閑話 学園地上支部≪キャンパス≫の1ページ
―――――地上は魔王直轄領、学園地上支部の蔵書館内。
神魔大戦時には避難勧告で散り散りになっていた学生達だが、戦後数ヶ月を経てそのほとんどが以前の学園生活へと戻りつつあった、そんなとある日。
「………」
彼女――ラドニー=アール=ペンシルは、かつての卒業者が残した論文を持ったまま奮えていた。
「(す、すごい…何これ何これ何これ!?)」
全50枚ほどで構成された論文の、ほんの3枚ほどを読み終えたところで、彼女は歓喜の震えを止められず、次のページを読む事なく留まっている。期待に胸が躍りすぎて逆に読み進められないなんて―――それは熱心な文系女子たる彼女も初めての不思議な体験だった。
「あ、いたいた。おーい、ペンシルー! やっぱりこんなトコにいたっ。もー、アンタはだいたい図書館か蔵書館に……って、何それ? 何読んでんの??」
友人が迎えに来ても論文から目を離せない。肩を叩かれるまで彼女の存在に気づかなかったほどだ。
―――ペンシルは戦闘能力に長けたドラゴン系種族の一つ、ヴリトラーダには珍しい文学少女であった。
その学術意欲、知識欲は種族の傾向からして異端もいいところであり、同時に一族には珍しい学問の才に長けた子。その才をより伸ばすべきとし、親類縁者をはじめとした皆からのカンパによってこうして学園に通わせてもらっていた。
そうした周囲の期待に後押しされている事もあって、彼女は勤勉著しい学生として地上支部の講師陣には模範的学徒としてよく知られている。
そんな彼女がここまで夢中になって書文を読みふける事は、実は珍しい。夢中になっていても周囲の呼びかけに気付かない事などなかったからだ。
なので好奇心から友人は、彼女が持っている紙の束を覗き込む。
「えーと、何々? “ 地上における古代文明を、書物によって紐解く ”……?」
「そう! 何がすごいって、この著者……私ですらまだ把握しきれてない蔵書館や図書館の膨大な書本から、的確に必要な書を抜粋してまとめあげてるの。それも指摘や問題提議、それに対する解説と結論まで、ぐうの音も出ないくらい完璧にッ!」
フンフンッと鼻息を吹きながら熱く語るペンシル。そのまま押し倒されるんじゃないかと思うほどに論文の複写物を友人の顔面に押し付けてくるほどだ。
「わ、わーかったから! すごいのはわかった……ん? この論文の著者ってゴブリン族?? ププッ、ゴブリンってあのゴブリンよね、へーぇ~?」
論文の隅っこには、それを書いた著者の種族や最終在籍年月日などを明記したデータシールが張られている。友人はそれを見て思わず吹き出した。
「種族で差別するのはよくないよ。ゴブリンだろうとなんだろうと内容はホントすごいんだから!」
「はいはい、わかったわかった。笑ってゴメンって。とにかく次の講義に間に合わなくなるから急ごうっ。ようやく待ちに待った魔法関連の講義なんだから、ブッチするわけにはいかないっしょ?」
友人は彼女の片手を掴んで引っ張るように走りだす。ペンシルはコケそうになりながらも尻尾と翼で上手くバランスをとって体勢を維持し、論文の束を持ったまま後に続いて走りはじめた。
魔界学園――それは魔界本土における唯一の公的な学校施設である。
正式には魔王立大学修院学園などという大仰な名称だったが、もう何十万年も前から誰が言い出したかシンプルに “ 学園 ” と呼称するようになり、今では本当に重要な公的文書上を除いて、学徒ばかりか講師達すら学園と端的に呼んでいる。
地上の魔王直轄領地にその学園地上支部が出来たのはまだ5000年ほど前で、魔界本土の本校と比べると校舎や関連施設はいずこもまだ新しい。
しかし学業に役立てるための資料や蔵書は、本校より複写本などを中心に充実を図ってはいる。とはいえまだ不足気味で至らないところや問題があるのも否めない。
入学に際しては種族・性別・年齢を一切問わず、簡単な試験に合格して学費を支払いさえすれば誰でも通える敷居の低い学術機関だ。
……しかし、難関となるのは入学した後からである。
まず年次昇級ではなく年1回の試験昇級制となっており、厳しい昇級試験を合格して初めて上の級へと上がっていく事ができる。
級は1回生から10回生の10段階で、10回生で卒業試験を合格すれば晴れて学園卒業者の称を得られる。つまり最短で10年で卒業可能というわけだが……そこは広い魔界にあっても公的唯一たる学園。その卒業難易度は異常なほど高い。
