公爵夫妻の事情
自室に戻ると、侍女の指示でハウスメイドが湯浴の用意をしてくれる。その間侍女は寝室の用意をしてくれるらしく、ミューレイは一人部屋で寛いでいた。
ゆったりとソファーに腰掛け、侍女から手渡されたハンカチでひりひりと痛む目許を覆う。
水に濡らしたハンカチは、火照った顔を冷やしていく。明日は腫れるかもしれないと思わず苦笑した。こんなに泣いたのは幼い時以来だ。
……夫が言ってくれた言葉はとても真摯で誠実だった。
夫の意外な言葉に驚き泣いたミューレイを夫は気遣ってくれた。優しく抱き締め、労ってくれた。それだけでこれまでのわだかまりが砂の様に消え去っていくのをミューレイは確かに感じていた。
侍女が戻ってきて直ぐにハウスメイドが浴室から出て来て一礼した。
「奥様、仕度が整いました」
侍女の手を借りて簡単に湯浴を済ませ、侍女が用意してくれたナイトウエアを何気なく手に取ると、普段用意してくれるものよりとても軽いことに気がつく。
昨晩のナイトウエア程ではないものの、淡いピンクのシルク生地は薄く、裾も膝上程までしかなく短い。
……もしかすると侍女が気を使って、同じようなものを揃えてくれたのだろうか?
基本的にミューレイ付きの侍女は何か口を挟んだり、あれこれと細かく世話を焼くことはない。
日々、淡々と仕事をこなしている。仕える令嬢や夫人によっては親しく口をきいたり、或いは積極的に進言することもあるけれど、ミューレイ付きの侍女が今までこうして、ミューレイの意思に関係なく気を回してくれたことはない。
今回は恐らく、ミューレイが何かしらの意図を持ってあのナイトウエアを着ていたこと、そして夫との重要な話をしていたことで、ミューレイの後押しをするために、わざわざ普段とは違うものを用意してくれたのだろう。
その心遣いが、とても嬉しかった。
ナイトウエアに袖を通しその上からガウンを羽織ると、控えていた侍女が足元を照らすカンテラを持って、灯りを抑えた廊下を先導し、寝室まで送ってくれる。
寝室の前に着くと侍女は頭を下げてドアを開けてくれる。侍女を労って下がらせ、昨日も座っていた寝室のソファーに腰掛けた。
夫はまだ来ていない。
……ほんの一日、経っただけだ。夫と対面し、この寝室で久しぶりに話しをしたのは。
なのにまるでもう、何日も経過したかのように濃密な時間を過ごしている。
もっと、夫と話をしたい。どんな話でも良い。
二人で笑いあって毎日がこんなに充実したものになるのなら、こんなに嬉しいことはない。
夫が来るまでミューレイはソファーの上でじっと夫が来るその時を待った。
夫は十分程でやって来た。
昨日と同じく手にはカンテラを持ち、ガウンを羽織っている。
寝室の入り口にカンテラを掛けた夫は、立ち上がり掛けたミューレイを制し、隣に腰掛けた。薄暗い室内でもこれだけ近くに居れば夫の表情がはっきり見える。夫はとても、穏やかな表情で、ミューレイを見つめていた。
「ミューレイ。君は私に、何か不満があれば言って欲しいと言っていたね」
夫がそう言って、そっとミューレイの目元に指先を滑らせる。ミューレイは小さく頷き、されるがままじっと身を固くした。
「一つだけ、不満がある。名前で呼んで欲しい。旦那様ではなく、私自身の名前を」
「カーティス…?」
躊躇うように言ったミューレイに夫、いやカーティスはふわりと微笑み、ミューレイの唇にキスを落とした。
「ミューレイ」
カーティスはミューレイの唇を何度か啄むように触れ、いつの間にかミューレイの背に回っていた左手が宥めるように背中を撫でていた。
「カーティス…っ」
反射的に離れようとすると、カーティスは右手でミューレイの後頭部を押さえ、深くなっていくキスに翻弄される。
どちらからともなくベッドに向かい、熱く艶めいた視線が絡み合って、お互いの体が重なった。
