妻との関係 sideカーティス
――― 一体、何がどうなっているんだ?
混乱した状態のまま、カーティスは夫婦の寝室から舞い戻ってきた自室の壁にガンガンと頭を打ち付け、先ほどのことを思い出していた。
カーティス・ロメイン公爵には、二年前に結婚した五歳年下の妻が居る。
妻の名は、ミューレイ・ロメイン公爵夫人。雪のように白くきめ細やかな肌と青く透き通る目、長く豊かな金髪を持つ妻は、美しく可憐な女性だった。
華美なドレスを好まず、繊細なレースが重なるふんわりとしたシフォンドレスや、刺繍が施された落ち着いた色合いのドレスを好んで纏う妻は、いつも柔らかな雰囲気に包まれていた。
妻と結婚して二年。その間共に過ごした時間は余りにも少ない。公爵という爵位を受けてはいるものの、近衛騎士長として王宮に出社している私の毎日は多忙を極めていた。
妻とは知人のパーティーで知り合った。
当時妻は社交界にデビューしたばかりで、妻の母や友人達と共に様々なパーティーに顔を出していた。
母親の趣味なのか、豊かな金髪を複雑に結い上げ、耳元には大きなパールのイヤリングが下がり、華奢な体を包むのは細かなパールを散りばめた明るい色合いの女性らしさを前面に押し出したドレスを身に纏っていた。
大きく開いた胸元からは雪のように白い肌と豊かな胸が覗き、胸元を彩るように豪奢なネックレスを付けた妻は、その美しさからパーティーでとても目立っていた。
豪華な衣装を身に纏いながらも、妻の纏う雰囲気は柔らかく、優雅でありながらも楚々とした立ち居振舞いは、深窓の令嬢といった様子で際立って見えた。そんな美しくも可憐な妻に、私は目を惹かれ、パーティーの間中妻の様子をじっと見つめてしまい、主催者である知人からは「そんなに見つめたら、彼女に穴が空いてしまうぞ」と言われ、ぎこちなく目線を反らすものの、やはり彼女に目をやってしまうその様子に大いに笑われてしまった。
一目惚れだった。
それからというもの、パーティーが一緒になる度に妻を目で追い、妻の噂話を聞きながら、妻の情報を集めていた。
趣味、特技、交友関係にある家、友人。そのどれもが、貴族の女性として申し分のないもので、社交的な妻の噂話の殆どはとても好意的なものばかりだった。
その中で唯一引っ掛ったのが、妻の側に居る男の存在だった。
妻の幼なじみだと言うその男はあまり容姿がぱっとせず、妻の影に隠れがちで、社交性に乏しいのか、社交界でも妻以外にあまり親しい人間が居ないようだった。男が側に居る時、妻は普段以上にリラックスした様子で親しげに言葉を交わすその姿に、いつしか私の中に嫉妬という感情を植え付けていた。
何故、そんな男を気に掛けるのか。
何故、私には何の声も掛けてはくれないのか?
それでも友人以上の存在ではない証に、妻には婚約者が居らず、絶えず縁談が申し込まれていた。
私も直ぐさま妻の実家であるハーネスト伯爵家に縁談を申し込み、熱意を持って伯爵家に何度も手紙を出した。
伯爵は私の思いに胸を打たれたのか、縁談を推し進めてくれ、半年後には正式な婚約式を果たした私は晴れて妻の婚約者となった。
堂々と妻の隣に立つ権利を与えられた私は、妻の様子にいつも心を砕き、紳士的に振る舞った。
妻は最初こそ戸惑っていたものの、次第に心を許してくれ、日だまりのような笑顔を私に向けてくれた。
柔らかな声で名を呼ばれるだけで、私の胸は高鳴った。結婚式の準備もスムーズに進み、無事に結婚式を済ませた時は、私は幸せ過ぎてどうにかなりそうだった。
ああ、そうだ。
この時までは、この幸せが生涯続くものだと信じて疑わなかった。もう一生妻を目出離すものかと、そう心に決めていた。
それが変わったのは結婚式を挙げて数ヶ月後のこと。
結婚式を挙げ、無事に初夜を迎えた頃、王宮内のゴタゴタに駆り出され、新婚だというのに妻とゆっくりと話をする時間さえ持てずにいた。
私はそれに焦り、何度か定時に上がろうとするものの、近衛騎士長という職務が邪魔をして日が暮れる前に帰ることも儘ならず、すれ違いばかりの日々を送っていた。
こればかりは仕方のない事なのだと自分に言い聞かせてはいたものの、私は自分とそして次々に起こる問題に辟易していた。
邸に帰る頃には皆寝静まり、当初は遅くまで起きて出迎えてくれていた妻も、家令と私自身の説得で早くに就寝し、妻の健やかな寝顔を眺めては、もどかしさや愛しさ、切なさといった複雑な感情をもて余す日々が続いた。
朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅く帰る毎日。私と妻はずっとすれ違ってばかり居て、歯がゆい思いを抱いていた。
もっときちんと話をしたい。新婚夫婦としての甘い蜜月を、このまますれ違いの日々で終わらせたくはない。
その思いから、ある日私は近衛騎士長の権限で無理やり休みを取った。久しぶりに妻と話す時間を持つために、数日間職務を止める決断をしたのだ。
その日の朝、初夜以来に久しぶりに妻と一緒に摂る朝食は、いつもの味気ない食事が輝いて見える程充実していた。
妻もとても嬉しそうに近況を話してくれ、他愛のない話でも妻は熱心に耳を傾けてくれた。
……寂しい思いをさせてしまった。何故もっと早く決断していなかったのだろうかと、内心頭を抱えながら、互いの距離を埋めるようにその日は一日中話をし、久しぶりに一緒にベッドへ入ったものの互いの話しは尽きることが無かった。
私にはそれが少し不満だったけれど、楽しそうな妻の様子にぐっと自身の熱を押さえ込んだ。きっと明日こそは、甘い夜を過ごそうとそう決めて。
次の日、妻宛に友人だという、あのパーティーでよく一緒に居た男から手紙が届いていることに気付いた。
家令を問い質せば、結婚当初からよく手紙が届き、妻も嬉々としてその手紙の返事を出しているという。
私の心は大きく揺らいだ。
私の居ない間にも、妻は男と親しくしていたのだ。
まだ婚約中であった時、妻と男は恋人同士であり、妻は男を殊の他慕っているらしいなどという噂話が社交界でまことしやかに囁かれていた。
無論、そんな噂話など信じる理由はないと一蹴したものの、まさか妻は本当にあの男を心の底から愛しているのだろうか?