まず授業は講師達による講義というカタチで行われる。これは旧人類の大学制度に近しいスタイルだ。
講義では出欠など取られない。どの講義に出るかも学生が好きに選択できる。学びたいことを学べる非常に自由なスタイルだが、問題は昇級試験の科目構成にある。
年1回の昇級試験は “ 全講義 ” にて行われる。
どういう事かというと、受験希望学生がどの講義を受講したかなどは一切関係なく、その年次に行われた講義科目全ての試験を受けなくてはならない、というのだ。
当然のことだが同じ時間に複数の講義が複数の場所で行われているため、一人の学生が全ての講義を受講する事など不可能。
だがそんな事は知ったことではないとばかりに行われた全講義別に試験が用意され、受験者はその全てにおいて合格ラインを突破していなければ上の級へ上がる事ができない仕組みになっている。
なのでこの学園では必然、復習予習は勿論のこと、受講していない講義についても自発的に調べたり研究したりと、熱心に修学を深めていかなければ進級すら夢のまた夢なのだ。
事実、この学園の卒業までにかかる目安は、平均およそ180年~200年ほどだが、それは卒業した者達のみから取られたデータであり、実際には入学者の9割近くが10回生に到達することなく何らかの理由で中途退学している。
しかしその高い卒業および進級難易度ゆえに、中途退学者でも3回生以上まで進級できていればキャリアとして評価対象となり、社会的にある程度優遇される事も多いため、何回生まで上がるかの目標を立てて達成したなら計画的に中途退学するつもりで入学する者も少なくない。
この卒業難易度の高い制度のおかげで学園の格は高く維持され、特に貴族や大金持ちの子息などは学園通学による最終学歴という経歴を得るべくして親に学園へと放り込まれた、本人のやる気の多少不明なボンボンも当然多い。
入学の条件は緩いため、広く門戸が開かれてはいるものの、実際にはある程度の格式や高位者の血筋の者などが入学者の多くを占めているのが実状であった。
――――学園地上支部、実技棟の大講堂。
ここは本来、研究発表やイベントごとに使用される大型講堂で通常の講義には使用されない場所だ。
1Fと2F、あわせて悠に800人は座れる扇状の座席は既に満席で、合間の狭い通路にさえ学生で溢れかえっている。
「Oh、今回の講義モー、随分と盛況デスネー」
800人以上の視線が集まる壇上には巨牛魔人族としてはやけに細身で、似つかわしくないローブを羽織り、サングラスをかけている講師が立っていた。
魔界では魔法を使用できる者が多く、学園に通い始める時点で既にある程度修めている者も結構多いため、魔界本校の方では普通の講義教室――収容人数50人程度――で済む講義。
しかし地上では魔法を使える者が少なく、学園ではじめて魔法に触れる生徒も多いためか、地上支部における魔法関連の講義は特に人気が集中していた。
毎回受講希望生徒数が多すぎるために、こうした大人数が収まる場所でなければ収まらないほどだ。
しかも抽選で受講生徒を選んでなおこの数である。魔界本校もこうした地上支部の現状を受けて、対策を講じる必要に迫られていた。
「うわー…さっすが。息が詰まりそうだわー」
座席と座席の間はそこそこ余裕があるものの、その合間にすら他の生徒が詰めている。友人は座席に座り、ペンシルがその横でしゃがんでいる状態で聴講していた。
声を潜めてもよく聞こえる距離だ。当然周囲の生徒にも聞こえるはず。ペンシルは周囲への迷惑を考えてさらに小さな声で短く返事を返す。
「だね。しっかり受講しないと」
彼女達にとっても入学以来、魔法関連の講義はこの “ 魔法基礎学 ” が初めてである。当然ながら受講目的は魔法を使ってみたいという、希望と期待によるところが大きい。
それはおそらく他の生徒の大半も同じ気持ちだろう。既に少しでも使える者ならばこの “ 魔法基礎学 ” を受講する必要はないのだから。
「Hi。それデハー、魔法基礎学の講義をはじめマース。まずティーチャーであるワタシの、自己紹介カラー!」
講師は一言しゃべるたびにイチイチみょうちくりんなポーズを取る。
「名前はー、タクラン=スローフ=ロッソス。気軽にロッソティーチャーとコールミーね!」
変わった言葉遣いで自分の事をどんどんアピールしてゆくが、それはとにかくやたら長く続いた。
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・
