第三章 孤独/その名は 3
「っ!?」
展開されていた術式が内側から破壊されていくのを、楓は感じ取った。呪術が破られようとしているのではない。術を発動している術式そのものが破壊されているのだ。加えて呪術そのものも弱りだしている。徐々に五芒星の光がひび割れていき、閉じ込められていた業火と霊気が外へと漏れ出し始めていた。あの中には今、夜鷹と猫又がいる。猫又の霊気と「瘴気」を引き剥がし、「瘴気」だけを焼き尽くすというのは途方もない緻密な集中力が必要だ。そのため、一度崩れ出したらもう修復することが難しい。そして、それが今起き始めた。
「まだですかっ! 不肖の弟子!」
あの炎の中に無謀ながらも飛び込んでいった弟子を思う。馬鹿だが、才能がないが、気力や目的意識だけはほかの陰陽師にも引けを取らない物をもっている。きちんと育てさえすれば、いずれは立派な陰陽師になれる素材だ。しかし、ここで死んでしまっては意味はない。自分が怒ったことも、流した汗も血も、教えたことも、こうやって頑張っていることも意味がなくなる。意味がなくなるのだ。だから、楓は祈る。帰ってこい、と。あの女をものにし、無事に帰還して来い、と。
しかし、彼が帰ってくるよりも早く、術のほうが限界を迎えてしまった。抑え込まれていた霊気の奔流が一気に外へと飛び出し、行き場をなくした業火が静かにその身を鎮めていく。発生した術式崩壊の余波が、衝撃波となり楓の身体を打ち据える。
「くっ…………まさかっ!?」
両足でふんばり、衝撃に耐える中で楓はある事に気付いた。「瘴気」がまだ残っている。
プロとして、認識してからそれに対する対応は迅速であるべき、だと楓は夜鷹に指導している。あらゆる場面において、それをいち早く認識し、それに対する術を講じることが生存確率と修祓成功確率を上げる第一歩だと教えてきた。楓も実戦で鍛え上げた勘と技術を駆使することで、今まで陣内の供として一緒に幾つもの任務をこなしてきた。自負はある。だからこそ、驚愕した。反応が遅れたのだ。
気づいたときには既に背後を取られていた。今までのスピードよりも段違いに速かった。目で追うどころか、背後を迫られるまで「瘴気」の反応を感じ取ることすらできなかった。
そこにいたのは、黒い何か、だった。体長は先の猫又と同じぐらいだが纏う「瘴気」の量は半端なものではない。いや、これは魂すべてが、あれを構成しているのが「瘴気」のみだと言わんばかりの質と量だ。少し見上げたところにある紅の双眸が、楓を睥睨するように見下げている。目が合った。その瞬間、楓の身体は金縛りにあったかのように動かなくなってしまった。
(まさか、不動明王の金縛り……? でも、そんな馬鹿な!)
動けないことも相まって、どうしようもない焦燥感だけが降り積もっていく。これはなんだ。この化け物は、先の猫又とも、いや「霊的存在」のどれとも違う。楓も見たことのない異質な存在だった。押し潰されるような感覚とその場に縛り付けられる感覚が同時に襲ってくる。まるで上と下から一緒にプレスされているようで、今にも身体が音を立ててひしゃげてしまいそうだった。
霊気すら抑えられてしまう。呪術も発動できない。対抗手段を講じることが出来ない。ならば、こういう時どうするのか。夜鷹にはどう教えていたか。
黒い何かが、前肢らしきものを振り上げた。そこには何の感情も、意味もない。無情のまま、前肢を横へ薙ぐように振りぬいた。
「なるほど、これは面白いものが見れた」
言葉聞こえたかと思うと、楓の身体が前触れもなくふわりと浮きあがり、数十メートル横へと吹き飛ばされた。それが誰かに投げ飛ばされたのだと気付くまで、少々時間を有した。
「にしても、大きい。そして、黒い。「瘴気」の塊みたいだが…………黒いな」
黒い以外に感想がないのか、夜鷹はしきりに顎を触っていた。
「……成功したのですね」
夜鷹を見て、楓が安堵の表情を浮かべた。「ええ、ばっちり」と親指を上げサムズアップを決めた夜鷹の表情は、普段の彼からは想像もつかないほど落ち着いたものだった。
