2.逆行の渡り鳥
姫をオペラホールで見かけて数日、僕は大臣に聞いた城より北に位置する山の上の館へとやってきていた。この城にも近い高原地帯には、国内外問わず多くの貴族や富豪の別荘が点在しており、王家の別荘もある。だから、僕にとっては比較的馴染みのある場所だった。
山々は高く、空気は澄みわたり、野原を流れる水は清い。木々を渡る小鳥の囀りが辺りに心地よく響き渡る。
姫が滞在しているのはそれらの別荘の中でも屈指の大きさを誇る立派なものだった。姫の国は肥沃な大地と豊かな緑に加え、貿易で栄えて大きな財をなしている、と噂を耳にしたが、この屋敷を見る限りその噂は本当らしい。
それにしても、なぜあと一月もすれば霜が降り始めようというこの寒い土地に、南国育ちのお姫様がいくらも従者を連れずに今頃やってきたのだろう。
狼の顔を模ったドアノッカーを軽く叩くと、ややあって従者が現れる。あまりこの国では見かけない、南国らしい少し日に焼けた小麦色の肌の従者は先日オペラホールで姫に付き添っていた者だった。
「こんにちは、こちら第二王子のサンドロ様でございます。ここにシンツィア姫が滞在されているとのことですが、姫は今おられますか」
「はい。姫はいますが、お通しできるかは……。とりあえず、応接間でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
大臣、執事とともに応接間へと通される。吹き抜けの高い天井を立派な梁が渡り、金銀の装飾や鏡の少ない質素な造りの館だった。壁には漆喰が塗られ、花の彫刻が施された飴色の木が素朴ゆえに映える作りだった。
テーブルに並べられた郷土菓子らしい幾重にも重なった珍しいパイ菓子は、たっぷりとアーモンドクリームとカスタードが挟まれていて、軽い歯触りと豊かな食感を楽しませた。紅茶は姫の国で採れたものらしいが、水色も香りも薄く、姫とは違い華やかさに欠けるものだった。しかし、扉が開かれた瞬間サンドロにとってそんなことはどうでもよくなってしまった。
大きく開かれた扉から姿を現したのは、紛れもなくあの日オペラホールで見かけた少女――――――シンツィア姫だった。あの日とはまた打って変わったビロードのこっくりとした紅いドレスを纏った姫はそれはそれは美しかった。大きく開いた胸元に零れた巻き髪はカラスの濡れ羽のように黒く艶やかで麗しく、ドレスのウエストは締め上げられてはいないのに細く、たっぷりと寄せられたドレープが綺麗な光沢を作って床へと流れおちていた。
「わざわざおいでくださり、大変恐縮していますわ。貴国に滞在させていただきますこと光栄に存じております。」
そういうと、深ヶと姫がお辞儀をする。礼を示すその姿勢すらも美しい姫は、近くで見るとより高潔で毅然としている。
ぱちり、と視線がかち合う。大抵の人は僕と視線が合うと、ほほ笑んだり、媚た眼差しを向けてくる。しかし、姫のそれは違った。まるで、僕を人だとも思っていないかのような、いや、むしろ晩餐に出た付け合わせの芽キャベツを見るような、そんなどこか冷たい印象の眼差しを送ってきた。
その瞳に、ドキドキとして思わず人見知りの幼子のようにズボンの膝をきゅっと握りしめる。
――――そんな瞳で見つめられたら、危うくどうにかなってしまいそうだ。
「あの、今日はどうされたのでしょう。王子様が私に用などと―――」
「君を、一目見たときから話したいと思っていました」
「え……?」
「大臣、はずしてくれ」
「はっ」
一声、声をかけると僕の従者達が出て行って、大臣と何かを話すと一足遅れて彼女の従者たちも部屋を出て行った。
全員出て行ったのを確認すると、改めてシンツィア姫に向き直る。ソファに座るのも忘れて戸惑ったような表情を浮かべる少女の目の前に跪くと、桜色の丁寧に手入れされた爪が美しい手を取り、その甲にちゅっと軽く音を立ててキスをする。その瞬間、彼女の頬にさっと朱が差したのを僕は見逃さなかった。
「ずっと、話したいと思っていました」
「……私は別に、あなたと、誰とも話したくない。それは、あなたが誰であってもよ。貴国に滞在させてもらっているから礼ははらったけれど、それとこれとは話が別ですわ」
「何故です、心に決められたお相手でも?」
――――もし、そんな相手がいたとしてもかまわない。隣に立とうなんて思ってもいない、むしろ下僕になりたい。だって、あなたのように美しい人の傍にいるだけで僕は―――
「違いますわ、私……病気です」
「病気?」
「そう、空気の良いこの国に療養に来ましたの」
シンツィア姫の南国人らしくない青白い横顔が悲しげに歪む。
今度は、僕が驚く番だった。姫は南から療養のために、わざわざこの北へとやってきたのだった。