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講義時間の半分近くを使っての自己紹介が終わる頃には、学生のほとんどがグッタリしていた。
「…お、面白い先生…だね…」
「う…うん…? …あ、やっと終わったんだ…長ッ、もうこんなに時間経ってるじゃん」
ペンシルは懸命に全部を聞き届けたが、友人は軽く居眠りしていたようで慌てて頭を上げる。
「サーテ! 場がホットになってきたトコロデー。魔法基礎学、レッリゴー!」
ようやくはじまった講義。さっそくとばかりにロッソは背中を向け、片手を大きく挙げる。
「………ハァハァン。<インクのない筆>!」
唱えると同時にロッソの頭上後ろの空間で文字が描かれていく。魔力特有の光が筆先のごとく走り、たちまち彼のフルネームが何もない空間に記された。
途端にくたびれていた生徒も飛び起き、感嘆のどよめきが起こる。
「コレがマジック! ……と、言ってモ、ヒジョー~~~…にッ、イージーな魔法デース。ハーイ、エブリワンクワイエット! んっん、ここからがメインなのデ、少しマジメに説明しテいきマスよー、リッスン!」
口調が少し変わる。調子づいた雰囲気が大人しくなったかと思うと、ロッソは同じ魔法を用いてより大きく、宙にいろいろ書き記しはじめた。
「デハ、魔法の基本カツ、根本的な原理からデス」
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魔法発動の原理―――
術者が有している魔力を材料とし、術式や呪文を介して現実に影響を及ぼす効力へと変換、および出力する。
保有魔力が低い術者であっても、それを補い媒介とする道具や魔導具などを併用し、魔法を発動させる事は可能である。
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空中に浮かんだ魔力文字の羅列。それを講堂内にいる全受講生はそれぞれが思い思いに持ち寄ったメモ用紙に黙々と書き留めてゆく。
誰一人としてしゃべらないが、講堂内は筆などの文房具の音で埋め尽くされた。
「コノよーに、マジックのメカニズムはそのものはー、シンプルなのデス」
ロッソはベシベシと教鞭で書いたばかりの魔法文字を叩く。するとそこから波紋が広がるかのように文字が歪んでやがて霧散していき、完全に消えてしまった。
まだ書き留めきれていなかった生徒からは落胆の声があがるが、そんなものは無視して講義は進む。
「ハーイ! デハ、実際の魔法デスガ、いろんなタイプがありマス。マズは定義魔法についてデス」
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定義魔法―――
先人によって定義化された魔法全般を指した、魔法を学術的な面で捉えた際の総称である。
定義化した魔法を封入した魔導具(メジャーなところでは魔導書など)を用いて契約を行う事で、誰でも簡単に修得する事が可能である。
しかし定義化されてしまっている魔法のために誰が用いても効果・効能のほどはまったく同じであり、術者の魔法的才能や魔力保有量などといった魔法関連能力を一切活かす事ができないというデメリットがある。
さらなるデメリットとしては、定義化されている魔法は低レベルで弱いものが多く、強力な魔法などを契約によって簡単に修得する事は現在、不可能である。
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「ちなみニこのマジック、<インクのない筆>モー、定義魔法の一つデスカラ、契約デ使えるヨーニなりマスヨー」
修得難易度が低く、しかも誰にでも使える。それは生徒達にとっては大きな魅力であり、目の前で実際に用いられている事もあって彼らの期待は高まる。しかしロッソは、チッチッチッと親指を立てて左右に振った。
「デスガー、トーゼン魔力を消耗しマス。ソレは定義魔法ダローとナンダローとカわりまセン。マジックパワー不足はイージーマジックでもデンジャー。OKエブリワン?」
過熱しかけた講堂内が一気に静かになった。
「マ。セルフがハブしてるマジックパワーをリサーチする方法ハ、アナザースタディ。次は自由魔法にツイて……すこーしロングよ、しっかりフォロミー」
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自由魔法―――
定義化されていない術者が使用の都度、自由に作り上げて用いる形態の魔法を指す総称。