『魂の憑依』が成功したのだ。『魂の憑依』は自身の魂に相手の魂を憑依させるので、一時的に相手と魂が融合した状態に近いものになる。そのため夜鷹はこの術を使うと、自身の性格が憑依させたものによって変わってしまうことがあった。彼のあの余裕然とした表情は、憑依させたあの女(楓は知らぬことだが、名は菊音)の性格の一部がにじみ出ているせいなのだろう。夜鷹の顔でそれをされると無性に腹が立つのだが、それはこの際黙っておくことにした。
しかし、紙一重だった。あの一歩でも遅かったら、楓は無残な姿となって地に伏していたことであろう。教え通り、対抗手段がない時は味方を頼れ、を実行してくれたのは素直に感謝しなければならないところだ。
「楓さんは、あれは」
「推測の域を出ませんが、恐らくは切り離された「瘴気」だけで構成された一種の「霊的存在」だと思われます」
要するに、人や「霊的存在」は霊気がその魂を構成しているのだが、目の前にいるこれはそれを「瘴気」だけで成している。聞いたこともなかった。「瘴気」は魂が起こすいわば拒絶反応で、陰と陽の二つの霊気に魂が耐えられなくなったことで自然発生するものである。それ自体が意思を持って現れるなどということはない。ない、はずだと思っていた。ならば、あの化け物はどう説明する。あれこそ、「瘴気」が自然に発生するものではなく、何らかの存在によって生み出されるものだという、確たる証拠なのではないのか。そして、それらが意味するものは――――――
(つまり「瘴気」というものは……)
そう考えて、楓は頭を軽く振った。突拍子すぎる、あり得ない。自身が導き出そうとした結論が楓は怖くなり、切り捨てるようにそれを思考を渦へと置き去りにする。そうでもしなければ、戦意を喪失しかねなかった。しかし、楓は人ではない、絡繰りだ。生憎といっていいのか思考の切り替えは得意な方だった。
「あれが何なのかは私にも、わかりません。ですが、あれが私たちの敵だということだけははっきりとしています。ならば、やることはただ一つ」
「当然」
楓の言葉に、夜鷹は応える。不気味にこちらを伺っているそれに対し、夜鷹も鋭き目つきで睨み返した。恐怖は感じない。感じるのは胸の高ぶりだけだ。どうしようもなく、面白そうなものが目の前にある喜びだけが、夜鷹の胸の内を支配していく。菊音の感情だ。これから訪れるであろう、戦いを予感し、武者震いのように全身を震わせた。折れている左腕をさすりながら、夜鷹は大きく息を吸い込み、吐き出した。高鳴る鼓動を静まらせるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
刺激とは、幸福。
恐怖とは、刺激。
戦いとは、恐怖。
『さあ、妾を魅せてみよ』
合図はなかった。どちらからともなく、霊気と瘴気が迸った。先に動いたのは、敵だった。動きは変化した菊音よりも速いが、行動パターンとその種類は同じ。冷静に対処すれば、避けることは容易い。
紅い双眸と夜鷹の視線が重なる。直後、身体が金縛りにあった。不動明王の金縛り、そう呼ばれる呪術だ。練度も高い。なまじ一端の陰陽師のそれよりも、遥に強力で鮮やかな術式展開だ。一瞬だが、魂が同化している菊音や楓すらも感嘆するものだった。夜鷹も目を見張って、驚愕の表情を浮かべた。
「真言もなしで、これかよっ!」
毒づき、すぐに対処に移る。『魂の憑依』を発動させている状態は、陰陽師が式神を召喚し使役している状態と似ている。要は魂が別々なのか、一緒なのかという違いしかない。つまり、彼の中には陰と陽の霊気があるということでもある。
これならば、略符がなくとも術を行使できる。
「火よ!」
言葉に霊気を乗せる言霊。世界に語り掛け、それから恩恵を受ける呪術の一つ。菊音が変化した状態で使用したものでもある、それを夜鷹は短く簡潔に発動させた。
言霊が伝え、生み出されるのは一匹の龍。火の龍だ。霊気によって生み出された炎の化身が、煌々たる灼熱を纏いうねりを打つ。そして、主を守るべく獰猛な双眸を光らせる敵に向かって、その火炎の牙を突き立てた。
