エピローグ
周りよりも一年長く通った学校そのものに未練などなかった。
あるとしたらたった一つ。先生への振り払えない想いだけが、密やかに残される。
それでもいつか、笑ってあの日々を思い起こせる日が来るだろう。一生一人じゃないように、いつか誰かを――別な誰かを愛せるように。
だからその日が来るまでは、想わせてほしい。忘れられないことを許してほしい。出来れば忘れないでほしい。
だから私は、泣き出しそうな自分を叱りながら、遠目に見かけた梓先生に背を向けて、あの学び舎を去った。
振り向かない。もう会わない。
たとえ未練があるとしたって、みっともなくない私でいたかった。
それがまさか二年越しに思い通わすなんて、いったい誰が想像しただろう。
あの人は本当に、酷い。
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五月十三日。私が二十一歳になる日。
三年前からは母親の命日になり、自分の生誕を祝う気にはならずに、墓参りをするだけだった。一人墓地に赴いて墓石の前に立ち、何を語りかけるわけでもなく何時間もそこに居続けるだけで。
それが今年は、少しだけお母さんを喜ばせられるかもしれない。
生憎の曇り空だという台詞にも、私は微笑み返すことが出来る。どこか暗いグレーは好きな色だ。好きな人の瞳の色。
隣で色とりどりの花を生けるその人は、この二年の間に大きな容姿の変化を見せてはいないはずなのに、以前よりずっと柔らかな雰囲気になった気がする。
視線に気づいた目が向けられて、こそばゆい気持ちを押し隠すように、墓石に向かって手を合わせた。それに倣う気配を感じながら、久しぶりにお母さんに話しかける。
――久しぶり。ねえ、聞こえますか。ずっと何も言えないで来たけれど、今年からはもう平気。心配かけてたよね。弱い娘だったよね。……でもお母さん、大切な人が出来ました。この人が居るから、大丈夫。この人のために強くなるよ。
返事がないことに、もう絶望したりなんかしない。この世にたった一人放り出されたような気がしていたけれど、それは間違いだった。人は本当の意味で一人にはならない。孤独は回避できる。第二の家族のようになった須賀さん一家や、常連のお客さんたち、新しくできた友人。何より、隣に立っていてくれる人。
瞼を開けて伺い見たその人は、私よりも熱心に、長い時間を手を合わせ続けていた。
そして静か解けた手がそのまま、私の指を絡めて握る。さり気無いそんな行動に、いちいち緊張させられる。
「何を話しかけたんです?」
「ああ……」
無粋な質問かと思いつつ、気になって訪ねてしまう。
その人は――梓先生は、知らない人が見たら無感動にも思える横顔のまま、優しく私の手の甲を撫でて言った。
「娘さんはもらいます、って言っておいた」
何でもないことのようにさらりと吐かれたその言葉を、理解するまでにやけに時間がかかった。冗談……と笑い飛ばすにはあまりにその顔が涼しげで、二年のブランクがあるとはいえ、この人の言う冗談の傾向とは大きく外れていることを思い出す。
「え、あの」
「気にすんな――今はまだ」
ようやく向けられた顔はどこか人の悪そうな薄い笑みを浮かべていて、猶予をくれたのか、それとも追い詰められているのか判断がつかない。こういう人だったのかと驚かされるよりは、何だか納得する。
不思議と愉快な気分になって見上げてしまう。
「先生らしい。娘さんをください、じゃなくて?」
「駄目だと言われたら困るだろ」
どうだろう。言うかな。それとも案外あっさりと許すかな。でもなんとなく――本当になんとなくだけれど、頑固親父みたいな面があったお母さんは、それこそ一発顔くらいは殴らせろと言いそうだ。そしてきっと……許すんだろう。私がいいと言えば、きっと許す。
「いつか、」
低く切り出された言葉に目を瞬かせると、先生は私の手を強く握り直した。
「いつか、お前にも同じことを言う。きっとそうなる」
――私に、私をもらうって言うつもり?
その可笑しな言葉を告げる姿を想像したら、ついに笑みがこぼれた。ううん、何よりも、始まったばかりの私たちの関係を、永遠を予感させてくれるそれが嬉しい。
二十歳を超えて感じるのは、成人したからといって一足飛びに大人になれるわけじゃないということ。十歳年上の、大人の男性である先生を前に感じる不安だってある。まだまだ子供な私を選んでくれたこと、後悔するんじゃないかって。そうなったら私は、どうなるだろうかって。
でも、「きっとそうなる」という一言の強さに救われた気がした。何の確証も根拠もないはずの未来の約束が、他のどんなものよりも力があるようで。
だから弱音を吐くべきじゃない。私はただ信じる。愛しているということ。愛されているということ。
「楽しみにしてます」
「そうか」
そんなに遠くない未来。私もそう感じるから。
私の答えに満足したみたいな先生が、ひどく優しい目を向けてくる。暗いグレーの瞳が吸い込まれるほどに綺麗で、思わず見とれてしまう。
「皐月」
呼ばれる名前がこれほど愛しいと思ったことはない。
「皐月」
「……はい」
「誕生日おめでとう」
「っ、はい」
喉元にせり上がるのは、嗚咽にも似ているけれど哀しいわけじゃない。本当なら叫びだしたいほどの衝動が起こっている。何もかもを気にせずにはしゃぎまわりたいほど、ああ、こういうのを何て言えばいいんだろう。
「ありがとう、先生」
紡いだ無難な返事に何故か先生は考え込む様な顔をした。向かい合った長身がまるで私を囲い込むかのように屈んで、長い腕にすっぽりと囚われる。
「なあ、皐月」
「はい……?」
「俺はもう“先生”じゃないぞ」
名実ともに昨年で教職を退いたそのことを言っているわけじゃなくて――。
私は照れ臭さを隠せないまま、どうしようかと首をひねる。
「い、井上さん?」
「馬鹿だな……何でそこで名字に戻る?」
俺の家族はみんな井上だ、と笑い混じりに指摘される。
わかってる。わかってはいるけれど、このハードルの高さは理解してもらえないだろうな。
でも私をからかって楽しむその瞳の奥に、何か切実な色を感じた気がして、私は意を決して渇きの酷い唇を動かした。
「…………あずさ、さん」
「ん?」
「梓さん」
「皐月、好きだ」
いつか目にした眩しいほどの笑顔が、額を合わせて間近にあった。
淡く抱きしめられた感触と、何度も脳内で反芻する声に舞い上がってしまう。ふわふわとした心地に酔うみたい。
叶える気のなかった、忘れるばかりだった想いが届いて、そして同じだけ返されたということ。
――あ、そっか。
ようやくわかった。
この溢れるような衝動の名前。
ただ『幸せ』ということ。
あふれるほどに――私の中にあなたがいる。
May……[意]5月。青春。そしてもちろん皐月のこと。
さてこれにて「--May--」、不器用な二人が想いを通じ合わせるまでの五月物語は終わりです。ここまでありがとうございました。
5.22/諸事情によりafter daysは削除させていただきました。
すみません。