魔力を必要量蓄積・集中して、発動したい魔法についてのイメージを強く思い描く。その上で己の中で定義した呪文を唱えながら魔力を解放する事で発動する。
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そこまで書き記すと、ロッソは一度手を止めて振り返った。
「自由魔法の自由トハすなワチ、“ フリーダムにクリエートできる ”という意味デス。……モチロンそんなにイージーでハ、ありまセン」
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自由魔法の困難さ―――
原理的には、魔力を有してさえいればいかなる者でも用いる事が可能であり、いかなる魔法も自在に生み出せるという事になる。
しかし、発動のための呪文の要件が非常に難しい。
呪文の定義は魔法を使用する者が個々で作らなければならない上に、魔法に対して術者自身が抱くイメージに最もしっくりくるワードを選定しなければならない。
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「モシー、少しデモ自分の心の中の、マジックを表現するイメージワードが不適切なバアイ……コトダマのボイス、アーンドマジックのイメージがシンクロミスしてしまうと発動しなかっタリー、ヘヴィなアクシデントがカムヒアしたりスル事もありマス」
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自由魔法のイメージとワードの関係―――
まったく同じ魔法を二人の術者が使ったとしても唱えるワードはまるで異なる。それぞれがその魔法に対して抱く、もっとも最適なイメージに依存するためである。
なので場合によっては魔法を唱えるワード次第で思わぬ個人の一面を見抜かれたりする事もある。
やたらいかついのに少女趣味的な可愛らしいワードを唱える者や、おとなしそうに見えて物騒極まりないワードを唱える者などがその一例だろう。
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「コノ辺りハー、個々の性格・嗜好性にヨルところが大きいデスからネ。ことワードに関してハ、セルフのハートに素直ナ術者ほどマジックの才能アリと言えるデショウ」
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自由魔法のワード構成―――
1つの魔法について定義すべきワードは、精神的イメージと言語的イメージによる “2種類 ” が必要である。
最適な精神的イメージとは、本能や直感で魔法に対して抱いたイメージがそれにもっとも近いものとされる。
最適な言語的イメージは、術者が知識的に培ってきた言語の意味や意義、あるいはその言葉に対して術者が抱く印象などから、魔法を表現するに最もしっくりくる文言とされる。
この2種類のワードを発動に際して唱えるわけだが、ここに魔法を用いる上での最大の難関が立ちはだかる。それは発声方法である。
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「シンプルにまとめるトー、“ 心のワード ” アーンド ” 現実のワード ” ……コノ2つが1つのマジックをユーズするのに必要となりマス。コレは定義魔法デモ同じデス」
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ワードの詠唱方法―――
自らの中で定義した2種類のワードは同時に発声しなくてはならない。それは、心の声と実際の声を同時に発するという事である。頭の中で片方のワードを念じつつ、口からの言葉としてもう片方のワードを発声すれば良い。
ただし精神的イメージによるワードは口から言葉として発し、言語的イメージによるワードは頭の中で念じなければならない。
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「要するニー、メンタルとリアルを入れ替え、それぞれのワードをパーフェクトかつ同時に発声スル必要があるトいうコトデス。コレがチョーディフィカルツッ!」
オーバーリアクションでやはり珍妙なポーズをカラダ全身で取る講師に、生徒達は不安げな表情を浮かべた。
「……ア。デスが定義魔法ハ、ワードも定義されてマスからネ。契約コンプリートしてユーズに耐えられるマジックパワーをハブしていれば、ちょっぴりイージーデスヨー」