「そのまま焼き払え」
再び言霊が発せられ、龍が命じられるがままにその身に宿る炎をさらに燃え上がらせた。凄まじい霊気の熱波が、周囲一帯を焦げつくさんとしていた。その余波で近くにいた夜鷹も、その黒髪の先端に小さな閃光を灯らせてしまっている。焦げくさい臭いがグラウンドいっぱいに広がっていく。真夏の太陽の下、灼熱地獄の絵図さながらの光景だった。
「これほどまでとは……」
一方で楓は渋面で、局面を見定めようとしていた。何しろ、自分の出る幕がないのだ。今や夜鷹の霊気がは質も量も、別人のようになっている。先まで枯渇し、不足していた霊気が回復しただけではない。元々持っていた霊気の倍以上のものが今の夜鷹の身体には宿っている。『魂の憑依』とはまさに、そういう術なのだと楓は改めて思い知らされた。たかが知れた凡才を、一時ながら非凡な者に仕立てあげるのは並大抵のものではない。夜鷹は才能がないのだと自分を評価していた。一つの事実として、彼にある陰陽師としての才能は確かに小さきものだ。だが、楓は思う。彼の才は呪術ではなく、『魂の憑依』にだけ注ぎ込まれているのではないかと。もしも、才能というものが生まれる前に、適当に振り分けられるものであるなら、彼はその才能のすべてを魂の呪術を操るためだけに与えられたではないかと。ならば、彼もまた一種の天才なのではなかろうか。
思考の果てに次々と生まれる考察群が、脳裏に幾重にも浮かび上がる。なるほど、ではその才能を存分に発揮してくれることを祈ろう。敵が何であれ、「瘴気」である以上祓う方法はいつもと変わらない。今の夜鷹ならば、恐らく十分にやれるはずだ。だからこそと、楓はその目を閉じた。一人戦いの中から身を遠ざけ、思考の海へと潜り始める。勝利への布石は、既に打たれていた。
「ちぃ、すばしっこいやつだな!」
『妾より速いとは、ちと妬けるのう』
「火龍じゃ、あいつの動きにはついていけねえ」
『ならば、妾たちがその動きを止めればよい』
タイムラグなしで瞬間的に交わされる会話は、もはや思念そのものが通じているためにすべてを説明しなくとも相手の意図が否応なく伝わってくる。無論、菊音の言う動きを止める方法も、夜鷹は心得ていた。
「五行の理を以て、命ずる」
略符なしでの五行相生の呪術を使うのはこれが初めてだった。そのため使える呪術は一つもない。式神を持っていなかった夜鷹には、まだその修行が科されてなかったのだ。だが、この際適当でもいい。見様見真似でやれば、何かしらの術を生み出すことは可能なのだ。たとえ、それが珍妙な術だって構わない。敵の注意を一瞬だけ逸らせれば、上出来だ。
思いだせ。楓や陣内が術を使う瞬間を、姿を、言葉を。
「聖なる水の奔流よ、悪鬼なる魂を祓わんがため、その力顕現させよ! 急急如律令!」
うろ覚えで、しかも途中からなんとなくで言葉を発したため、きちんと呪術が発動するか心配だった。そして、そんな心配が見事的中したのか、数秒経っても一向に術が発動する兆しが見えてこなかった。
『…………まさか、失敗かのう?』
「…………に、人間だれしも失敗はあるんだよ!」
顔を赤らめながら、夜鷹がそう言った時だった。異変が起きた。夜鷹から、途轍もない霊気が噴き出しはじめたのだ。これには、当人もびっくり仰天だった。そして、それが遅まきながらも行使された術と知ったのは、そのすぐあとだった。
天から水が降ってきた。雨ではない。今まで雲一つなかった快晴だったのだ、雨はありえない。では、何か。
ぞわり、とした感覚が夜鷹を襲う。巨大な、巨大な霊気が天空に発生したのに気付いたのだ。
『まさか、おぬし!?』
菊音が仰天し、声を荒らげた。
夜鷹の放った呪術はまさに天からの一撃だった。超巨大な水柱が、天空を切り裂き地上へと一直線に屹立していた。その中央には、夜鷹が狙いを定めた敵がいる。あり得ないほどの莫大な霊気の矢がその身と地面を貫いていたのだ。
「どんなもんだ」
半ばやけくそ気味に胸を張る夜鷹だったが、これはあまりにも過剰すぎる。威力を抑えなかったせいで、周囲への影響が甚大だった。
