11話 天女の涙
南の地では、戦場跡に降る雨を『天女の涙』と言う。
張飛はそんな噂を思い出してああ、と納得する。
―ああ、そういうことか。
人の命を奪うのは初めてではない。
むしろ数え切れないほどの人の命を奪ってきた。
でも、怨みもなく、身を守るためでもなく、誰かを守りたいからでもなく人を殺すのは初めてだった。
誰かの下に付くと言う事がそういうことだと、知ってはいたけど。
あやは小さく震える自分の手を握り締める。
五斗米道。
鎮圧され、曹操に付いた『黄巾』と同じく、宗教集団だ。
ずっと静かに、漢中の険しい地の利を生かして、誰からも侵されることなく生き延びていた。
漢中を攻めるのは時間がかかる。
費用も、兵力も使う。
だから四方に戦乱を広げている曹操にも手を出されず、放っておかれた。
唯一、益州の劉障と小競り合いがある程度。
劉障としてはジレンマを覚える相手でもあったはずだ。
戦乱激しい北部の雄たちが益州に行くにはどうしても漢中を抜けなければならない。
その漢中に五斗米道がどっかりと腰を下ろしていため、益州は戦乱からは遠く離れていられた。
しかし近頃、侵されなければ武器を取ることもなかった五斗米道の動きがおかしくなった。
自ら益州に侵出してきたのだ。
高みの見物を決め込んでいた劉障にとっては寝耳に水の事態だろう。
平和な地で、のうのうと暮らしていた益州の兵は敗戦に敗戦を重ねた。
劉障にとって五斗米道は険しい地に守られた敵のいない地で唯一の厄介者となった。
益州最南で名を馳せていた玄鳥の長である響彩宛に幾度となく従軍の書簡が届けられていたのは、つまりは五斗米道に対する兵力が欲しかったのだと思う。
その後、どうなったかと思っていたが、どうやら今度は益州とは漢中を挟んで反対側にある荊州に下りてきたらしい。
黄巾が動なら五斗米道は静。
攻めと守り。
そういう印象を持っていただけに、この頃の活発な五斗米道の動きにはあやも驚いている。
「あや、中央は囮だ。大将は張衛。左翼にいる」
そっと聞こえる左近の声にあやは頷きだけを返した。
それは情報として知っていればいい事。
与えられた仕事がある。
それを新たな情報が入ったからと言って動きを変えるわけにはいかない。
作戦を乱し、大局を見失いかねない。
これが大軍を動かす、ということなのだろう。
玄鳥ならそれもできただろうが、ここまで大きな集団が一斉に、即座に、柔軟な対応をしろというのはまったくもって無理な話だ。
可能と不可能。
勝利と敗北。
その境目。
あやは肌でそれを感じていた。
あやの役目は先鋒。
突っ込んで行って二つに割る。
それだけだった。
そして一番危険な役目でもある。
望んだのは自分だ。
情けなくも止まらない震えは、だから武者震いと思い込む。
祁央はあやの隣で、あやの様子を目の端で捉えて、それでも何も言わなかった。
付き合いは早五年以上にもなる。
何度も壁にぶち当たって、泣いて、喚いて、それでもいつだってあやは自分で乗り越えてきた。
試練なのだ。
『あや』の。
自分で乗り越えなければならないものだと、あやも祁央も理解している。
そして自分には自分の試練がある。
敵はまだ遠い。
しかしまるで目前に迫っているような圧迫感。
祁央はあやに知られないように唾を飲み込む。
こちらの兵力は五斗米道の半分にも満たない。
その兵力差は覚えがあった。
玄鳥はいつだって少数精鋭の戦いだったから、それ自体に驚きはない。
だが、五斗米道に比べれば少なく見える劉備軍。
それさえ、見渡すほどの人の波。
暴走させずにまとめることが出来るのか。
自分の、あるいはあやの支配力はどこまで及ぶのか。
どれほど自分が井の中の蛙だったのかを思い知る。
恐ろしかった。
今までとは戦の規模が違う。
これより大きな戦いを知っている。