言葉などもう要らなかった。ミューレイはカーティスに身を委ねた。
夜が明け、互いの温もりを分け合うように抱き合い、絡めた指先がまるで一つになったかのように感じる。
カーティスはゆっくりと浮上する目覚めをとてつもない充足感と共に味わっていた。
隣に眠るミューレイは、まだ起きる気配が無い。
昨夜の激しい情事を物語るミューレイの乱れた髪を撫で、額にキスを落として、上半身を起こした。
今日ばかりはミューレイが起きるまで側に居てやりたいが、立場上そうも言っていられない。
上気した頬、吸い付くように滑らかな肌の感触を指先で辿ると、昨夜の痴態がまざまざと甦り、ミューレイの唇を甘く食んでベッドを降りた。
こうして、これから毎日共に朝を迎えられたらどんなに良いことだろう。
今日は、一刻でも早く帰れるように調整して貰おう。
そう決めると、幾分か心が浮き立った。離れがたい温もりに後ろ髪を引かれつつ、カーティスは支度を整えるべく自室へ向かった。
ミューレイが起きたのは、カーティスが登城して暫く経った時刻だった。
まだ夜が明けぬ内から早々に支度を整えるカーティスは、今日も早い時間に出仕したらしい。
一緒に朝食を摂りたかったけれど、身体の節々が軋み怠くて起き上がれない今の状態では、きっとパーラーに行くのも一苦労だっただろう。
それを見越してか、侍女はいつもより遅くに起こしにき、ベッドで朝食を摂れるようわざわざ寝室まで持ってきてくれた。
乱れたベッドの上で物憂げな表情を浮かべるミューレイに、侍女は殊更嬉しそうに微笑み、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
心身共に満たされた朝というのは、これほどまでに充足感を感じるのかと、どこか感慨深く感じた。
手早く朝食の支度を整えた侍女が、腰が怠くて中々起き上がれないミューレイに手を貸し、漸くミューレイは半身を起こした。
沢山のクッションを背に宛がい、ゆったりとした格好になると、直ぐにティーカップを手渡してくれる。
ゆっくりと紅茶を飲むと、侍女が淹れてくれたアーリーモーニングティーが身体の隅々まで染み渡るように感じた。
カーティスは今日、何時に帰ってくるだろう?
晩餐は共に出来るだろうか?
朝食を食べ、ぼんやりとそう思っていると、侍女が湯浴の準備を整えてくれ湯浴を手伝ってくれる。
胸元を覆い隠す簡素なココア色のシフォンドレスを纏い、侍女に手を引かれて自室へ下がると、自室で寛げるようテキパキと周囲を整えてくれる。
今日はもう、何もする気が起きなかった。
正午を過ぎ、身体の痛みも幾分和らいだ頃、自室のソファーでゆったりと果実水を飲んでいると、家令が来客を告げに来た。
それに応えて応接室に向かうと、待っていたのは友人の邸の家令だった。
結婚披露宴の招待状を手に訪れ家令は、是非夫婦で参加して欲しいという親友の言伝てを伝え、足早に邸を辞した。これから各家を訪問し、招待状を手渡しに行くらしい。
友人の、待ちに待った結婚披露宴がいよいよ行われるのだと思うと、自然と心が浮き立った。
招待状を手に廊下に出ると、いつもならばこの時刻に居る筈のないカーティスの姿が見えた。
驚いて思わず駆け寄りカーティスを見れば、柔らかな笑顔で微笑んでくれる。
「カーティス!」
「ミューレイ、ただいま」
「お帰りなさいませ。どうなさったのですか? こんなにお早く帰ってらして。どこかお具合でも……」
「いいや、どこも悪くは無いよ。今日は、早めに帰れるように調整して貰ったんだ」
「そうなのですか」
良かったと、ほっと息を吐くと、自然な仕草で腰を抱かれ、啄むようなキスを落としてくれる。
夫の手が緩やかに髪を撫で、私室へと促した。甘く柔らかな雰囲気の夫に寄り添うようにもたれ掛かると、夫は一層ミューレイを甘やかしてくれる。
それが何より嬉しくて、ミューレイは緩んだ頬を染めた。