『馬鹿だということだけは、わかったぞ』
霊気の質や量が跳ね上がったとはいえ、その霊気を操るのは夜鷹には変わりなく、彼には呪術の才能がない。威力の制御が苦手なのだ。そのため、先の一撃は今の状態で撃ちだせる最大出力だったといえる。自分のこととはいえ、夜鷹もこれには少しだけ顔をひきつらせた。底が知れないというのは、自分でも恐ろしいものだった。
だがしかし、これはある意味僥倖だ。チャンスだった。
「火よ!」
もう一度、火の龍がうねる。夜鷹の一撃で動きを止めている今がチャンスだ。龍の咢が敵の胴らしきものを捉え、噛み砕こうと力を込めた。同時に牙から炎が吹き荒れ、その身を焼き尽くさんとする。
誰もが勝利を確信した。夜鷹がため息をつき、その肩から力を抜いた。だが、気づいてはいなかった。あれが単に菊音の姿を模倣しただけの存在ならば確かにこれで終わりであろう。一度、その牙に獲物を捉えたあの龍はその対象が消し炭になるまでその攻撃を止めることはないからだ。だが、もしもあれが菊音の魂そのものから生まれた存在であるならば、彼女の能力を使えたとしても何らおかしいことはないのではなかろうか。
「――――――っ!?」
背後に、それはいた。真っ赤に光る二つ眸。それがこちらの動きを興味深く、観察するように真っ直ぐな視線を夜鷹に向けていた。
目が合ってしまった。それも至近距離で、だ。
途端、身体の自由が奪われ、金縛りが夜鷹を襲う。先のよりも強力だ。何かに縛り付けられる感覚と上から押さえつけられるような感覚が、同時に全身へと伝わる。何かに押し潰されているようだった。抵抗ができなかった。『魂の憑依』は絶大な力を有している反面、使えば強力な副作用がある。体力を著しく消耗するのもその一つで、術を長く使えば使うほど体力が削られていき、疲労が蓄積されていく。さらには魂を同化させているため、長時間使用し続けていれば、魂の同化が解けなくなってしまう。今はまだ、魂の境界線がはっきりとしているが、そのうち夜鷹と菊音の意識も混ざり合って、どちらでもない誰かが出来上がってしまうだろう。そのため、夜鷹は陣内からこの術をむやみやたらに使うなと釘を刺されていた。使うのであれば、場合にもよるが五分が目安だとも言っていた。
そして、運が悪いことに今このタイミングで夜鷹の身体にその副作用の効果が現れ始めていた。
(ちっ! いつもよりも消耗が激しすぎる!)
まだ五分も経っていない。それにもかかわらず、なぜ副作用の効果が現れ出したのか。夜鷹が思い当たるのは、「自身の霊気の枯渇」と「体力の消耗」だ。既に霊気、体力ともに限界に近づいていた状態での『魂の憑依』だったがために、いつもよりも活動限界に入るのが早かったのかもしれない。
夜鷹は思わず歯が欠けるほどに強く歯噛みした。こんな時にも、自分は役に立たないのか。最終手段を使ってでさえ、自分は何もできないのか。そんな忸怩たる思いがこみ上げてくる。
夜鷹を縛る圧力がさらに増した。今にも身体が潰れてしまいそうだ。
『くくっ……ここまでかのう』
「くそ……っ!」
力がわいてこない。『魂の憑依』による恩恵が、徐々に失われようとしている。自分にかけられた封印が、夜鷹の力を再び封じ込めようとその術式を体中に巡らせていく。左腕の痛みが再びきりきりとした声を上げた。顔が思わず、引きつる。
悪運尽きたか、と夜鷹はその瞼をそっとおろした。諦めていた。楓が何とかしてくれる。そうも思ったが恐らく間に合わない。呪術を発動するような暇はないし、ましてやこの相手を一撃で吹き飛ばせるほどの威力をもった呪術などそうはないだろう。その二つの性質を併せ持った術を、もしも楓が行使すれば助かるかもしれなかった。だが、夜鷹の「見鬼」は皮肉にも彼女の霊気を感知はしていなかった。
終わった。そう心で呟いたとき、不意に頬のあたりを何かがかすめていった。攻撃が外れたかとも思ったが、違う。これは後ろから来た。ならば、それは敵の攻撃ではない。それは――――――