呉軍対魏軍。
歴史の分岐点だとはっきりとわかるその場に祁央もいた。
だが、そのとき冷静でいられたのはどこかに当事者ではないという意識があったからだったと、今にして思う。
あの男たち、夏侯惇や孫策が物怖じもせずに堂々と軍を背負っていた姿、それが如何に覚悟のいることなのか。
一歩も二歩も先を行っている男たちがいた。
「祁央」
あやが呼んだ。
すらりとあやが景元を抜く。
何故か。
何故か、祁央は霧が晴れるように消えていく恐怖を感じた。
あやの目は真っ直ぐに正面を見ている。
ただ、敵と定めた相手を、強い光を宿した目で。
もう一振り、あやの手が凶器を握る。
背筋が伸びた。
身震いが起きる。
だが、それは恐れではなかった。
冷静に沈んでいく思考。
腹の中に据わる『何か』。
祁央は細く長く息を吸い込んだ。
背負った二振りの剣に手をかける。
いつだって、祁央を呼ぶ彼女の声こそが力。
「奉先様」
貂蝉の声に呂布は自分たちより大分前方に布陣している先鋒の、更に先頭を見た。
きらりと光を反射する。
それは美しい青光り。
「あや…」
貂蝉の呟きが聞こえた。
心配そうな響きが混じっている。
きっとその美しい眉間に皺を寄せているのだろう。
「何だ、あやは双刀使いだったのか?」
今回の戦の総大将である張飛の意外そうな声が隣で聞こえた。
呂布も、貂蝉も答えを返さず、じっとその姿を見詰める。
右手に神剣『花王』。
左手に鬼剣『景元』。
それは無双たる玄鳥天女が死神に姿を変える瞬間だ。
「血の、雨が降るな」
「はい」
呂布にも、貂蝉にも、彼女がこんな所で花王を抜く意味がわからない。
こんなちっぽけな、意味もないと思える戦い。
いつしか気付いたことがある。
花王を抜く。
彼女にとってそれは覚悟を示すものなのだと。
そうする意味はわからなかったが、あやが花王を抜いた。
考えずに、最早それだけが真実。
今回は使うことはないだろうと、仕舞いこんでいた方天画戟を手に取る。
貂蝉もまた剣を握った。
祁央が、やはり最近では抜くこともしなかった二刀の歪曲した長剣を抜くのが見えた。
双鳥爪牙。
左の『蒼鳥』、右の『黄鳥』。
二振りで『爪牙』。
玄鳥で最強と言われた男が同じように目を覚ます。
呂布は戦場を見渡した。
張飛の本陣の前に布陣している隊。
呂布は二陣目を預かっていた。
しかし、あやと祁央が駆けようとしている。
やることは決まっていた。
「殺すだけだ。あやより一人でも多く」
「はい」
あやの心が孤独を感じぬよう。
少しでも罪の意識が薄れるよう。
あるいは彼女と感情を共にするために。
一人でも多く、屠る。
お前だけが血を浴びるのではないと。
一人でも多く、殺す。
貴女だけが罪人ではないのだと。
一人でも多く、絶つ。
ここに、傍に、共に駆ける者がいると示すため。
血が舞った。
あやは瞬きもせずに花王を振りぬく。
命が消える。
景元が肉を断つのを表情も変えずに目に映す。
心は沈めた。
何も、今は感じない。
感じてはいけない。
敵の喉元を掻っ切る。
血が全身を濡らしていく。
不思議と自分の体温を感じない。
いつもそうだった。
殺して、殺して、その先に見えるものが欲しくて、今、戦場を駆ける。
救いはいらない。
涙もいらない。
過去に帰りたいとも思わない。
ただ、晴れた空と、照りつける太陽が懐かしいと思う。
振るった花王の切っ先から誰かの血が飛沫となって空に弧を描いた。
目の端に映ったそれを何故か美しいと感じて一瞬見惚れる。
横で命を絶つ音と共に血が飛んできた。
一瞬の隙に迫った刃は祁央が防いで、落馬した影はもうどこにも見えない。
祁央は油断したあやを怒りもしなかった。
ただ前にいる敵を消していく。
きっと、どこまでも、こうして付いて来るのだろう。
あやの歩く道を共に、妨げるものを打ち払いながら。