だから夫が、去っていく家令の背に向けた複雑そうな表情に私が気づくことはなかった。
私室のソファーに腰を落ち着けると、夫はこう切り出した。
「所で、エルランド家の者が出入りしていたようだが、一体何の用だったんだ?」
「エルランド…ああ、ニコラウスのことですね? 今度ニコラウスが、長年婚約関係にあったクリスティーナ・ファブラン子爵令嬢と結婚することが決まって、是非披露宴にお越しくださいと使いを寄越して下さいましたの」
「ファブランというと、領地に鉱山を持つ…」
「ええ。ニコラウスは子爵家の婿養子に入るのだとか」
にこやかにそう告げるミューレイの顔を見れず、カーティスは思わず目を反らした。
ファブラン子爵家と言えば家格こそ低いものの、鉱山を領地に持つためこの王都でも複数の高級宝石店などを経営し、手広く商売をしていることで有名な家だった。
確かエルランド家は元々男爵家であったものの数代前に廃嫡の憂き目に遭い、その際海に面した領地を買い上げ、廃嫡後は貿易業に従事して莫大な利益を上げ、豪商として近隣諸国に名を馳せている家だ。
その子息、令嬢が婚約していたとは全く知らなかった。
元々、ファブラン子爵家はあまり社交界に出てこなかったし、出てきても当主である子爵とその夫人が新作ジュエリーを売り込み、アピールするために顔を出す程度で、結婚前も今も宝石店に足を向けることは無かったから子爵家とは接点がなかった。
「ミューレイは、クリスティーナ嬢とも面識があるのか?」
「ええ。幼い頃から二人は婚約していましたから、領地が隣のニコラウスとそこによく遊びに来ていたクリスティーナと三人で、長く共に過ごして参りました。クリスティーナは私の親友でもありますの」
楽しそうに幼い頃の二人の様子を語るミューレイは、いつにもなく饒舌で笑顔に溢れていた。
―――思えばこれまでミューレイに辛く当たっていたのも、幼なじみであるあの男、いや、エルランド家の子息、ニコラウスと恋仲ではないのかと想像していたからだ。
長年付き合いのあるニコラウスと頻繁にやり取りしていたのも、結婚後もニコラウスへの思いを募らせているのではと勘繰っていた。
それがどんなに自分勝手な妄想であったのかを、今更ながら思い知らされる。
俯き膝の上で拳を握れば、ミューレイがそっと小さな手を重ねてくる。
「カーティス、どうなさいました?」
不思議そうに無邪気に尋ね、顔を覗き込んでくるミューレイの透き通る青い目を見つめ、何でもないと首を振った。
私は、馬鹿だ。
本当に、大馬鹿者だ。
「ミューレイ、すまない」
「えっ? 何ですか、カーティス?」
「いや。ただ少し、私は馬鹿者だと思っただけだよ」
「カーティスは、馬鹿者などではありませんよ…?」
にこりと微笑んでそう答えたミューレイを抱き寄せて、豊かな金の髪に顔を埋めた。
華奢な体からふわりと薔薇の匂いが香り、柔らかな肢体と相まって頭の芯がくらくらする。くすぐったそうに肩を揺らすミューレイに、「ありがとう」と小さく呟いた。
ミューレイを抱いたまま動かないカーティスに、ミューレイはおずおずと背中に腕を回して抱き返してくれる。
以前は自身の過失から、大事な人を見失い掛けていた。
この温もりを、優しさを、もう二度と離しはしない。
そう誓って、カーティスは今暫くミューレイの柔らかな肢体を抱きしめ続けた。
「ミューレイ」
「はい」
「愛している」
「私も、愛しています。心から」
ミューレイの唇に自身の唇を重ね、カーティスは何度も愛を囁いた。
恥ずかしそうに、けれど言葉できちんと思いを返してくれるミューレイが愛しい。ずっとこんな穏やかな日々が続くことを願って、私は思う存分ミューレイを味わった。
―――その年、エルランド家とファブラン子爵家の結婚式が行われた。
その披露宴には仲睦まじそうに微笑むロメイン公爵夫妻の姿が有り、大きな話題を呼んだ。