「プロたるもの、常に冷静な状況判断を下すべし。諦めるには、まだ早いですよ」
「楓さん……!」
「言ったでしょう。周りを意識しろ、と。仲間の行動にぐらい注意を払っておくべきですね。減点対象。それに自分が貰った呪具の存在も忘れてるようで……これだから馬鹿は困ります」
またしても毒を吐かれた。
彼女の手に握られていたのは、白銀の二丁拳銃「白連装」だった。術式の展開速度が速く、かつ強力な一撃を放つことが出来る呪具。すっかり忘れていた。
「しかし」
と楓はため息交じりに言った。「不肖の弟子がここまで不甲斐ないとは。正直、がっかりでした」辛辣で率直な感想に、夜鷹はぐうの音も出なかった。概ねその通りなのである。
「まぁ、貴方が不甲斐ないのは今に始まったことではありませんので気にはしません。それよりも、あの化け物を早く修祓しましょう。そろそろ主もつく頃です。彼の手を煩わせたくありません」
「でも、俺……もう霊気が」
「大丈夫です。秘策があります」
そう言って楓が取り出したのは、一つの小瓶だった。何重にも施してある蓋の封を解除していき、楓はその中にあるものを一粒だけ取り出した。黒い丸薬である。
「これは貴方の『魂の憑依』に対する封印を一時的に、解くことができる丸薬です」
「一時的に?」
「そうです。まぁ、なるべく使いたくなかったですが、緊急事態です。特別に許可します」
取り出された黒い丸薬が、夜鷹の掌に乗せられる。
「ですが、ほんの一時だけです。効果が持続するのは十秒だと思ってください」
短い、と夜鷹は思った。さすがにそれは短すぎる。それでは術の一つも使えないではないか。白連装とて、数発撃つだけで時間切れになってしまう。そんな時間でどうしろというのだ。夜鷹は、苛立ち交じりに顔を歪める。
「まぁ、あれの動きは私が止めますから、貴方はそのタイミングを見計らってその丸薬を飲み、思いっきりその銃でぶちかましてください」
いとも簡単そうに述べているが、実のところこれは難しい。この作戦、まず楓があの化け物の動きを止めることが出来るということ前提で話が進んでいる。あの化け物のスピードはいささか舌を巻くほどのものだ。楓がいかに陰陽師として優れていようとも、あれをどうにか出来るとは到底思えなかった。何か策があってのことなのだろうが、果たしてうまくいくのであろうか。
夜鷹の不安はそこだけではない。丸薬を飲むタイミングもまた、この作戦が成功するか否かの岐路ある。タイミングを間違えれば、時間切れでとどめを刺せずに終わるのだ。それを意識すると、自然と両肩に重いものが圧し掛かってきたような気がした。
「では、これでほんとの最後にしましょう」
楓が駆けだしたのを見て、夜鷹は掌に乗る丸薬をきつく握りしめた。後ろでは薄い陽炎のような影が、そんな夜鷹を見守るようにして立っていた。
* * *
「毘羯羅大将、招杜羅大将、真達羅大将、卯神摩虎羅大将、波夷羅大将、因達羅大将、珊底羅大将、あにら大将、安底羅大将、迷企羅大将、伐折羅大将、宮毘羅大将――――――急急如律令」
仏教における天部の神々であり、護法善神でもある十二神将。十二神将は、それぞれ昼夜の十二の時と十二の月、十二の方角を守護するとされている。
呪法結界。そう呼ばれる術式を、今まさに楓は展開せんとしていた。しかし、この術、発動するためにはいささか時間がかかる。先の戦闘の最中、楓が介入しなかったのはこの下準備をしていたがためだ。
正直、あの素早い動きは楓でも真面にやりあったら勝ち目はない。だから、少しばかり姑息な手段を講じることにした。その手段というのが、呪法結界だ。そもそもこの結界は、菊音を修祓するために前もって楓が準備をしていたものだった。本来膨大な時間を浪費しなければならない大呪法にもかかわらず、このような短時間で発動できるのはそのためだ。この呪法は莫大な霊気の消費と引き換えに、その威力と効果範囲は抜群である。今、楓が発動しているものだって学校の敷地を優に覆うほどの巨大なものだった。これだけ大きな結界ならば、相手の動きに翻弄されていようがいまいが、関係なく結界に閉じ込めることが出来る。楓の狙いはそこだった。