じんと痺れる指先に力を込める。
花王が命を散らす。
景元が打ち払う。
張衛は自軍を突き破って進む一軍を見ていた。
動けず、ただ目を見張る。
先頭には死神がいた。
小さななりをした女。
だがその剣が振るわれる度に命が消えていく。
あれは死神に他ならない。
なのに、何故、恐怖ではないものが湧き上がるのか。
中央以外の、戦闘になっていない両翼が静まり返っていく。
こんなに静かな戦場は初めてだった。
赤く彩る。
時に光る刃。
舞を見ているようだった。
確かに、張衛の心は震えていた。
その場にはあまりにも相応しくない感情。
名をつけるなら、『感動』と。
こんなにも美しいものを見たことはない。
天上の舞だ。
自分の感情と同じように、戦場には相応しくないものだった。
戦場に、命を奪う天女がいる。
天上人は美しいままに、人を殺すことが出来るのか。
静かに、心を侵して、広がるのは畏怖。
じりっと下がる兵の足。
はっとして叱咤しようとした時に衝撃が来た。
軍が二つに割られる寸前、自分のいる左翼に二陣が突っ込んできたのだ。
自分が本当に殴られたような衝撃を覚える猛攻。
先頭には鬼がいるのが見えた。
首を飛ばし、胴を真っ二つに割って、馬が駆けるのと同じ速さで進撃してくる獣のような一団。
その鬼を乗せる馬を知っていた。
赤兎馬。
ならばあれは本物の鬼なのか。
死んだはずの、最強の武を誇った将軍。
呂布。
やっと、気付いた。
負けるのだ。
張衛は逃げることも、剣を構えることもせずに目前に迫る呂布から目を逸らした。
その視線の先には戦場の天女がいる。
最期に見るなら美しいものがいい。
そうだ。
彼女は天女なのだ。
ならば死んだ人間が傍にいても何の不思議もないじゃないか。
それに気付かなかったのだから、負けても仕方がないことだと思った。
痛みは感じなかった。
ぐらりと視界が揺れる。
落馬しているのだと気付いたが、不思議と何の恐れもない。
ただ、もう少し彼女の姿を見ていたかったと思った。
たくさんの人と馬の影に消えていく彼女の姿。
それだけを惜しいと感じた。
五斗米道の軍は敗走した。
大将を失って一気に総崩れになったのだ。
本陣はほとんど駄目押しに出ただけで終わった。
終わってみるとなんと呆気ない戦いか。
張飛は早々に軍を引き上げさせる。
今回の功労者は呂布だろう。
まだ先鋒が五斗米道軍を割っていないのに、張飛の指示を待たず、飛び出していったときには怒り心頭だったが、結果は悪くない。
味方の犠牲は最小限で済んだ。
指揮を部下に任せて、長く連なって新野に帰っていく行軍を見ながら、戻ってきた呂布に声をかける。
「これだけの働きだ。十分報いるように兄者に進言しておいてやる」
「そんなものいらん」
「何だ、遠慮はいらねえぞ。邸の一つくらい貰っておけ」
「欲しくは、ない」
静かに答える呂布は張飛を見ていなかった。
意固地になっているわけではなさそうだ。
「…まあ、いいけど。おかしな奴だな」
呂布は張飛が思っていたよりずっと静かな男だった。
そして物欲は薄い。
それを理解していたからか、張飛は無理に勧めようともしなかった。
「じゃあ、あやだな。あやの奴、指揮の才能あるぜ」
きっと自分が報告すれば兄も喜んで褒美を与えるだろう。
「それはおやめください、張飛様」
「は?」
「あやには何も、与えないで」
貂蝉の言葉に目を見張る。
まさか彼女の美貌に相応しくない妬みかと一瞬だけ思った。
しかし貂蝉の声はやはり呂布と同じく静かで、そんなものが混じる隙はない。
呂布と貂蝉がその目に映すのは、張飛でも、行軍でもなく、既に終戦した戦場。
「早く、ここを引き上げた方がいい。雨が降るぞ」
呂布の言葉に張飛は顔を上げて空を見上げた。
空は晴れ渡っていて、流れる雲は薄く、太陽を隠す気配もない。
