25 想いの迷宮
「……お父上を?」
「ええ。アルス、貴方に殺して欲しいの……」
ダイナの言葉にアルスは眉を顰め、空になった杯を受け取るとそれを机に置いた。
「……お断りします。俺は殺し屋じゃありません」
アルスの答えにダイナは一瞬目を見開いて、フッと微笑んだ。
「やっぱり、貴方にしか頼めないわ……」
「……ダイナ様?」
アルスは訳が分からずに首を傾げた。断ったつもりなのだが、通じていないのだろうか。
「今の依頼、普通なら断れないのよ?」
「え?」
「貴方には、私やお父様の魔術が効かないの。だから、貴方にしか頼めない」
以前、フィアードからも同じような事を言われた気がする。アルスは自分がどうやら特殊な体質らしいと理解した。
だが、それとこれとは話が別である。
「待ってください、俺には暗殺は向いていません。そもそも、どうしてそういう話になるんですか?」
「お父様は正気を失ってるわ。でも、私はお父様に逆らえない。お父様の言いなりになって、神の力を使ってしまう事になると思うの……それがどういう事か分かる?」
「いえ、全然……」
噂には聞いている。だが、実際に見た事もなく、神の力と言われてもピンと来ないのが現実だ。
「そうね、貴方は見た事がないのよね……」
ダイナは何も無い空間から自分の寝間着を取り出して一瞬で身に付けた。アルスに借りた上着は綺麗に畳まれて寝台の上に置かれている。
信じられない物を見て呆然とするアルスを横目で見ながら、手元に一輪の花を出す。
その花はフワリとアルスの目の前に浮き上がり、花弁をゆっくりと閉じて蕾になると、時間が巻き戻ったかのようにシュルシュルと背丈が短くなり、一粒の黒い小さな種になった。
「……こういう事が出来る訳なの……」
アルスの手のひらに黒い種をポトリと落とし、ダイナは自嘲した。
「普通なら歯止めが掛かってるから、出来る事は限られているわ。でも、例えば今の能力を人や村に向けて使ったらどうなる?」
「それは……」
アルスの背中に冷たい汗が流れる。今まで感じた事のない恐怖に種を持つ手が目に見えて震えている。こんな事は滅多にない事だ。
「お父様に命じられたら、私は逆らえないの。だから、もしも大きな被害が出るような事があったら、貴方が殺して……。お父様か、私を……」
ダイナの目は静かな覚悟をたたえている。
「俺は……恐らく大勢を巻き込むでしょう……」
標的を守ろうとする者達と大立ち回りになるのが目に見えている。寝首をかいたり、毒を盛るような方法が使える方がいいに決まっている。
ダルセルノを殺すのはいいとしても、その方法が問題だ。アルスは渋面で考え込んだ。
「ごめんなさい、アルス。貴方にはいつもお世話になりっぱなしね」
微笑み掛けられ、アルスは渋々頷いた。
「……考えてみます」
「ありがとう」
ダイナが立ち上がったので、慌ててアルスも立ち上がる。
「送ります!」
彼女一人で屋敷まで歩かせる訳にはいかない、とアルスは上着を取った。
その様子にダイナは吹き出して手をひらひらと振った。まだ彼はダイナが何者かよく分かっていないらしい。
「大丈夫よ。おやすみなさい」
ダイナはニコリと笑うとその場から掻き消えた。
「おっ!」
燭台の光が僅かにゆらめき、アルスは目を見張ってその場に立ち竦んだ。
◇◇◇◇◇
寝所に戻ると薄緑色の髪の青年が寝台に座っていた。ダイナの姿を見て立ち上がる。
「……フィアード……」
「おかえりなさい」
深い溜め息をついた青年は若干憔悴しているように見える。
「ごめんなさい。私……」
「ご無事で何よりです。どちらへ行かれてたんですか?」
フィアードは屋敷内、庭、屋根などを隈なく遠見で探していたのだ。
ダイナは答えようとして言葉に詰まった。新婚初夜に他の男の寝所に行っていたなど、とてもではないが口に出来る事ではない。
「心配させてごめんなさい……」
ダイナが曖昧に微笑むと、フィアードは立ち上がり、ダイナの肩を抱いた。
「俺こそ、隠し事をしていてすみませんでした」
フィアードはダイナを優しく寝台に寝かせ、毛布を掛ける。
「……フィアード?」
「俺は部屋に帰ります。今晩はゆっくり休んでください……」
「え……」
胸がチクンと痛んだ。
「そんな……」
躊躇いがちに自分に伸ばされた手に口付けし、フィアードは苦笑した。
「多分、貴女を怖がらせてしまいますから……」
「怖くない! フィアードだもの!」
ダイナのまっすぐな視線が辛い。この少女に自分を受け入れるだけの準備が出来ているとは到底思えない。