だが、これだけで終わりではない。まだ、これでは足りない。
「前一騰蛇火神家在巳主驚恐怖畏凶将、前二朱雀火神家在午主口舌懸官凶将、前三六合木神家在卯主陰私和合吉将、前四勾陳土神家在辰主戦闘諍訟凶将、前五青竜木神家在寅主銭財慶賀吉将、天一貴人上神家在丑主福徳之神吉将大无成、後一天后水神家在亥主後宮婦女吉将、後二大陰金神家在酉主弊匿隠蔵吉将、後三玄武水神家在子主亡遺盗賊凶将、後四大裳土神家在未主冠帯衣服吉将、後五白虎金神家在申主疾病喪凶将、後六天空土神家在戌主欺殆不信凶将――――――――――急急如律令!」
かの阿部清明が残した占事略决の第四章「十二将所主法第四」に書かれている十二天将。陰陽五行説に当てはめられる、十二の神。それらがもたらすは術は、五行相生。その威力たるや凄まじい。荒れ狂う霊気の渦が楓を中心として吹き荒れていた。
「どうですか。私の術は、動けないでしょう?」
冷笑を浮かべ、見下ろすような形でそれを見る。つい数分前まで楓と夜鷹を追い詰めたあの化け物の姿は今や、ここにはなかった。この結界はそもそも対霊獣戦を想定してつくられた結界であり、「瘴気」を祓うために使用される対霊獣用呪法結界なのである。「瘴気」の塊であるそれには、いささか部の悪いものであった。それに加え、結界を発動するよりも前にばら撒いておいた水行と木行を混ぜて作ったオリジナルの捕縛呪術によって身動きを制限されているため、余計にその動きを止められていた。
それを見ていた夜鷹はもう自分は何もしなくともいいのではないかと思い始めてきていた。彼女魂胆としては「貴重な実戦だから、なるべく夜鷹に戦わせたい」なのだろうが、こちらはそもそも霊気も底をついていて、重傷を負っている身なのだ。病み上がりで、本調子ではないことも含めて色々と勘弁してほしいところであった。
『まあ、これも修行じゃと思えば、おぬしも少しは得した気分になれるじゃろうて』
呑気に後ろで空を仰いでいる菊音は、もはや楓の勝利を疑ってはいない声音でそう言った。無責任な、と夜鷹は言い返したが菊音はやはり何食わぬ顔で流していた。
再び、楓に意識を戻す。もはや完全に決着がついてしまっているようにも思えるが、楓曰く「不肖の弟子がやることに意味がある」らしい。わざわざ禁忌の呪術の封印を解く秘薬まで持ってきたところ悪いが、本当に意味が分からない。これも修行の一環と言われればそれまでだが、何か納得がいかなかった。今更、師匠との技量の差を見せつけられても、余計に落ち込むだけなのだ。やめてほしい。
もはや先ほどまでの緊迫した状況など微塵もなかった。忘れていた。そもそも楓が本気になれば、あの程度の「霊的存在」は敵ではなかったのだ。今回は夜鷹の我儘があったから支援に徹していたのであって、彼女の本来の戦闘スタイルは敵を真正面から力でねじ伏せていくものだ。冷静沈着でありながら、魂の本質は炎のようで、一度燃えだしたらそれをすべて燃やし尽すまで、消えることはない。まさに、情熱家といえる。しかし、その反面冷えるときにはとことん冷えるため、注意が必要なのだが。
「とんだ茶番だな」
『妾としては、その茶番に感謝しなければならぬところだ。なにせ、下手したらあの娘っ子に祓われていたかもしれぬからのう。危ない危ない』
「元はと言えば、お前が事をややこしくしたんだろうが」
『あれは、出来心、というやつじゃ』
悪びれもせず、菊音は言った。年の功というべきか、話の流し方が夜鷹よりも各段にうまい。もともと話し上手ではない夜鷹には、彼女の相手をするのはいささかきついものがあった。
霊気が爆発的に増した。楓が術を発動したのだ。単純な五行相生よりも数段難易度が高い十二天将による五行相生。それが楓の命により、彼女の前に伏せるそれとへとむかい放たれた。渦は暴力となり、実体を持たぬ体を次々に屠っていく。徐々に形を維持できなくなってきた「瘴気」が、その輪郭をぐにゃりと曲げゆらゆらと煙のように宙を漂い始めた。もうああなれば、「瘴気」といえど祓われたも同然だ。