私は絶望とも、怒りともつかない感情が嵐のように胸中を駆け抜け、まさか、そんな筈はないと否定しつつも冷や汗が流れてくるのを感じていた。
その日の昼食時、それとなく妻に男のことを聞けば、妻は一言こう言った。
『彼は私の大切なお友達ですの』
頬を赤く染め、ふわりと微笑む妻に、私は自分の考えが正しかったことを確信した。
……あの時の私は、ちゃんと笑えていただろうか?
その後の会話は頭が真っ白になってしまって覚えていないが、私が適当に相槌を打つ様子を具合が悪いのではないかと心配した妻が、自室のベッドで早めに休むよう促し、私付きのメイドに医者を呼んでくれるよう頼んでいた。
流石にそれは断ったものの、ベッドの側に椅子を引いて座り、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる妻の様子を私はぼんやりと見つめていた。
夜も遅くなり、妻に寝室へ行くよう促せば妻は困ったように首を振り、一日中私の側から妻が離れることは無かった。
私は結局眠れぬ一夜を過ごし、いつの間にかベッドの脇に引かれた椅子に深く座り、ベッドの端に顔を埋めるように眠る妻の肩に毛布を掛け、これから妻とどう向き合って行くべきか、今後の事で悩みに悩んでいた。
それでも朝は来るもので、私は翌日には早くに出勤する事が決まっていて、妻が起きる前に王宮へと登城した。
その後はまたすれ違いの日々が続き、妻との距離を図りかねていたら、いつの間にか夫婦の間に溝が出来てしまい、二人で親しく会話をすることすら途絶えていた。
―――つい、先程までは。
ここ最近は、寝顔しか見ることのなかった妻との会話は何処かぎこちなく、二年という歳月で大きな溝が出来ていることを改めて突き付けられた気がした。
壁に額を当てて目を瞑れば、瞼の裏に焼き付いた、先程の妻の姿が浮かび上がってくる。
普段妻が好んで着ている清楚なナイトガウンとは違い、下着が透けて見える程生地が薄いナイトガウンを纏た妻の姿は扇情的で、常ならばドレスの奥に隠されている豊満な胸と、きゅっと引き締り、くびれた腰が強調されて見えた。
薄暗い室内で、真白い肌が浮かび上がり、美しい陰影を作る華奢な体を悩ましげに揺らした妻は、憂いを含んだ眼差しでじっと見つめ、『旦那様』と鈴のように心地よい声で呼び掛けてくる。
その美しい唇を塞ぎ、吐息すら奪ってしまえたら、どんなに好い声で啼いてくれるだろう?
先程の妻の様子を鮮明に思い出し、体中が沸騰したかのように熱くなってくる。
……妻と共に夜を過ごして二年経つが、初夜以来妻と熱い夜を過ごした日は一度もない。
生来淡白な気質である私は、妻と上手く行っていないことを知った友人達に何度も娼館へ誘われたものの、食指が動かず、未だ娼館へ足を踏み入れることはなかった。
妻以外の女性がどんなに美しい容姿をしていても、どんなに肉感的な色気を持っていたとしても、それに欲情し行為に及ぶ事などなかった。妻以外、誰であれ同じ事だった。
この二年、無性に妻を求めることは、何度かあった。けれどその度に自分の思いに蓋をして、隣で健やかに眠る妻の横顔を眺めならが、虚しい思いを抱えていた。
それが今、たった一度妻の扇情的な姿を見ただけで、身体中心が熱くなり、年甲斐もなく胸が高鳴って、私自身がどうしようもなく興奮していることを認める他無かった。
妻は先程、話がしたいと言っていた。
けれど、こんな状態で冷静に話し合う事など出来る筈がない。
あの時、理性を手放さなかった自分を心の底から褒めたい。そうでなければきっと、私は妻を無理矢理押し倒し、妻の服を暴いて思う存分妻の体を蹂躙していただろう。
思わず吐いたため息の大きさに、私は自分でも驚く程落胆していた。
もう二年も妻と肌を触れ合わせてはいない。それがどれほど自分にとって苦しいことであったのか、ここにきて漸く思い至ったのだ。
それでも、その責任は自分にこそあるのだから、これは私自身への罰なのだろう。
けれど正直に言えば、今の私は情けない程年甲斐もなく妻を求めていた。
その浅ましさに、私はこれ程情けない男だったのかと胸を締め付けられる思いだった。
……明日、妻は私に何を話すのだろう?
そして私はそれに、どう答えるのだろうか?
妻が愛しているのは、あの幼なじみの男だった筈だ。
けれどそれは、私の思い違いだったのだろうか?
妻は何故、あんな格好をしていたのだろう?
幾つもの疑問を抱えたまま、それも明日には答えが出るのだろう。
…いや、そうであって欲しいと願って、未だ収まらない熱と共に、私は自室に備え付けられた浴室へ向かった。




