Sal3-56 止まる時
拳が見えなかった。
いや、拳だけじゃない。
蹴りも見えない。
いや、そもそも動きの起点さえも目で追うことができなかった。
気付いたときには、体が軋んでいた。
深々と放たれた拳が、蹴りが私の体に突き刺さっていく。
そのたびに、私はいままで味わったことのない痛みと衝撃に喘ぐことになった。
でも、どれほど喘いでも、目の前にいる人は、旦那様の姉である義姉様は攻撃の手を止めてはくれない。
「っ! わ、私はあなたの義理とはいえ、妹ですよ!?」
「……だから?」
「加減をされないのですか!?」
「なんで? する理由がないわ」
「なぜ、私は、っ!?」
「そんなの私があんたを義妹と思っていないからよ」
「なにを言っているんだ、こいつ」と言わんばかりの、呆れたような表情を浮かべて義姉様は私への攻撃を続けられていた。
いまは私の腹部へと深々と膝を叩き込んでくれた。
突き刺さるような痛みに、私はお腹を抱えるようにして体を曲げていた。
「あら、ちょうどいいわね」
頭の上から義姉様の楽しげな声が聞こえてきた。
視線をあげたときには、義姉様は両手を組まれていた。
両手を組む姿は、まるで祈りを捧げるかのように見えた。でも、それは一瞬だけ。
次の瞬間には、組まれた両手はなんの躊躇もなく、私の背中へと叩き込まれた。
しかも背中だけではなく、腹部にもう一度膝蹴りも叩き込まれてしまった。
腹部と背中への同時攻撃は、それまでの比ではないほどの痛みと衝撃が私の体を駆け巡っていった。
「ごばぁっ」といままで口にしたことのないような声が私の口から漏れ出た。漏れ出たのは声だけではなく、血も一緒だった。私が吐きだしたのは、とても黒々とした血だった。
「いまので臓器のひとつは破壊できたかしらね? でもね、それだけじゃぜーんぜん足りないのよねぇ」
義姉様は笑いながら私を見おろしていた。見おろしながら、私の襟を掴み、無理矢理私の体を引き起こされた。
「……ふぅん? ずいぶんときれいに切られているわねぇ。頸椎なんて一切の歪みさえもないもの。それこそ戻し斬りさえできるんじゃないかってレベルだわ。円香ちゃんの仕業ね。惚れ惚れするほどの剣腕だわ」
私を引き起こした義姉様は、あろうことか私の傷痕を覗き込まれると、私の首を刎ねた新神の雌を褒められた。
そこは褒めるのではなく、「なんてひどいことをするのかしら」と責めるべきであり、褒めるなんてあってはならないはず。
だけど、当の義姉様はまるで「よくやった」と言わんばかりに褒められている。
「意味がわかりません!」
「ん?」
「なぜ、あの雌を褒めるのですか!? あんないかにも誰相手でも股を開くような雌なぞを! たとえ新神とはいえ、あれはどう見ても淫売でしか──」
「マドカお姉ちゃんのことをよく知らないくせに、勝手なことを言うな!」
シリウスちゃんが顔を顰めながら叫んでいた。いまは私が義姉様に抗議しているというのに、本当に困った娘だ。
でも、そういうところもかわいらしくはある。きっとあれも旦那様が言う「ツンデレ」なんでしょうね。
「そうね、よく知らない。でも、わかるものはわかるの。あれは完全に淫売だもの。気に入った男を見かけたら声を掛けて、人気のないところで肌を露わにして男をその気にさせるタイプよ。あの玩具と同じでね?」
そう、あの雌はどう見ても私の玩具と同じだ。男をみずからの肢体で誘い、陥落させることを得意とする淫売だ。
あの玩具と同じで、穢らわしい存在。シリウスちゃんのそばにいるには相応しくない女だ。
「マドカお姉ちゃんはそんな人じゃない!」
シリウスちゃんは私を睨み付けながら、あの淫売を擁護していた。
いったい、どうしてシリウスちゃんみたいないい子があんな淫売を擁護しようとするのかがまるで理解できない。
それとも、シリウスちゃんのようないい子でさえも、あの淫売は毒牙に掛けたというのか。
実にありえそうで怖い。
考えてみれば、旦那様も淫売たちの毒牙に掛かって、浮気が大好物となられてしまった。
以前は私一筋だったのに、気付いたときには私よりも肉感のある女ばかりを侍らして、その肢体を夜な夜な楽しまれていた。