ロッソの言葉を受けて生徒のほとんどが安堵する。おそらく大半の受講生は今、定義魔法を契約する事を目指す方針で、魔法使用への期待を膨らませている事だろう。
「(マ。定義魔法はソレはソレデー……契約はなかなかディフィカルツなんデスけどネー……)」
自由魔法より簡単なのは確かだ。
しかし、それならば地上に住む者はもっと魔法を用いている者が多くても良いはずであるが現実はそうではない。
その事実に気付いている者は受講生の中でも数えるほどしかいないという事を彼らの表情を見回すことで確認し、ロッソは軽く微笑を浮かべた。
カラン、カラーン。カラン、カラーン。
講堂の外から講義時間終了を告げる乾いた鐘の音が鳴る。
ロッソが片腕を高らかと挙げてパチンと指を鳴らすと、<インクのない筆>で書かれた文字は全て消滅した。
「Hi。講義はコレでフィニッシュ。儀式魔法ナドー、その他の形態についてハ、セルフスタディ。ディス講義のテストは、座学アーンド実技デス。座学オンリー満点で合格OKにしてマスカラ、ハードスタディねエブリワン。デハ、シーユ~ゥッ」
――――学園地上支部、資料棟3F廊下。
「さー、早く図書館にいかないとっ。貸し出し図書全部もっていかれちゃうッ」
友人は少し興奮気味だ。
魔法が使える。ただそれだけの事だが、今までの自分にはない能力を身につけられる事の魅力はそれほど大きい。
たとえ使いたい魔法が決まっているわけでもなければ、魔法を使用する目的もなくともだ。
「……うん、予想通りみたい。考える事は皆一緒っぽいよ?」
ペンシルが指差す先、廊下の窓から見える図書館の入り口にはさきほどの講義を受講していたと思われる学生達が長蛇の列を成していた。
「うーあー、やっぱりぃ!? ……はぁ、これは無理そー」
彼女達とてのんびりしていたわけではない。むしろ一目散に図書館に向かっていたはずだ。だが上には上がいるの数が多すぎた。
図書館の外に出来ている列の人数は数えるまでもなく、貸し出し可とされる魔法関連書物の冊数よりも多い。今から並んでも1冊とて借りる事はできないだろう。
「まぁ、すぐには無理でもさ、そのうち熱気が冷めて借りれるようになるって」
棟と棟を繋ぐ左右一面ガラス張りの廊下には、二人のほかにも同じ目的で図書館を目指していたであろう生徒達が足を止めて長蛇の列にガックリしている。
ペンシルの慰めを受けた友人に同調するように、諦めのため息がそこらかしこから上がった。
友人はそれでも図書館に向けてトボトボと歩き出す。
どのみち他の講義の修学内容を深めるため、必要な本を探しに行かないとと言っていたのを思い出し、ペンシル自身は蔵書館に向かいたい気持ちを押さえ、友人として彼女に付き合うべく、その後に続いて歩き出した。
――――学園地上支部、図書館内、入り口付近。
「? …そこの貴女、それは?」
図書館に入ってすぐのところですれ違いかけた女生徒が声をかけてくる。
付けているチョーカーの宝石が赤色に輝く中に8の字――8回生を示す――が見える。気品の奥に自分の深みを隠していて容易く腹の内を見せない……そんな雰囲気をまとった物腰やわらかな上級生だ。
肌の一部にうっすらと鱗のようなものが見え、ヴリトラーダのペンシルと比べれば小さいが、上品に折りたたまれている翼が、長い後ろ髪に重なるように見え隠れしていた。
さらには、毛先に近いほど無垢な雪原のような白さ、生え際に近くなるほど深く暗い深海の蒼に染まっている髪のところどころで、神秘的な星の瞬きのような輝きが見て取れる。
「(リヴァイアサン? すごい綺麗……いかにもいい家柄の貴族令嬢っぽそー)」
種族としては高いレベルにあるヴリトラーダとはいえ、ペンシルは一般人の出だ。そんな自分とは一目で住んでる世界が違うとわかるほどの相手に思わず見入ってしまう。
「もし……? 貴女の持っているその紙の束はなんですか、と聞いているのですが、お答えいただけないのでしょうか?」
「ペンシル、ペンシル!」
「っ?! あ、……す、すみません。ボーっとしてしまって……え、えーと…これは―――」
ペンシルはこの論文に大変な感動を覚えたことや、著者がゴブリンだとは信じられない、いかに素晴らしいものであるかなどを話はじめる。
徐々に語る言葉に熱が帯び始めたあたりで、相手が少し難しい表情をしている事に気付き、呆れる友人の視線を受けて思わず語り口を閉ざした。
「―――す、すみません。つい私だけ夢中になって!」