「結婚おめでとう、クリスティーナ、ニコラウス」
シャンパンを片手に、美しい花嫁と緊張した様子で対応する花婿の側に歩み寄り、祝福の言葉を伝える。
「ありがとう、ミューレイ。ロメイン公爵さまも、わざわざお越し下さって、ありがとうございます」
純白の豪奢なドレスに負けない、輝く笑顔でそう答えるクリスティーナは、本当に美しく華やかだった。
思えば、ミューレイが夫と向き合うときに背中を押してくれたクリスティーナのお陰で、ミューレイは今こうしてカーティスと共にこの場所に居る。
同じように祝福の言葉を返すカーティスは、あれから随分と変わった。私の心に寄り添い、けれど自身の思いも憚り無く伝えてくれるカーティスは、ミューレイにとっていつまでも離れがたい、結婚当初よりも更に一回りも大きな最愛の人となった。
クリスティーナに寄り添うニコラウスは、気安い微笑みで、「来てくれてありがとう」と照れくさそうに言った。
その様子にミューレイは笑みを深めて二人を見つめた。
「そういえば、きちんと紹介するのは初めてでしたわね。ニコラウス、私の夫のカーティス・ロメイン公爵です。カーティス、こちらは私の大切な友人の一人、ニコラウス・エルランドですわ」
「今日から、ファブラン子爵だけどね。初めまして、ロメイン公爵。ニコラウス・ファブランです」
「妻から話は聞いているよ。カーティス・ロメインだ」
カーティスとニコラウスは握手を交わし、にこやかに会話を続ける。
それがどうやら仕事の話に移ったところで、クリスティーナの目配せを受け、そっと二人から離れた。
クリスティーナは、シャンパンを手に取ってかちりとグラスを合わせる。本当に、長い長い婚約期間を経て結婚した二人はとても幸せそうで、自分のことのように嬉しい。
「クリスティーナ、ありがとう」
「何が?」
「今こうして夫と共に居られるのは、クリスティーナのお陰よ。ニコラウスとの結婚で何かあれば、いつでも手を貸すわ」
「ふふふ。ありがとう、ミューレイ。その時には、色々相談させて頂戴な」
「ええ、勿論」
家格が違う二人の結婚には、何かと軋轢が生じやすい。
特に、今まで積極的に社交界に出てこなかった二人には、これから貴族特有の風当たりが強くなるかもしれない。
その時に、ロメイン公爵家と繋がりがあると知られれば、社交界での後ろ盾も付き、何かと便宜を図れる筈だ。
そういう意図もあって、他の貴族家と関わりの薄いファブラン子爵家の結婚披露宴に、夫婦揃って出席したのだ。この事実は、これから社交界で戦っていく二人の大きな布石となるだろう。
けれど本当はそんな打算などと関係なく、ミューレイもカーティスも、心からのお祝いを伝えたくて二人の披露宴に参加した。これから夫婦共々親しく出来れば良いと、にこやかに会話をするカーティスとニコラウスを見て、そう思った。
披露宴から邸へ帰ると、湯浴を済ませ、二人でゆったりと寝室で過ごす。
この半年ですっかりと馴染んだ肌のぬくもりを感じながら、今日もミューレイは幸せな夜を過ごし、眠りに就く。
それから半月後、ミューレイは新しい生命を宿した。
日に日に大きくなる膨らみは、カーティスとの愛を強くし、あれほどまでに仕事を一途にこなしていたカーティスも、その膨らみを撫でながら少しずつ仕事を減らし、深夜に帰宅することは無くなった。
まだ見ぬ我が子の姿を思い浮かべながら、沢山のベビー用品を準備するカーティスの姿に、ミューレイは愛しさが募った。
愛していると、言って欲しい。
その願いは、これからも叶えられ続けるだろう。カーティスと二人で寄り添いながら、ずっと永遠に。
まだ見ぬわが子と共に、これからは三人で。
ミューレイは、寄り添う夫の胸にもたれかかり、膨らんだ腹部を撫で、柔らかく微笑んだ。
この先の未来も、共に在れる幸せを噛み締めながら。




