7話 君は泣く 君は起つ
駆けて、駆けて、誰かの制止の声や手を振りほどいて、あやは駆けた。
家の中のものを引っくり返して、隠してあった、五年間触るも事もなかった小さな鍵を取り出し、あやはまた走り出す。
忘れたことなんかなかった。
でも、なんでだろう。
恐かったのだ。
だから封印して、記憶にも蓋をして、忘れたフリを続けた。
―その罰かな。
泡のように浮かび上がる疑問に口を閉ざし、道を駆け、畦道を抜け、森の中、誰も踏み込まないその奥。
一本の木の下で、あやは止まった。
荒い息は、冴えた空気を白く濁らせる。
息を整える暇も与えず、堪えきれない衝動に背中を押されて、根元の土を掘り起こす。
鍵以外、何一つ道具は持ってこなかった。
でも、この血に汚れた手がある。
今更、少しくらいの痛みも穢れも、誰も、自分ですら気付かない。
だから気にしなくても大丈夫。
爪が剥がれて、指先に血が滲んでもあやは手を止めなかった。
指に土以外の感触を見つけて、あやは目的のものに辿り着いたことを知った。
出てきたのは懐かしき未来の欠片。
きっとここではこんなものですらオーパーツだ。
ポリエステル素材の、ありふれたボストンバッグ。
黒いそれを引きずり出して、チャックにかけてあった小さな南京錠に鍵を差し込む。
現代日本の技術力の賜物か、いまだ錆付いてはいなかった。
かちゃりと小さな音がして、鍵が外れる。
あやは急かされるように、バッグの中身をばさばさと地面に落とした。
震える手でそれを拾う。
拾って、胸に抱え込む。
衝動で駆けて、衝動でここまで来た。
だが、かき抱いたそれを、あやは衝動だけで見ることを躊躇った。
いつも、いつも流されて。
大切なモノを選び損ねる。
だが、もう激情で、衝動で突き進んで、何かを失うのはたくさんだった。
正月早々、衝撃的な出来事が玄鳥を襲った。
多くの者が最初は冗談と捉えて、そして真実を知ると大きな悲嘆に暮れた。
玄鳥黒布銀糸、黒布長兼赤布隊隊長、陽明右近逝去。
多くを統括し多くに慕われた、名の通り明るく陽気な男の早すぎる死だった。
めでたいはずの正月、玄鳥族全体が沈んだように重苦しく、また村には悲哀が満ちていた。
しかし大きな混乱はなく、取り乱した人々もやがては落ち着きを取り戻し、静かに自ら喪に服した。
玄鳥に揺るぎはない。
しっかりと地面に根を張った巨木のように。
孫策と周喩はそれを一歩引いて見ていた。
「…見事だな」
「ああ…」
視線の先ではあやが村人と穏やかに話している。
その後ろには左近がいつものようにだんまりで佇んで。
ぶすくれた呂布が左近に連れられて傍にいる。
変わらない光景。
繰り返された日常。
そんなものがそこにはある。
ただ右近がいないだけで。
あやも左近も、祁央と白父も、あまりにも変わらずいつも通り。
だから人々は安心する。
大丈夫なのだと。
なにも不安に思う必要などないのだと。
悲しいけれど、問題はない。
きっと、そう思っている。
それは必要な態度だ。
孫策は身を持って知っている。
周喩にだってわからなくはない。
これでも一国の中枢にいる二人。
そして望まぬ世代交代劇を体験してきた。
父の急死に悲嘆に暮れている暇などなく、動揺は許されなかった。
それが上に立つ者として背負うべきものなのだと、初めてその重さを実感した出来事でもある。
それは一番辛い記憶。
過去を思い出しながら、孫策と周喩は苦々しく彼らを見守った。
だが、その感情は自分たちの痛みを思い返してのものではない。
―あの頃の自分たちもこうだったのだろうか。
そう思う。
あやが笑う。
誰かの死は悲しいけれど、これからも変わらぬ日々を約束すると。
変わらず笑う。
でも、とても痛々しい。
同じ思いをしてきたからわかる。
彼女にとって、彼は、誰かの死ではない。
たった一つの命だ。
誰にでも、大切な者はいる。
そして身近な者を失ったことがない者の方が少ない時代だ。
だが悲嘆に暮れるばかりの日々に区切りをつけ、人々はやがて前を向く。
そう、彼らと、自分たちとあやとの違いは、きっとそれだろう。
「いっそ、泣けばいいのに」
身も世もなく、嘆いてくれたのなら。
そう願うのは、見ているのが辛い、というだけの身勝手な願いだ。
