始まりの決意
―――望まれた結婚の筈だった。
当時ミューレイ・ハーネスト伯爵令嬢として社交界に出ていた私は、父から、
「相手側からの熱心な希望で縁談が進み、結婚することになった。これは相手側から望まれた結婚である」
とそう言われ、17歳の時に婚約し、18歳となった春に結婚式を挙げた。
お相手は当時、若干22歳という若さで爵位を継ぎ、王族の近衛騎士長をも務める若手貴族の出世頭、カーティス・ロメイン公爵だった。
端正な顔立ちに品の良いアスコットタイを締め、ダークグレーの近衛騎士服をきっちりと着込んだ公爵は目が覚めるように美しい。
鍛え抜かれ引き締まったしなやかな肉体を持つ公爵は、世の女性達から熱烈な支持を受け、社交界でも一、二を争う人気の貴族だった。
彼の周りにはいつも多くの人が居て、ミューレイは遠くからそれを眺め見ては、美しい顔立ちが柔らかく微笑むのを他の令嬢同様に胸をときめかせていた。
そのロメイン公爵からハーネスト伯爵家へ縁談が来て、しかもそれが相手側から望まれたものであると知った時、ミューレイは舞い上がると同時に不安になった。
一体いつ、私を知り、私の何処を好いて下さったのだろうかと。
社交界のパーティーでは、ミューレイは毎回友人達と歓談に興じるか、親しい友人が紹介してくれた同年代の貴族とダンスをするか、母の側に付いて挨拶回りをするかのいずれかで。ミューレイの記憶が確かならば、ロメイン公爵とは何度かパーティーでお会いしたものの、挨拶をして二、三言話したことがある位のもので、積極的に知り合う機会は殆ど無かった。
それでも、相手側から望まれたというその一点で、ミューレイはとても安心していたのだと思う。
縁談が進み、婚約してからは頻繁に顔を合わせるにつれ、少しずつこの方と夫婦となるのだということが現実感を伴ってミューレイの胸に迫ってきた。
ああ、これは本当に夢なんかじゃないのだと、ミューレイは泣きたくなる位嬉しかった。
正式に二人の結婚が社交界でも取り沙汰されると、ミューレイではロメイン公爵に釣り合わないと陰口を叩いたり、真正面から嫌味を言われたことも少なからずあった。
それによって傷つくことも、涙したことも実際にはあったけれど、それでもミューレイはこの結婚を取りやめることなど到底出来なかった。
叶わないと思っていた恋が、結婚によって成就する。
それはミューレイにとって、どんな宝にも勝る至福の喜びだった。
二人の結婚式に関する事でも、新婦側であるミューレイに対して過分に配慮して貰い、恐縮してばかりのミューレイにいつも優しい笑顔を下さったロメイン公爵に、ミューレイは長年の片思いが成就するのだと漸く実感した。
舞い上がるミューレイを微笑ましく見守る目がとても温かくて、無事に結婚式を迎えて披露宴を行っている時でさえ、慣れない時間に疲労を感じたミューレイを優しい言葉で気遣い、様々な点でフォローをして下さったのだ。
それがとても、とても嬉しくて、ミューレイは人生で初めて満ち足りた幸せな時間を感じていた。
それが変わったのは結婚初夜を恙無く迎えた翌日のこと。
夫となったカーティスは初夜以来ミューレイの私室を訪れることはなく、夜は夫婦の寝室にある同じベッドで就寝するものの、妻として求められることはただの一度もなかった。
最初は、慣れぬ私を気遣って下さっているのだと思っていた。
……けれどどんなに待っても夫からの誘いはなく、そして二人で過ごす時間も、共に就寝する時か晩餐を共にする時くらいのものになり、いつの間にか夫婦仲は冷えきったものとなっていた。
ミューレイ自身、夫に何か不快なことをしてしまっていただろうかと落ち込み、家令にも、メイド長にも相談したものの、特に落ち度となる部分は見当たらなかった。
ミューレイが気付かない内に不快にさせていることがあるのかもしれない、だから正直に話して欲しいと恥を忍んで再び家令に言った時も、大袈裟な程否定され、「それはあり得ません」ときっぱりと断言された。
