのままで・・・」
義貴はひーこの言うとおりにしばらく動かず、黙ったままひーこの頭を撫でていた。
次第に穏やかな気持ちになったひーこは、義貴の目を見て言った。
「ありがとう。もう・・・大丈夫」
ひーこはそう言うと、義貴の背中に手を回して目を閉じた。
義貴はひーこの穏やかな表情を見て軽くキスをすると、ゆっくり動き出した。
ひーこは痛みを感じなかった安堵が消えると同時に、初めて快感が自身を包んだ。
義貴がひーこを抱いているのに、ひーこが義貴を包んでいるような錯覚に陥った。
義貴と身体も心も繋がることの快感は、ひーこを幸せな気持ちにさせた。
***
義貴が目を開けると、ひーこの顔がそこにあった。
義貴はひーこの顔を見ながら、初めて彼女に触れた日の事を思い出していた。
義貴が左手でひーこの前髪に触れると、義貴の腕を枕にして寝ていたひーこはゆっくり目を開けた。
ひーこは義貴の視線に応えるように微笑む。
義貴にはひーこがいつもの表情に戻ったように見えた。
義貴は少しかすれた声でひーこに尋ねた。
「身体・・・大丈夫?」
ひーこは少し恥ずかしそうな、しかし笑顔で応えた。
「うん。・・・間宮くん」
義貴には昼間に海岸で見たひーこ以上に、綺麗に映った。
「なに?」
「きもちよかった。すごく・・・本当に・・・びっくりした」
ひーこはセックスについて口にすることに恥ずかしさも感じていたが、自分の気持ちを言わずにいられなかった。
そんなひーこの表情を見て安堵した義貴は、笑顔で応えた。
「ならよかった」
義貴はひーこの身体に布団をかけ直した。
義彦は身体が火照っていたので、布団を被る気にならなかった。
それでもひーこが義貴の胸の中に潜り込み、ひーこの体温を肌で感じても暑いとは思わなかった。
むしろずっと触れていたいと思うほど心地よい温度だった。
義貴とひーこはそのまま眠りにつき、目が覚めると再び抱き合った。