「かまいませんわ。……、…あ、これは失礼を。自己紹介がまだでしたね。私はマハシッド=リクリーヌと申します」
「ヴ、ヴリトラーダのラドニー=アール=ペンシルです」
「悪魔人族のクリッデ=ケレスレスでーっすっ」
友人――――レスは、軍の敬礼のようなポーズを決めながら挨拶した。
先輩相手にそれはどうなのと心配になったが、どうやら面白がってくれたらしくリクリーヌはクスクス笑っていた。
「楽しい方ですね。……1回生の貴女達が、このお時間に図書館に来られたのはそちらの列と同じ目的なのでしょう?」
「えーと、まぁハイ。一応は別の講義のための本を借りるのが主目的です。……ついでに魔法関連の書物を借りれたらなーって思ってたんですけど……」
そう言って残念そうに列を眺めるレスにリクリーヌは目を伏せ、微笑をたたえたまま少しだけアゴを引き、視線を下に落とした。
「では、交換いたしませんか?」
「? 交換、ですか?」
驚いたのはレスではなく、ペンシルだ。リクリーヌの視線はペンシルが手に持っている紙の束に向かっている。
「その論文、もちろん複写本の方だとは思いますが、それとコチラを」
そういって彼女が肩にさげていたトートバックから取り出したのは一冊の本。表紙には “ 定義魔法事典 ー入門編ー ” と書かれていた。
「い、いいんですか!?」
レスが目を輝かせる。交換するのはペンシルだがあれこれ文句を言うつもりはない。二人で一緒に読めばいいのだから、むしろお得だと考える。
しかも論文の方は蔵書館でまた複写本を作成してくればいい。断る理由はどこにもないトレードだった。
「ありがとうございます、リクリーヌ先輩。大事に読ませていただきます」
ペンシルは論文の紙束を差し出し、リクリーヌは微笑みながら事典をレスに渡した。
「たいした本ではありませんがお二人の学びのお役に立ててください。お返しは読み終わってからで構いませんので……では、ごきげんよう」
リクリーヌは二人の側から立ち去った。足早というわけではないが図書館を出るまでにかかった時間がいつもより短く感じる。
外の風に論文の紙が飛ばされないよう注意しながら1枚目の文字をあらためて目で追う。
文章を読み辿ってゆくほどに、昔の思い出を断片的に切り取った写真のようなイメージがどんどんリクリーヌの脳裏に浮かんできた。
「……」
押し黙り、歩を進めていた足が次第に重くなってゆく。表情は暗く沈み、やがて涙がこぼれて論文の表題の、著作者の名前のところに落ち、インクが滲んで掠れた。
“ 地上における古代文明を、書物によって紐解く。”
” 著:10回生、dン=オnブラ ”
かつて、ゴブリンの先輩がいた。しかし彼に対する “ 先輩 ” とは敬称ではなく、侮蔑の意味を込めた皮肉だった。迫害し、いじめていた。他の先輩達に追従して……。
嘲り、貶め、そして存在そのものを嫌悪する。
貴族のご令嬢だからとお高くとまっていた先輩達に同調し、小柄で醜き者とのたまい、酷い事ばかりしてきた。
だが、今になって身に染みる。自分がどれほど愚かで醜悪な女であったかを。
―――かのゴブリンの先輩は150年で10回生制度のこの学園を卒業した。それは卒業者の平均在学期間から考えればかなり早く、彼が真に優秀であった事を示す証の一つと言えるだろう。
だがそれに比べて自分はどうか?
約20年ほどしてから、つるんでいた女子の先輩達が中途退学して学園を去り、その後130年かけてようやく去年8回生に進級。
すでに延べ250年以上も在籍している。卒業生の平均在学期間を大きく越えてしまっているというのに、まだやっと8回生になったばかりというこの体たらく……
貴族位を持つ親からは、卒業はまだか、したらその栄誉を喧伝し、縁談の武器とするからなどと早く卒業までゆくようにと煩わしいほどに催促が飛んでくる。
愚かな醜態をさらし、惨めな立場にあるのはどちらかを思い知らされ、過去の自分の過ちを彼女は今も後悔し続ける。
卒業しても待っているのは家格を上げるための政治道具としてであり、望まぬ花嫁に出される道しかない。そして嫁ぎ先では満足な自由など得られはしないだろう。それが自分の存在のすべて。
……ゴブリンの先輩が残した論文は、読む者に世界の未知を探し求める旅に出たい気持ちにさせてくれる。
「う…う…、ぐす……うっ、うう…」
気付けばリクリーヌは、自分の惨めで無為な半生と後悔の念の高まりからぐずり始めていた。
涙はより大きな粒となって零れ、紙面を濡らしていった。