「なに言ってるんだ?」
「降りますわ」
貂蝉はそっと目を伏せて張飛が驚くほどはっきりと断言した。
―だって、ここにはあやがいる。
戦場跡に立つ。
ひとり佇んで、倒れ伏した無数の兵を見渡す。
土は血を吸い込み黒く濡れている。
噎せ返るような血の臭いは吹く風にも飛ばされない。
涙は流せなかった。
自分が奪った命を、自分が嘆くのはあまりにも身勝手に思えて。
まるで自分が可哀相で泣いているようではないか。
「あや、雨が降る」
行こう。
祁央の声に頭を振る。
もう少し、こうしていたい。
左近の気配がすぐ近くでした。
平静な表情の奥で歯を食いしばって、あやは凄惨な情景を見詰め続ける。
これは自分の起こした結果。
それを否定はしない。
だから目に焼き付ける。
決して忘れない。
はたはたと頬を打つ感触がした。
その正体を確かめることもせず、あやは握っていた手を一層強く握り締める。
爪が手の平を傷付け、血が流れ出すのも気にしない。
祁央にも、左近にも、いたるところに染みを作っていく。
雨が、降り始めた。
それは当たり前に知っていたこと。
あやが当分ここを動かないことなど承知していた。
雨が降っても、あやに雨除けの布は渡さない。
願うのは一つだ。
彼女の全身を彩る赤が早くこの雨に流れ出すように。
ただ無言で、あやが満足するまで、傍に佇む。
握り込んでいた手に熱を感じた。
そっと触れる柔らかな感触。
目を移すと貂蝉があやの手を包んでいる。
貂蝉が優しく笑って手を撫でる。
何度も、何度も。
あやはやっと解けて行く強張りに肩の力を抜いた。
ゆるゆると手の平を開くと貂蝉は爪あとに布を巻いてくれた。
ありがとうの意味を込めて笑う。
貂蝉はもっと優しく笑い返して、あやを抱きしめた。
暖かくて、いい匂いがする。
貂蝉の肩越しに呂布が見えた。
きっと彼も人を殺しただろう。
多分自分のために。
ひとりでも多く、と。
それをあやが心苦しく思うことも承知の上。
だけど、ひとりではないと、愚かしくも思う。
彼らがいると、感じてしまう。
あやがそう感じることも知っているから、彼らは人を殺すのだ。
ごめんなさい。
だけど、ありがとう。
あやは目を閉じて貂蝉の穏やかな暖かさに身を委ねた。
張飛は思い出す。
南の地では戦場跡に降る雨を天女の涙というらしい。
ああ、そうか。
お前か、あや。
―お前の涙か。
ひとり佇む後姿。
泣いているのかと思った。
でも違った。
あやは泣きもせず、睨むようにじっと命の気配がない戦場跡を見詰め続けていた。
張飛は、何の前触れもなく理解した。
あやは、そういう人間だ。
罪を罪と知り、目を逸らすことも、忘れることも、慣れることも、投げ出すこともせずに、ただ真正直に正面から受け止める。
それではきっと辛いだろう。
この時代は生きにくいだろう。
この乱世に、彼女のような者が、あんな風に汚れない心を持ったままの者がいることが奇跡だと思った。
やっぱり、彼女は本物の天女なのかもしれない。
弱くて、でも強く在ろうとする。
それがあやだ。
肩が重いだろう。
自分の足で歩く道は辛いだろう。
それでも、誰の手も借りない。
無言で、あやの傍に近づいて行く呂布と貂蝉の姿と、彼女の傍に立つ祁央と左近を羨ましく思った。
それが時の力だろうか。
長く共にいた、彼らの絆だろうか。
雨が、戦場を覆う。
柔らかな糸の様な雨が帳をつくる。
動かない彼らの上にも優しく降り注ぎ、血を洗い流す。
冷たさを感じない不思議な雨。
それは鎮魂の雨のようだった。
あやが泣かない代わりに、空が泣く。
あやの心そのもののように、優しく死者を包む。
あるいは空が、愛した彼女を慰めるように。
雨は降り続ける。
この大陸では戦場跡に降る、優しく柔らかな雨を天女の涙と言う。