「…軍師失格の台詞だぞ、それ」
孫策に言われて周喩は黙る。
確かに、こんな状況になったら主君を窘め、土台が揺るがぬように気丈に振舞え、と言うのが軍師。
あれでもあやは玄鳥の頂点にいる。
彼女の態度は褒められこそすれ、そんなことを言われる筋合いはないはずだ。
孫策がにやりと笑い、否定を前提に問いかける。
「惚れたか」
なのに、周瑜はそんな孫策に、小さく片眉を上げてため息を吐きながら答えた。
「…かもな」
周喩はわりとあっさりと認めて、空を見上げた。
「馬鹿だなぁ、周喩」
周喩の心情は手に取るようにわかったけど、孫策は笑った。
少し、苦笑のようになったのはご愛敬。
この状況ではどうにもならない。
どうしようとも思わない。
タイミングが悪すぎたし、周喩にはきっと故郷においてきたものを手放すつもりはないのだから。
「本当に馬鹿だなぁ」
もう一度、呟いた孫策の横顔をちらりと見て、周喩は目線を遠くのあやに戻した。
不快には思わなかった。
―俺も、馬鹿だなあ。
言葉にされなかった声が、周瑜には聞こえていたから。
「あ」
どちらが声をあげたのかはわからない。
視界に黒駒に乗った祁央の姿が見えた。
それはあっという間に近づいてきて、馬を止めることなく驚いている村人とあや自身を無視して、祁央はあやを攫うように馬に乗せる。
数瞬の出来事だった。
豆粒のように小さくなっていく彼らの姿を少し呆然として見ていたけど、周喩は苦笑して孫策の肩を叩いた。
「私たちの勝ち目がどこにある?」
周喩は私たちと口にしたが、孫策はそのことに関しては何も言わなかった。
ただ、沸き上がる感情を音にする。
「奴が、あやの傍に居てくれてよかったと思うよ。俺にお前がいたようにな」
心の底から、そう思う。
未熟な君主である自分が、細い綱のような頼りない未来を手繰り寄せられたのは、周囲の支えあってこそだったとあやを見ていると思うのだ。
祁央の肩口に顔を埋める最後に見えたあやの顔は、何かに耐えるようだった。
その身の全てを彼女のためだけに捧げられる祁央を羨ましいとは思わない。
なぜなら孫策は誰かを支える者ではない。
支えられ、掲げられ、敬われ、跪かれる者。
あやと同じ、上に立つ者なのだから。
今は、そうあることを誇りに思う。
彼女と同じ場所に立つ自分を。
孫策の前にはもう、自分が行こうとする道を阻むものはない。
目にはただ広がる大地がある。
あやに出会って見つけた道だった。
不意に、胸を突く衝動が駆け抜けた。
未来の光景を幻視する。
見たい光景がある。
―この大地を埋め尽くす呉の旗。
呉色に赤く染まる大地はきっと何より美しいだろう。
探していた答えはとうに見つけていた。
「さて、俺たちも行くか」
「ああ、そうだな、孫策」
右近が死んだ。
気のいい男で、孫策も周喩も彼が好きだった。
播瑠が死んだ。
かわった男で、だがその忠誠心は本物だった。
右近を殺したのは播瑠だった。
播瑠が孫策の連れであることは誰もが知っていること。
彼が何を考えていたのか、今となってはわからない。
彼が何者だったのかも。
今は推察しか出来ない。
だが、孫策は彼に手を差し伸べ、彼が手を取った時に彼を信じ抜くと誓った。
孫策にとって播瑠は確かに身の内の人間だったから、彼とは無関係だと、偽りを口にすることは出来なかった。
そうして、孫策は玄鳥での居場所を捨てる。
播瑠を切り捨てられない自分たちに、こうまでして右近を慕う人々が敵意を向けないことだけでも、感謝するべきなのだ。
孫策たちが、ここに留まる理由はもはや何もない。
意外に短かった玄鳥の地での滞在を辞すために二人は歩き出した。
「借りて行くぞ」
そう言ってあやを攫っていった祁央を見送って、左近は組んでいた腕を解く。
「行ったか」
心の中だけでよかったと呟いて、左近が重い口を開き、驚いている村人たちを安心させる。
村人たちはそれだけでもう何もなかったように、それぞれ自分たちの仕事に戻っていった。
影のように存在を主張しない左近でも、その信頼は他に負けない証左だった。
「何なんだ、一体」
村人たちが素直に帰っていくのを見届けてから、取り残された呂布が左近に問いかける。
「二人で遠乗りだろう。最近ずっと忙しかったから」
あやより先に、祁央が限界に来たらしい。
