1.シャンパン色の光の下で
あるところに、それはそれは綺麗な王子が居た。
柔らかな金髪はふわりと額を覆い、その前髪の下で瑠璃色に輝くサファイヤ色の瞳は希望に満ち溢れ、頬はいつも上気したような薔薇色の思春期を過ぎてもなおあどけなさを残した見目麗しい少年、サンドロ王子。それが彼だった。
雪深く冬の厳しいその国に、一輪だけ咲いた春の花のような皆からの憧れの的。
そんな美しい王子は、その身分ゆえ人には言えない悩みを抱えていた。
―――――誰かに支配されたい、僕は誰かの……従僕になりたい。
「サンドロ王子、こちらです」
オペラハウスの前に停められた馬車から降りると、夜露を孕んだ空気が頬を撫でて、身体の熱を奪っていく。頭上の星は僕の心を映したかのようにぼんやりと、星だから仕方がなくというふうに輝いている。
本当は、オペラハウスに来る予定だったのは兄様だ。でも、兄様は政務が立て込んでいて手が離せないらしい。王である父が臥せって半年、政務から外交からをすべて兄が行っている。もう、実質的には兄が王だった。だから、兄上に言われて代わりに僕が出席するのだ。王の命令は絶対だから。
でも、今日はオペラを観劇する気分じゃなかった。もともと、人前に出るを僕は好まない。そんなことは兄様だってよく知っているはずだ。それを裏付けるように、よくある兄弟間の王位を巡っての骨肉の争いなんて起こったことがない。それなのに、これも付き合いだから仕方がないらしい。
―――「雪原に咲く黄金の薔薇」なんて、男らしくないあだ名で呼ばれている僕は国民から慕われているらしい。王族で、少し容姿が良いというだけでどこへ行っても歓迎される。
この容姿を利用して兄様の外交の道具にされるなら、それもそれでどうでもよかった。けれど、道具にするなら手酷く扱ってもいい、最後まで傍に置いて支配してほしい。それが僕の願いだ。
オペラハウスに入ると、煌びやかなシャンパン色の光が降り注ぐ。城の中よりも派手な造りに、高い天井。階下では様々な色のドレスを着飾った婦人たちがひしめき合っている。
ゆったりとした王族席に通されて、肘掛椅子に座っても、なんとなく落ち着かない。兄様の命令だから、帰るわけにもいかない。ため息をついて周囲を見渡すと、ふと一段下がった隣のボックスの少女が目に入る。
気だるげに背もたれに身体を預け、赤ワインを片手に開始前の幕の下ろされた舞台を眺めている。年は同じくらいだろうか、藍黒色に白のレースがふんだんにあしらわれたドレスに身を包んだ、色白の少女。ドレスと同じ色のハットに飾られた深紅の薔薇と、燃えるような赤の口紅が目を引く。憂いを帯びて大人びた横顔と暗い色のブルネットからは知性が滲み出て、きりりとした眼差しからは意志の強さが感じられる。
僕は、一目で恋に落ちた。直感だった。息をするのが当然のように、彼女を好きになるのは僕にとって当然だった。
いや、恋とは違うかもしれない。僕は、彼女の―――下僕になりたいと思った。
「あの方は誰だ」
彼女の、意志の強そうな黒い瞳で睨まれたい。できない奴だと罵られてみたい。欲望が底無しに沸き上がって、落ち着きなく足が動く。
まずは、彼女のことを知りたい。優雅な仕草でグラスを傾ける彼女の喉が上下するのを尻目に、さも平静を装って、後ろに佇む大臣に尋ねる。
「あの方でございますか? 南の国よりお出でのシンツィア姫ではないでしょうか」
「……シンツィア姫。なんと、美しい」
「御取り継ぎしましょうか」
「ああ、頼む。今週末の舞踏会にでもお誘いしてくれ」
大臣が出ていく間も、じっと彼女を見つめる。ああ、どんな声をしているのだろう、笑うとどんな顔をするのだろう。彼女のボックスに大臣が現れて、彼女の侍女と話をする。侍女が彼女に取り次いで……彼女がちらりとこちらを見る。
どこか猫を思わせるアーモンド型の漆黒の瞳に見つめられる。濡れたように艶めく瞳はどこか冷たく、まるで電流が走ったように僕の衝動を掻き立てる。
―――――嗚呼、もっとその冷たい瞳で見てほしい。
そう思ったものの虚しく、ついとすぐに視線をそらされてしまった。興味がなさそうな横顔は、また幕の下ろされている舞台へと戻されてしまう。
「サンドロ王子」
「どうだった?」
「はい。シンツィア姫ですが今回のお誘いは辞退される、と」
「……」
「サンドロ王子?」
「いや、いい。またの機会に誘うとしよう。滞在先は?」
「はっ。お調べしておきます」
トランペットが鳴り響き、オペラが始まってもなお、シンツィア姫から目を逸らすことはできなかった。僕は心の中で呟いた。――――――シンツィア姫、あなたは何と罪作りな姫なのだ。
シャンパン色の光の雫に満たされたオペラホールは楽器と麗しい歌声と相まって、まるで本物のシャンパンのように観客たちを酔わせていく。濃紺のカーテンが引かれた夜空まで響く姫が王子に捧げる切ない恋を歌う声は、王子が想う姫の心にも届いたのだろうか。それは、夜空に浮かぶ三日月のみが知ることだった。