「朝まで一緒に……」
「それじゃ、俺が辛いですから……」
一瞬目を逸らしたフィアードの目が潤んでいる。ダイナは息を飲んだ。初めて見る欲情した男の顔に体が竦む。
一度身体に触れてしまった。傷痕も見せてしまい、行方を追っている間は気が気ではなかった。もうこれ以上今までのように振舞う余裕はない。フィアードは目を伏せて立ち上がった。
「私は大丈夫よ……」
声が震えている。本当は怖いが、彼が離れてしまう方が怖い。
フィアードは少女の頭を優しく撫でた。
「あんまり誘わないで下さい……。俺は貴女を傷付けたくないんですよ。少し冷静になってから、また改めて……」
フィアードの姿が掻き消える。
「フィアード……」
少しホッとした気持ちもあるが、置いて行かれたショックで胸が締め付けられる。今までのような穏やかな関係にはもう戻れない、と言うことだ。
ダイナはフィアードとの結婚を進めた事で失った物の多さに唇を噛み締めた。
「……やっぱり、もう潮時ね……」
ダイナは瞑目して深く息を吐いた。
次に戻るべき時点はもう決まっている。だがそれを実行すると、これまでの人間関係が大きく変わってしまう。会えなくなる人物もいるだろう。
それでも、彼を救い出すにはそれしか方法は無い。願わくば、今の彼と結ばれたかったが、運命はそれを許さないようだ。
ダイナは枕中に仕込んである護身用の短剣を取り出した。
「……後は、切っ掛けだけね……」
スラッと繊細な装飾の鞘を抜き去ると、その白刃がキラリと光り、ダイナの色違いの双眸を映し出した。
◇◇◇◇◇
翌朝、家人は気を遣ってダイナを起こしに来なかった。いつもよりも随分遅くまで眠ってしまったダイナは自分で身支度を済ませて女中を呼び、朝食を運ばせた。
朝食に口を付けてすぐ、何の前触れもなく扉が開いた。こんな事をする人物は一人しかいない。
「おはようございます、お父様……」
「うむ。……フィアードは部屋か。食べ終わったらすぐに来い。客人だ」
ダルセルノはそれだけ言うと慌ただしく部屋を出て行った。
彼が直接呼びに来る程の客なのだろうか。ダイナは胸騒ぎを抑えられず、それ以上食事が喉を通らなかった。
女中に命じて食事を下げさせると、昨夜用意した短剣を懐に隠し、ゆっくりと立ち上がる。
自刃してしまうのが手っ取り早いのかも知れない。しかし、せっかくあの青年とここまでの関係になれたのだ。簡単に断ち切ってしまう勇気はない。
この短剣は最後の切り札に取っておこう。ダイナはゴクリと息を飲み、扉を開いた。
応接室に近付くにつれて不安が高まるが、遠見で確認する勇気もなく、震える足で廊下を進む。
不意に聞き覚えがある女の声が微かに耳に届き、心臓が跳ねた。
ーーウソ……何で?
彼女が何故ここにいるのだろう。誰が連絡を取ったというのか。
ダイナは震える足で応接室に入り、そのまま足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。
昨日彼女の夫になった筈の薄緑色の髪の青年が、一人の少女と親しげに談笑していたのだ。
高く結い上げられた空色の髪、空色の目。忘れもしないあの女だった。
「ダイナ、この魔人の娘が我らに協力を申し出てくれたぞ」
ダルセルノの言葉は一切耳に入ってこない。
昨夜、フィアードが部屋に帰ったのはこの女と過ごす為だったのではないか。疑念が胸を支配して、現状が把握出来ない。
「どうして……? どうして私の邪魔をするの?」
ダイナは何も考えられずに懐の短剣を取り出し、震える唇で言葉を紡ぐ。
「フィアードから離れて!」
突然の女帝の剣幕に、フィアードと魔人の少女は意味が分からずに立ち竦む。ただ世間話をしていただけなのだが、と戸惑う姿が更にダイナを追い詰める。
「どうして貴女がいるのよ!」
抑えきれない激情が光の奔流となって空色の髪の少女に襲いかかる。
少女は咄嗟に旋風を起こして身を守ろうとしたが、精霊は完全に切り離されてしまい、そよ風すら起こらない。
「な……!」
驚愕に息を飲んだ少女に光は容赦なく襲いかかる。
壁際のアルスが剣に手を掛けるが間に合わない。すぐ側にいたフィアードですら、自分の身を守る事で精一杯だ。
空色の髪の少女はダイナが放った白銀の光と、地から湧き上がった漆黒の闇に包まれ、一瞬にしてその存在ごと消失してしまった。
少女の姿が消えたのが転移ではないと瞬時に理解したフィアードの顔色が変わる。
「ダイナ様!」
挨拶もなくいきなり客を葬った女帝に、フィアードは畏怖の表情を浮かべた。彼女がこのような力の使い方をするとは思いも掛けなかった。