しかし、楓はとどめを刺さない。その役目は夜鷹にあると言いたげに、こちらへと視線を向けた。
『ほら、出番ぞ』
菊音に背を押され、しぶしぶ歩きはじめる夜鷹。その手の中には丸薬がきっちりと握りしめられている。
『そう言う顔をするな。そもそもあれは妾の魂から出来た、いわば妾の現身的存在。ならば、今や妾の主たるおぬしがとどめを刺すのは、案外当然たることかもしれぬ』
菊音の顔にある種の感慨が浮かんだ。一体彼女は今、どんな思いでここにいるのだろうか。この短時間の間で、彼女の歩む道というのは大きく軌道を変えた。一介の霊的存在にすぎなかった彼女が、現在では夜鷹の式神だ。至極当然のことながら、その二つが進むであろう将来はまったく別の方向に伸びている。逆方向といっても過言ではない。それは夜鷹が半ば強制的に修正した道だ。淡海夜鷹が陰陽師としての道を歩きたいがために、矯正させた歩みなのである。果たして、彼女はどういう面持ちで今この場に臨んでいるのだろう。怨みか、憎しみか、あるいは諦観か。
『妾はこれでよいと思うとる』
不意に菊音が言葉を垂らした。
『妾は何百年と孤独の中で生きておった。誰とも一緒にならず、つるまずに、一人で生きておったのじゃ。本音を言えば寂しかったのかもしれぬ。おぬしに言われるまで自覚しておらんかったがのう』
「何が言いたい」
『要するにじゃ。これからも頼むぞ、我が主殿』
彼女の顔を見上げた。そこには笑顔があった。怨みや憎しみではない。期待と喜びに塗れた、笑顔があった。なんてことはなかった。彼女はとっくに肝を据えていたのだ。ずっと一人で生きてきた彼女にとってみれば、夜鷹とともに歩むこの先の道は未知のものであろう。だが、彼女にとってみればそれもまた一興。面白きもの、なのだ。
夜鷹はごちゃごちゃ考えるのをやめた。馬鹿らしくなった。自分から言ったのだ、「自己満足のためにお前を式神にする」と。ならば、彼女の感情など関係ない。自分がよいと思えば、それは良いことなのだ。
『よいよい、それでよい。妾はおぬしのそういうところに惚れたのじゃ』
着物の袖で口元を隠し、気品ある笑い声を上げる。その仕草に、前に感じた芝居臭さはなかった。
『では、初仕事……というには、いささか事があった後じゃが、まぁよい。仕切りなおして、今一度初めての共同作業といこうかのう』
「色々と語弊があるぞ」
『計算通りじゃ』
声を弾ませて、軽快に笑った。それはどことなく笑いを堪えているように見える。次なる楽しみを見つけ出したのかもしれなかった。
「では、手筈通りに」
近くまで来ると、楓が涼しげな顔でそう言った。まるでストレスの権化を断ち切ったような顔つきだった。
楓に言われ、握っていた丸薬を口の中に放り込んだ。奥歯でしっかりと噛みしめ、一気に砕いた。がりっ、という音が響き、丸薬に込められていた術式が解放された。夜鷹の施されたいくつかの封印の内、一つに強引に別の術式を上書きしていく。
――――――限定的な、封印の解除。
力が溢れてくるのがわかる。『魂の憑依』が発動し、菊音の魂がこちらに入ってくるのがわかった。霊気が満ちていく。
「終わらせよう」
ホルスターから白連装を引き抜き、狙いを定める。
『妾はもう孤独ではない。こやつがおる。だから、おぬしもまた必要ではない』
菊音にとって「瘴気」とは、何百年と生きてきて唯一孤独を埋めることが出来たものだった。「瘴気」に侵された時だけ、孤独も何も忘れることができた。面白いもの、楽しいものを求めたのもまた孤独を感じることが怖かったからだ。だが、これからもうそれもいらない。夜鷹がいる。自分は孤独ではない。故に「瘴気」はもう、必要ではなかった。
これから踏み出そうとしている新しい道の上に、それは不要だ。過去と決別し、新しい自分になるために。猫又と呼ばれる恐れられた自分から夜鷹の式神『菊音』となるために。
「『術式展開――――――――――術式・全解放ッ!』」
菊音は今、夜鷹ともにその引き金を引く。