左近も、どこかで早く祁央に動いて欲しかった。
あやは祁央がいても左近がいても、体を抱きしめるように眠り、時々、聞こえない悲鳴を上げて飛び起きる。
だけど、朝になれば彼女はいつもと変わらない笑顔を浮かべて、いつもと変わらない日常を演じる。
ずっと、同じ顔でしか笑っていない。
あやは本来とても感情豊かで、泣き虫なのに。
「遠乗り?こんな時にか?」
「必要なことだ」
怪訝そうに呟く呂布に言い放つ。
ここでは駄目なのだ。
あやは玄鳥天女だから。
「息抜きか?…何故、お前たちはそんなに冷静なんだ」
不満そうに呂布が左近を責めるように言った。
右近がいなくなったというのに。
あやたちはまるで変わらないように見える。
「おれたちが騒いだところで右近は還ってこない」
「だから無駄な労力は使いたくないと?」
呂布が目を細めて左近を睨む。
「…そう思うなら、そうなんだろう」
左近は怒りもせず、肯定すらしてみせた。
それどころか、動かない表情の下で感動を覚えて呂布を見返す。
一年半前の彼からは想像がつかない。
人を殺すことだけに武をみてきた男が、たった一人の死に憤っている。
―右近、お前が変えたんだな。
残したものの欠片を見つけて、左近は静かに声を掛ける。
「…さて、行こう。おれ達にもやることがある。」
「おい、待て!お前たちは」
「これから遠征に行ってもらうぞ、詳しくは全役洞で師父から聞け」
「何故俺が!」
「右近に任されたんだろう?黒布長。」
黒布長。
玄鳥武部の統括者。
呂布は黙り込んだ。
その言葉はずしりと重たい。
「北東から流れてきた盗賊が暴れてるらしい。頼んだぞ」
「……こんな時にも戦か?」
喪に服して静かに過ごすべき時のはずだ。
「こっちの事情がどうであれ、向こうは配慮してくれない。玄鳥は誰かのためにあるのではなく、人々のためにあるべきだ」
まるで右近の存在を軽く見られているような気がして呂布はかっとして口を開いたが、左近の静かな一言が先に耳に届いた。
「何も泣くことだけが悼むことではないさ」
まだ、呂布にはわからないかもしれない。
欲望のままに動き、感情に逆らうことをしないで生きてきた男だから。
だから感情のまま右近の死を嘆くことができる。
そんなところは感情を隠さない右近に少しだけ似ていた。
「いつかお前にもわかる。」
喪失の痛みを知ったなら。
「そんなことわかりたくもない」
呂布の捨て台詞に内心で苦笑した。
それでも全役洞に足を向ける呂布にとって右近は大きな存在だったのだろうと、左近は風通しのよくなった隣を見る。
誰もいなくなった右隣。
もう悪態を吐くこともなければ、手を煩わされることもない。
「阿呆が…」
その声は風に溶けて消えた。
「あや、着いたぞ」
強引にあやを抱えて、馬を走らせた。
あやは驚いた顔をしたが、抵抗はしなかった。
それからずっと祁央の肩口に顔を埋めたまま、どこに行くのかとも聞かず、風景をその目に映すのでもなくじっとしていた。
「あや」
もう一度促されてあやはのろのろと顔を上げる。
何もない荒野。
村も、緑も、人影も、あや達以外は枯れた木々だけまばらにあるだけ。
「ここには誰もいない」
「…そう」
どうでもいいように荒涼とした大地を空ろに見つめて、あやははっとしたように祁央を見上げた。
おぼろげに思い出す光景。
始まりの場所。
祁央の服を掴む手が震え出す。
「なぜ…祁央」
―今更こんな所に連れてきたの。
「……」
祁央は答えなかった。
答えることが出来なかった。
あやが落ちてきた場所。
もしかしたら帰っていく場所もここなのかもしれないと思ったから、一生言わないつもりでいた。
だけど、今。
あやが感情を吐き出すためにはここが相応しいと思った。
帰りたいか、とは聞けない。
恐くて。
でも、このままではあやは二度と笑ってはくれないような気がして、祁央はいてもたってもいられず馬を走らせた。
祁央にとってその事実は自分の感傷よりも優先度が高い。
ぎゅっとあやは祁央に身を寄せた。
馬を下りて駆け出すのではないかと思っていた祁央には予想外の反応。
見たくないもののように、あやはまた顔を伏せて祁央の胸に縋りつく。
ここは嫌だ。
逃げたくなるから。
そして思い知らされる。
