第九話 西インド諸島
暑い。
甲板の板は素足では歩けないほど焼けていた。汗が止まらず、塩を吹いた服が肌に張りついた。
臭い。
船倉には腐った水と、干からびた食料の匂いが染みついていた。ネズミが夜通し走り回った。
うるさい。
嵐が来れば怒号が飛び、凪げば凪いだで、退屈した男たちが喧嘩を始めた。
想像していた新世界とは違った。自由の匂いなど、どこにもしなかった。あるのは、慣れない暑さと、慣れない虫と、変わらない罵声だけだった。
メアリーは甲板を磨きながら、ふとそのことに気づいた。
服を変えても、名前を変えても、世界は簡単には変わらない。変わるのは、自分がどちらの側から扱われるか、それだけだった。
*
その航海の途中、船が襲われた。
見張りが叫んだときには、もう遅かった。黒い旗を掲げた船が、風上から迫っていた。
抵抗する間もなく、乗り込まれた。
甲板に並ばされた乗組員たちの前を、海賊たちが歩いた。品定めするような目つきだった。殺される者、船に残される者、連れていかれる者。その場で選別が始まった。
メアリーの前で、一人の男が足を止めた。
殺されると思った。
けれど男が聞いたのは、別のことだった。
「働けるか」
メアリーは一瞬、意味を測りかねた。
「何を」
「何でもだ」
短い沈黙のあと、メアリーは答えた。
「働ける」
男は頷き、次へ進んだ。それだけだった。合否のようなものは、それきり告げられなかった。
*
その夜、メアリーは新しい船の甲板に立っていた。
陸の商船とは違う空気があった。規律はあるが、階級のための階級ではない。使えるかどうか、それだけで扱いが決まる場所だった。
軍隊にいた頃を思い出した。あそこも似たようなものだった。ただ、あそこには国という建前があった。ここにはそれすらなかった。
働けるか。それだけを問われる世界。
メアリーには、その率直さが、むしろ息をしやすかった。
第九話 完