まぁ、あれはあれで旦那様なりのアプローチだったのだろうけれど。
私を煽るだけ煽って、旦那様好みの女になるように仕立て上げるためのもの。いわば、旦那様好みになるように、私は教育されていたのかもしれない。
……本当に旦那様は困った人。そういうことはもっとはっきりと言ってくれればいいのに。
でも、そういうところも好き。
「……プロキオン。これになにを言っても無駄よ。これは自分の都合のいいことしか考えられない存在だもの。なにを言っても自分の都合のいいように解釈して、自分の都合のいい妄想の中で生きている存在なのよ。……反吐が出るわ」
はん、と義姉様が吐き捨てられた。
義姉様が仰っている意味がよくわからなかった。
都合がいい妄想と言われたが、私は妄想などしていない。
私はいつも真実だけを見て、真実だけを胸に秘め、そして真実の愛に生きているだけなのに。
なぜ、それを「妄想」などというひどい一言で片づけられるのかが私にはわからなかった。
「ひどいですね、義姉様。私は妄想などしておりませんが?」
「……そう。ならいいわ。あんたがとことん救いようのない存在だというのが改めてわかったからね。ええ、そうよ。あんたは救いようがない。そもそも救えない存在だわ」
「すくえない、そんざい?」
生ゴミが首を傾げていた。さっさと息の根を止めればいいのに、いまだに忌々しい舌っ足らずな声をあげてくれる。
あぁ、最悪の気分。
せっかくシリウスちゃんを迎えに来たのに、なんで生ゴミがまだ生きているのか。まるで理解できない。
「そうよ、メイサ。これはもう救えない存在よ。魂さえも汚染されてしまっているの。人格が汚染されているだけならば、生まれ変わる際に浄化することはできる。けれど、魂の汚染はもうどうしようもないわ。そのうえで腐肉に墜ちたのだから、未来永劫、これが生まれ変わることはない」
義姉様はまたよくわからないことを言っている。
腐肉に墜ちたと言われたが、それのなにが悪いのかが私にはわからない。
アンデッド。
「ルシフェニア」は上から下までアンデッド族だけの国。アンデッドたちがアンデッドらしく、なに不自由なく生きていける理想郷。
だからこそ、アンデッドであることは誇りであり、決して穢らわしいわけではない。
なのに、義姉様はなぜかアンデッドを否定されていた。
意味がわからない。
なぜ、アンデッドを否定されるのか。
アンデッドほど素晴らしい種族はいない。
なにせ、アンデッドには寿命もなければ、差別もない。
まさに理想的な種族だというのに。
「義姉様はなぜそこまでアンデッドを嫌われるのですか? 我が君であるスカイディア様はアンデッドこそがこの世の覇者であることを認められているのです。つまり、アンデッドは穢らわしくはない。アンデッドこそが真に尊く、崇められるべき種族なのに」
「……それがあんたの、いや、「ルシフェニア」の考えというわけ?」
「ええ。もちろんです。「ルシフェニア」はアンデッドの国。アンデッドがアンデッドとして当たり前に暮らせる理想郷なのですから!」
アンデッドの理想郷たる「ルシフェニア」を理解してもらうべく、手振り身振りで説明をすると、義姉様はひどく顔を歪められた。忌々しそうに私を睨み付けながら。
「……そう。そこまで汚染されているわけね。なら、もうなにを言っても無駄ね」
ふぅ、とため息を吐かれてから義姉様は、私の襟を掴む手を緩められた。
どうやら、癇癪が終わったみたい。
これでようやくちゃんとお話ができる。そう思っていた。
だが──。
「ならば滅せよ。汝にはアルカディア(天国)は似合わぬ。だが、アルカトラ(地獄)の業火やプルガトリオ(煉獄)の浄化さえも汝には意味はなさない。であれば、ただ滅せよ。悲しき者よ」
──義姉様の腕が動いた。そう思ったときには、義姉様の体がふたつに分かれた。
いや、義姉様だけじゃない。
私の見えるすべてがふたつに分かれていく。これはいったいなにが、と思ったときには、私の思考がゆっくりと止まっていく。
なにが、起こったの。
それ以上のことが考えられない。
時が止まる。
止まった時の中で、私はゆっくりと意識を手放していった。