やっぱり帰れないんだ。
知っていた。
本当は、帰り方を知っている。
その権利がないことも、その資格がないことも。
だから帰れるはずがないことも。
右近を奪ったあの男も、自分と同じ道を辿ったのだろう。
本当はきっと、もっと多くの人々が時間と空間の狭間に迷い、そしてその多くがあるべき場所へと帰還を果たす。
取り残され、迷い続ける者はとても少ない。
自分も、播瑠も、その数少ない迷い子なのだ。
最初は握っていたはずの帰りのチケットは、あやの手にもハルの手にもなかった。
とんとんと祁央があやの背を規則正しく叩く。
蓋をしていた整理できない感情が首をもたげる。
右近を奪われた痛みと。
播瑠を憎みきれない自分。
懐かしい楽園の記憶と郷愁と。
まるで赤ん坊のようだと思いながら、あやは押し寄せる感情に流されようとしていた。
渦巻くのはどろどろとした嫌なもの。
「ハルがキライよ…だって」
右近を奪っていってしまった。
人が簡単に死に逝く世界だと知ってはいたけど、それでもずっと、この先も一緒にいるものだと疑わなかったのに。
浄化しきれない毒が澱のように溜まっていく。
体が重い。
播瑠は許せない。
なのに。
「憎みきらせてもくれない…」
だって、あの人疲れたって言った。
帰りたいって。
この世界ではただ一人かもしれない故郷を同じくするひと。
何よりも、あの目。
守りたいものがあると、そう言っていた。
あやと同じく、守りたいもののために、戦える人だった。
だから、感情の行き場がどこにもない。
播瑠を憎めれば、怒りで忠相を振り下ろしていれば、こんな風に矛盾した感情に苦痛を味わわされなくて済んだのに。
「祁央、右近がいないわ…」
そのことがただ哀しい。
「…俺はここにいる。」
「……」
あやの、祁央にしがみ付く手の力が強くなった。
「左近もいる」
慰めにはならないだろうと思ったけど、忘れて欲しくなくて、そう言った。
「…ここには俺とお前しかいない」
だから存分に泣いていい。
「…っ……」
あやの背がいっそう小さく、祁央の腕の中に納まった。
規則正しくあやの背を叩く祁央の手はかわらない。
あやは久しぶりに声を上げて泣いた。
喉が嗄れるくらい好き勝手に叫んで、文句を言って、理不尽にたくさんの人を責めた。
こんな姿は他の誰にも見せられない。
冷静でも、公平でもなく、平等を説く理想をかなぐり捨てて、喚く罵声と呪う悲声。
見せたくはない。
祁央はそれを何も言わずに聞いていた。
感情を宥めるように、小さな背に触れながら。
祁央はあやの嗚咽と染み込んでいく涙に、思う。
ああ、死ぬわけにはいかないな。
泣かせるわけにはいかない、悲しませるわけにはいかない。
たとえあやのためにでも、死んではならないのだ。
祁央はいつでも投げ出せるのだと思っていた自分の命の重さに気付いた。
「…もう誰も、失いたくないよ…祁央」
泣いて喚いて、最後にあやはそう言って口を噤んだ。
嗚咽はしばらく止まらなかったけれど、祁央はあやの気が済むまで、ずっとそこであやの肩を抱いていた。
「あや」
小高い丘の上。
一人佇むあやの背に孫策は声をかけた。
「孫策」
見晴らしのいい場所だった。
あやが選んだのだろう。
「いいところだ」
感謝を込めて、孫策はあやに伝える。
「でしょ?」
隣に並ぶ孫策にあやは嬉しそうに笑う。
孫策が一瞬目を細めて、穏やかな微笑みとともによかったと呟いた声はあやには届かなかった。
改めて二人は前を見た。
そこには風景を壊さないようにひっそりと十字架が立っている。
孫策にはもちろんその形が何を指すのかなどわからない。
だが、思い出す。
孫策たちが駆けつけた時の凄惨な現場。
呆然と足を止め。
風に乗って聞こえて来た播瑠の最後の言葉は孫策には理解できなかった。
だけどあやは顔を歪めて、やはり孫策にはわからない言葉で播瑠に言った。
『家に帰るよ』
『…現代に?.』
『ああ、そう。我が偉大なる故郷に』
そうして目の前で播瑠は消えた。
一欠片も残さず、消えてしまった。
その行方を知っているとしたらあやだけなのだろう。
あやは播瑠が手の中で消えてもさほど驚いたようには見えず、空を見上げて目を閉じた。
だから、きっと播瑠は空に帰ったのだ。
