3.飼って、絆して、鎖で繋いで
「病気……?」
「そうです。染りませんが、治りもしない病です」
「お国元を離れての療養とは……だいぶ、悪いのですか」
「あなたにお話ししたところで、関係がないことです」
「何故」
「……」
「こんな山の中に少しの従者だけといても退屈でしょう。療養中のあなたの話し相手くらいにはさせていただけませんか」
不治の病に侵された少女は、その病を微塵も感じさせないほどに凛然としている。野に咲くアザミの花よりも気高く鮮やかにこの場に咲き誇っているかのように錯覚させる。南国にいたにしては顔こそ青白いが、黒い絹糸のような髪には露を含んだような艶があり、ドレスから覗く白磁のようになめらかな胸元もふくよかだ。
こんなに綺麗な身体のどこを病魔が蝕んでいるというのだろうか。人形のように整った見目からは何も分からない。僕は、彼女のことを何も知らない。彼女のことを、知りたい。どうにかして、心を開いてほしい。
「あなたには、いないのですか」
「……何がです?」
「だから、あなたには心にきめた人がいないのですかと聞いているの!」
「……は?」
真っ赤な顔をした彼女が小鳥のように愛らしい口で叫んだ言葉に一瞬、耳を疑う。それは、僕に恋人や想い人がいないか、ということだろうか。
確かに王族には早くから決められた相手がいることも多い。兄様だってそうだ、昨年隣国の僕より年下の王女と結婚したのだ。けれど、僕にはそんな相手はいない。それどころか、あなたが初恋ですよ、と教えてあげたいぐらいだ。下僕にして、傍に置いてほしい。愛人でもいい、鳥のように彼女という檻の中で飼われたい。そう思ったのはあなただけなんですよ、と教えてあげたい。
「いないに決まっているではないですか、シンツィア?」
「……――――――っ!!!!???」
もう一度手の甲に、すらり長い指先に、折れそうなほど細い手首に、小鳥が啄ばむよりも優しく、風が花に触れるよりも柔らかい口づけを捧げる。
ちらりと顔を窺うと、湯気が出そうなほどに真っ赤になったシンツィア姫と目が合う。思ったよりもころころと表情を変える姫は、オペラホールで見せた陰のある大人の女性というよりはどうも年頃相応の娘のようだ。けれど、目が合うと怒ったように眉を吊り上げて僕を見下ろす。
「は、離しなさい!!」
「痛ぁっ!!」
今まで口づけていた手に思いっきり頬を抓られる。姫は―――どこか嬉しそうな、余裕のある涼しげな表情に変わっていた。頬の痛みとその表情に魅せられる。嗚呼、やはり思っていた通りの女性だ。僕の目に狂いはなかった。嗚呼、シンツィア姫、あなたの奴隷になりたい。
「……なんで嬉しそうな顔しているのよ、気持ちが悪い」
「い、いえ。……こほん、何のお話をしましょうか、この国の昔話などどうです?」
「まあ、どんなお話があるの? 聞かせて、サンドロ」
腰かけるとキラキラと輝く瞳を向けてくるシンツィアにサンドロは様々な話を聞かせた。そのうち、シンツィアの国に伝わるお話、お互いの国の話、学んだ天文学や神学書などの学術的な話、教養深く好奇心旺盛な二人の話はつきず、給仕が何度かお茶を換えに来るのに気を留めないほどだった。
やがて、紫陽花色の細い雲が橙色に照り映える空に長く尾を引くまで二人の話は続いた。
「もうこんなにも日が暮れてしまったのか」
ふと、窓の外を見やったサンドロは時間はずいぶんと早く流れるものだと驚いて目を瞬かせた。
「こんなに時の流れを早く感じたのは、初めてだわ」
「僕もです……こんなにも、名残惜しい時があるなんて」
既に陽は山の間に落ち、わずかに暖かみのある黄昏から零れおちた金色の光の粒を星々に託しながら、空に水彩の刷毛で掃いたように濃紺を織り交ぜて夜化粧を始める。
どちらともなく、唇を重ねる。触れるだけの、口づけ。それなのに、驚くほど柔らかなその感触と、骨の髄を溶かすような甘い痺れに、手と唇とではこんなにも違うものなのかと二人して頬を染め、うつむいてしまう。
もう一度、とシンツィアを見ると、咲き初めの薔薇のように頬を紅潮させた彼女は、サンドロの首に腕をまわすと、もう一度口づけた。透明な鎖が二人を繋ぐ。離れてもなお、触れていた処が身を焦がすような熱を持つ。口づけとは、こんなに心地良いものだったのか。サンドロはとろりと夢色に濁った彼女の瞳に、触れるだけの口づけをする。
「シンツィア、また逢いに来ます。明日も明後日も、ずっと」
「ええ、私、夢の中でもあなたを待つわ。絶対よ」
名残惜しげに絡んだ指先を解くと、部屋を出る。
バルコニーから見送る彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続けて、夜の帳が降りるのを馬車の中で見届ける。秋の空に浮かぶ太った三日月は真珠のように白く輝き、月を守るようにチカチカと瞬く星々は十字に光を放つ。まるで、夜空はこれからの僕らを祝福してくれているかのようにまぶしく夜空を照らしたいた。