「彼女は父の知り合いです! いきなり何てことをするんですか!」
彼女を糾弾するフィアードの言葉にダイナの感情は更に昂ぶった。
「フィアードは私よりあの女がいいの?」
今までの記憶がない交ぜになって襲いかかり、何が何だか分からなくなる。
「ダイナ様?」
「そうよ! どうせ貴方は私を見てはくれないの! あの女がいいんでしょ!」
短剣を抜き放ち、自分の喉に突きつける。色違いの双眸からは涙が溢れ出す。
「もう嫌! 帝国も何も、全部無くなってしまえばいいのよ!」
「ダイナ様!」
フィアードは慌ててその手の短剣を奪い取ろうと少女に飛びかかった。
「何を考えているんですか!」
フィアードの両手が短剣を握りしめるダイナの両手を抑え込む。
「嫌! 離して! フィアードの馬鹿! 大嫌い!」
「ダイナ様!」
ダイナはフィアードの手を振りほどこうと闇雲に腕を動かした。
ザシュリ……と嫌な感触が柄越しに伝わってきて思考が停止した。
「……え?」
「……ダ……イナ……様……」
彼女の両手を封じていた青年の手が力なくダラリと垂れ下がった。
「あ……」
短剣がフィアードの首筋を深く斬り裂いていた。
鮮血が吹き出し、彼の髪を伝ってダイナの顔にポタポタと滴り落ちる。
どうしよう、すぐに治療しないと! でもどうやって? ダイナの頭が混乱する。
「フィアード!」
青年の膝から力が抜け、ダイナにその重みがのしかかる。
短剣を握りしめた両手は硬直して柄から離れず、ダイナは青年の血で赤く染まって行った。
「ダ……」
青年のハシバミ色の目から光が失われて行き、ダイナの視界からは徐々に色彩が失われて行く。
彼女の父親は、その一部始終を冷ややかな表情で見つめていた。壁際に控えていたアルスは腰の剣に手を掛けたまま、なす術もなく呆然としている。
「フィアード……」
時が止まり、ようやく短剣を手放すことが出来た。彼の血は色彩の無い世界に於いても赤々とダイナを染め上げている。
自分に寄りかかるようにして息を引き取った青年の顔を覗き込むと、胸が張り裂けそうだ。
「私が……殺した……?」
時が止まった空間にも関わらず、二色の目からはポロポロと涙が零れ落ちた。
「もう嫌……! 全部……解放して……! 私も、フィアードも!」
全て最初からやり直ししたい。自分が生まれた瞬間から、全てを。
何もかも失うかも知れないが、それでも構わない。
ダイナは瞑目して深く息を吸い込んだ。
「戻れ!」
今までに感じた事がない程の巨大な力が湧き上がり、世界を飲み込んで行く。
ダイナはその力の奔流に身を任せ、意識を手放した。
◇◇◇◇◇
「……まさか鍵を産むとはな、お前でも役に立つのだな……」
耳につく、不愉快な声。そうだ、これは父親だ。
ゆっくりと周囲を見渡そうとしたが、見えるのは天井のみ。首を巡らそうとしても、中々思い通りには動かない。
手を持ち上げるとなんとか動くのでそっと目の前に手を翳してみた。
白く小さな、ふっくらとした手が視界に入る。子供、いや、赤ん坊の手に見える。
「あ、起きたようですわ……」
記憶に無い声。だがなんだか懐かしい声が聞こえ、一人の女性が覗き込んできた。
サーシャによく似た、でも少し影の薄い女性だ。
ーーサーシャに似てる……。この女性が……お母様……!
物心付く前に死んでしまった母親が目の前にいる。そう思ったら涙が溢れてきた。
「ふ……ふぇ……」
涙と共にしゃっくりが出て、呼吸が上手く出来なくなる。苦しくなって顔を赤くしていると、ふと身体が持ち上げられる感覚があった。
「フィーネ、授乳後はちゃんとげっぷさせないと駄目よ」
全身のどこにも無理が掛かっていない絶妙の体勢で抱いてくれる女性の顔を見て、その目を大きく見開いた。
ーーフィアード……のお母さん?
恋い焦がれて来た青年に瓜二つの女性に優しく身体を揺すられ、呼吸が楽になる。
自分の母親と彼の母親、この二人が生きている。それだけでも、やり直した価値があるのかも知れない。二人を守りたい。それがきっと自分と彼の運命を変える筈だ。
フワフワとした揺れの中、まだ名の無い赤ん坊となった神の化身は抗い難い睡魔に襲われ、ゆっくりとその色違いの目を閉じた。
お読みいただきありがとうございました。
「女神の帝国 〜想いの迷宮〜」はこれにて完結です。
ヒロインの最後のループは「女神の帝国 〜時を越えて巡り会う 貴方と私の建国記〜」にて連載中です。
もしご興味のある方は、是非そちらもお読みください。