播瑠もあやも天から落ちてきた者たちだったのだと、その時やっとわかった。
玄鳥には天女がいる。
その噂は本当だったのだと、こんな皮肉な展開で証明されても嬉しくはなかったけど。
十字の立て板はきっと墓標。
天と地ではその習慣だって違うに決まってる。
それが彼らの弔い方なのだろう。
真ん中にあるミミズのような不思議な模様は文字だろうか。
「何て書いてあるんだ?」
「…播瑠の名よ」
最後に彼は名乗ったから。
そう記した。
あやにはそう記す権利がある。
でも。
「ねえ、播瑠の名はもしかしてあなたがつけた?」
「よくわかったな」
「…キライじゃないみたいだったから」
多分、この世界が嫌いだった播瑠が唯一存在を認めていたのは孫策だった。
「呉でもお墓をつくる?」
「…お前が許せば。」
予想外の答えを聞いてあやは少し面食らったが、孫策の葛藤を察して緩やかに笑う。
「あなたの心のままに」
今度は孫策がきょとんとして、それから許しを貰ったのだと気付くとゆるりと笑い返す。
「でも一つ条件。その時には『播瑠』と記してあげてね」
ハルバートではなく。
孫策がつけた彼の名を。
孫策のために惑い、消えた男の名は播瑠だった。
「俺が知っているのは『播瑠』だけだ」
他の誰も知らない。
天人としての彼も、その名も。
孫策の言葉から幾つもの想いが読み取れて、あやは十字架の向こうに広がる美しい光景を見つめる。
たくさんの後悔と悲しみと怒りが通り過ぎて、祁央の腕の中で子供みたいに泣いて。
最後に叫んだ言葉だけが残った。
答えの出ないことは多くある。
でももう自分の中で中毒をおこす様な考え方は止めた。
今の、ありのままの自分を受け入れて。
自分の望みを認識してみれば、案外簡単に禁忌だと閉ざしていた扉は開けた。
衝動で掘り起こして、それでも見ることが出来なかった教科書をやっと捲ることができた。
隅々まで読み漁って、それでやっと自分がしたことに気付いた。
播瑠のしようとしていたことに気付いた。
正しい歴史と、ズレてしまった今と。
呂布は死んでいなかればならず。
孫策はこの年に死ぬ。
歴史を修正しようと足掻いて、修正できなかったことに安堵したあの男。
「馬鹿ね、あなた助けたかったんじゃない…」
死ぬ運命の孫策を。
変えたかったんじゃない、本当は。
誰にも読めない字だろうけど、何よりも強い兵器になるかもしれないそれを盛大に火にくべながらあやはやっと播瑠を受け入れた。
右近を奪ったことは許せない。
だけど播瑠を恨み続けるにはあやは知りすぎた。
大丈夫。
祁央が泣かせてくれたから。
まだ整理のつかないことは多くあるけど、一番欲しいものに気付けたからあやは覚悟を決めた。
「…右近の墓は?」
昨日までならその名前を出すことも憚られたが、今なら大丈夫だろうと孫策は聞いた。
播瑠の墓はあるが、もう一つの墓標は見当たらない。
それともやはり播瑠の隣に眠らせることは出来なかったのかと、人間としては当たり前の心情を慮る。
ここよりも美しい場所が他にあるのだろうか。
そこに右近は眠っているのか。
「ここよ」
けれど、あやは自分の胸を指して答える。
心の中だといいたいのかと思ったが、そうではないらしい。
あやは着物の袷から小さな箱を取り出した。
「海に帰すの」
あやの故郷が海に囲まれた島だと説明したら、いつか海を見たいと言っていたから。
箱の中には白い粉が詰まっていた。
「海?」
ここには海はない。
疑問を声に出してみればあやが満面の笑みを浮かべた。
「呉にはあるでしょう?」
選ぶとか、選ばないとか、そんな難しいことを考えるからいけない。
全てを排除して、一番底にあるのは単純な言葉。
「孫策は死なせない」
失うのは嫌なのだ。
右近のように。
好きな人がいなくなるのはたくさんだ。
播瑠。
あなた言ったわね?
あとはあたしに任せるって。
そうさせてもらう。
あたしはあたしの好きにする。
だからあんた、見てなさいよ。
黙って、そこで。
文句は聞かない。
あんたが自分でその権利を放棄したんだから。
歴史を変える。
そのことを意識していたわけではなかったけど、あやは決めた。
何故播瑠が孫策の運命を変えるのを躊躇っていたのか、気付くことなく。
あるいは気付かないふりで。