そうなるとミューレイの存在自体が、夫を不愉快にさせているのではないかと、疑問が頭を擡げてくる。
―――いや、寧ろそれ以外に考えられないだろう。
そうしてミューレイは一人、私室で涙していた。
侍女は何度も慰めてくれていたけれど、侍女の言葉はただ優しいものばかりで、至らないミューレイをそれでも気遣ってくれる侍女に申し訳なくて、何度も何度も謝罪を口にした。
日にちを重ねるにつれ、いつしか父から言われたあの言葉も、私を励ます嘘だったのではないかと気付いた時、ミューレイはその場から消えたくなった。
望まれてもいない結婚をし、伴侶となった夫には距離を置かれて遠ざけられている。
お飾りの妻として何をするべきなのか分からず、泣いてばかりいる私を気遣い、ロメイン公爵が結婚に際して付けて下さった忠誠心の厚い、優しい侍女は進んで何か趣味を持つよう勧めてきた。
気は乗らなかったけれど、昔から刺繍だけは得意で、刺繍をしている間だけは鬱々とした思いを紛らわせることが出来ると気付いた時、ミューレイは刺繍にのめり込むように没頭していた。
その日もハンカチーフに刺繍をし、もうすぐ完成する所まで来ていた夜、久しぶりに夫がベッドの中でその事に触れ、話しかけてきた。
それがとても珍しくて、話し掛けて貰えるのが嬉しくて、胸がドキドキしした。
けれど直ぐに頭が真っ白になってしまい、その時何と答えたのか正直な所あまり覚えていない。
確か夫は、「何を縫っているのか?」と聞いてきた筈だ。
そこで私は、「友人の家の紋章をモチーフに縫っています」と答えた。
夫は言葉少なに「そうか」と呟いたかと思うと、直ぐに背を向けて眠ってしまった。
侍女が何か進言したのだろうか?
先日、幼い頃からの友人二人が正式に婚約したという手紙が届いたのだ。
その一報がとても嬉しくて、祝いの品として友人の家の紋章をモチーフに刺繍した、ペアのハンカチーフを私的なプレゼントとして贈るつもりだった。
だからそう素直に答えたのだけど……。
何か不快なことを言ってしまったのだろうかと不安が募ったが、背を向けてしまった夫に話しかけるのは憚られ、悶々とした思いでミューレイは眠れぬ一夜を過ごした。
それから後、また夫から話し掛けてくることはなく、あれは夫の気まぐれだったのだと遅まきながら気付いた時、最早修復不可能な程、夫婦の間に出来た溝は大きいのだと思い知らされた。
実際、まだ夫婦関係が壊れてはいないと、胸を過る不安や絶望に蓋をして、騙し騙しここまで来た。
けれどもう、これが事実なのだと。これらを受け入れる他、ミューレイが出来ることなど何も無いのだと突きつけられた現実に、ミューレイは最早立ち上がることも困難な程、打ちのめされてしまった。
ミューレイ自身、これまで幾度か夫ときちんと話そうと勇気を振り絞って話しかけたこともある。けれどそのどれもが梨の礫で、何処か上の空な夫はミューレイの話をじっくりと聞いて返事を返してくれることはほぼ無かった。
夫が興味を持ちそうな話であっても、それは同様で。
もう、ミューレイと夫が、夫婦らしく気軽に話をするような間柄ではなくなってしまったのだ。
―――幸せな結婚式を挙げて二年、ミューレイは一つの区切りをつけることにした。
夫が今後もミューレイに振り向いてくれないのならば、ミューレイ自身もこれからは公爵夫人としてそれなりの態度で過ごして行こう。
そう、その時に決めた。
自分勝手な考えかもしれないけれど、もうこれ以上、ミューレイにはどうすることも出来ないのだから。
でも一度だけ、最後のチャンスだと思って、夫と本気で向き合おうと決意した。
その翌日、ミューレイは久方ぶりに、幼なじみであり気心の知れた親友の屋敷を訪れていた。
どうしても、夫に振り向いて欲しかった。
一度で良いから、夫に妻として求められたかった。
その思いが、ミューレイの背中を後押ししてくれた。
―――大丈夫、かな?
短いナイトウエアの裾を引っ張りながら、そわそわと落ち着きなく寝室のドアを見る。
けれど未だ沈黙したままのドアが開くことはなく、じっと耳を澄ませてドアの向こうにある廊下の気配を探った。
夜も更け、時刻は刻一刻と進んでいく。途中、眠気に襲られてうとうとと船を漕いでしまったけれど、はっと我に返って目を開け、眠気を堪えて寝室のドアを見た。
まだ夫がやって来る気配はない。
いつもならば先にベッドへ潜り込み、朝まで話すこともなく一夜を過ごす所だけれど、今日だけは夫と向き合いたいと、ミューレイはベッドの近くに置かれたソファーに座り、今か今かと夫の訪れを待っていた。
昨日、夫との関係について結婚当初から長く相談に乗って貰っていた親友の屋敷に赴くと、親友は急な訪問にも関わらず、嫌な顔一つせずミューレイを温かく迎え入れてくれた。
ミューレイが本気で夫と向き合いたい、久しぶりに夫と話をするのだから、雰囲気を変えたいと相談すると、ミューレイが見慣れない新品のナイトウエアを手渡され、「これを着て話すと良いわ」と笑顔で送り出された。
侍女の手を借り、湯浴を済ませてナイトウエアを手に取ったのは先程のこと。
普段着用しているナイトウエアの何倍も生地が薄く、胸元から膝上までしかないその服は、殆ど下着のようだった。
鏡が無いから自分の姿を確認することは出来ないけれど、きっと今あられもない姿の自分がソファーに座っているに違いない。
そう思うと、恥ずかしさに頬がかっと熱くなった。
熱くなった頬を冷まそうと、火照った頬に手を当てていると、寝室の扉が前触れもなく唐突に開き、ミューレイは思わず飛び上がった。
薄暗い寝室を照らすのは、ミューレイが部屋に入った際に灯した小さなランプだけだ。しかしそのランプも、近くに寄らなければ室内でどのような表情をしているのかさえ、伺い知ることは出来ない。
寝室に入ってきた夫の片手にはカンテラが下がり、ランプの灯りと相まって部屋を僅かに明るく灯した。
夫はまだミューレイの存在には気づいていないのだろう。
……いや、きっといつも通り先に横になっていると思っている筈だ。
今日この時のために心に決めた決意を改めて思い出し、自分を奮い立たせるようにきゅっとナイトウエアの裾を握りしめた。
音を立てぬようそっと扉を締めた夫は、ソファーから立ち上がり、薄暗い室内静かにに立ったミューレイの姿を見つけると、大層驚き、その目を大きく見開いた。
「ミューレイ……? 一体どうし、」
そう言ったきり、絶句し固まってしまった夫の側に寄ると、甘いムスクの香りが匂い立った。
夫はバスローブの上からネイビーのガウンを羽織り、湯あみをしてからまだあまり時間が経っていないのか、ほかほかと湯気が出ているようだった。
普段、穏やかな表情を浮かべていることが多い夫の珍しく動揺した様子にミューレイは少しばかり驚いた。
「旦那様、私、お話したいことがありますの」
じっと夫の目を見てそう言えば、夫はさっと目を反らし、自身が羽織っていたガウンを私の肩に掛けて迷うように口を開いた。
「そんな格好をしていては、風邪を引く」
「旦那様、」
「今日はもう遅い。明日、話を聞こう」
あくまでも口調だけは冷静に、けれど動揺を隠せない様子で視線をあちらこちらに動かしている。
どうして、こちらを見てくれないのだろう?
そんな夫に畳み掛けるように、もう一度目を合わせて夫に呼び掛けた。
「でも旦那様、私は…」
「夜はまだ冷えるな。薪を持ってこよう」
「あっ、旦那様?!」
何度も話をしようとする私を遮り、夫は足早に寝室を出ていった。ミューレイはそれ以上追い掛けることも出来ず、夫の背に手を伸ばしたまま、夫の背を見送った。
残されたのは、夫が手に下げていたカンテラと、ミューレイの肩に掛かるガウンだけ。ガウンからは夫の温もりと、夫が湯浴びで入れている爽やかなハーブの香りがした。
じっと立ったまま、数分が過ぎただろうか。
夫が戻ってくる気配はない。
恐らくこのまま、朝まで戻ってくることはないだろう。
その事実に嘆息すると、急に足元から冷えた空気が立ち上ってくるのを感じ、身震いした。
まだ初春なのだから、流石にこの格好は冷える。
夫の言う通り、この格好のままでは風邪を引くかもしれない。ミューレイは肩に掛けられたままのガウンを有り難く着込み、冷えきったベッドに潜り込んだ。
……話し合い、拒絶されなかったな。
もしかしたら、話し合うことすら拒絶されるのではないかと思っていた。
顔を見るのも、もしかしたら嫌なのではないかと。そう思っていたけれど、意外にも夫は真摯に対応してくれた。
それが嬉しくて、先程の夫の意外な表情を思い出し、くすくすと笑う。
暫くは冷たさが足元まであったものの、徐々に暖かさが指先まで巡ってくると途端に眠気を感じ、その眠気に抗うことなく目を閉じた。
きっと明日こそは、きちんと話をしようと、そう決意して。




