第五章 霊槍と鬼 2
千布将人は九州の片田舎で江戸時代以前から続く旧家、千布家の次男として生を受けた。未熟児だったが、その後は何の問題もなくすこやかに育っていった。小学生になるころには将人は近所でも有名なやんちゃ坊主になっていた。毎日、泥だらけになるまで遊び、悪戯の限りを尽くしていたのだ。
そんなある日、夜中に目覚めた将人はトイレに行くため居間の前を通りかかった。そこである会話が聞こえてきた。
「将人は……あの子は、一体いつになったらあの力に目覚めるのでしょうか」
母の声だった。その声色が若干、失望の色を含んでいた。
「焦んな。幸いなことに、まだあやつの代の分の呪いは出ておらんけんな。それに、豊には厳重に術を施しとう。発症そのものは防ぎようのなかけど、時間稼ぎにはなる」
次に聞こえたのは祖父の声。その声は母とは対照的に、まだ希望の色を残していた。ゆったりとして、落ち着き払われているその言葉には確かな重みがあった。子供ながら、この会話が意図するものの重大さだけは理解することが出来た。そして、そこに自分が関係するということも察することが出来た。
彼らは自分の何かが目覚めることを望んでいる。それがどういったものなのかはわからない。だが、それには姉が関係しているという。姉、千布豊の名を祖父は語った。自分の何かと、姉にどういう因果関係があるのかは知らないが、姉が絡んでいるとなれば将人にとっては一大事だ。翌日、すぐに豊のところへ行って祖父と母の会話について聞いてみた。
「はは、将人にはまだ早いかな。将人が中学生になったら、わかるかも」
そう言って豊は誤魔化した。微笑み、頭をぐしゃぐしゃと強引に撫でられた。誤魔化されたことは不満だったが、姉がそういうのならと将人はそれ以上言及はしなかった。
将人は姉が大好きだった。優しくて、強くて、頭も良くて、人気者で。彼女は将人にとって尊敬するべき人物だった。目標だった。彼女のためならなんでもする覚悟だった。虚言ではない。事実、豊の頼みを生まれてこの方断ったことがなかった。千布のやんちゃ坊主も姉だけには逆らえない。その光景は姉弟というよりも、主と従者に近かった。そんな姉弟関係は将人が中学に入学しても変わらなかった。
ただ、一つだけ変わったことがあった。
「姉ちゃん、どがんね? 体の方は」
「はは、なんばいいよっと。大丈夫だよ、元気元気ですよ。いや、逆に元気が有り余ってるぐらい」
豊は心配そうにこちらを見る将人に、気丈に笑ってみせた。とても病人とは思えない力強い笑みだった。
姉の容体が急変したのは今から一年前、将人が中学二年の頃だ。豊は謎の病魔に侵されていた。肉体ではない、霊的な病症。いわゆる、霊障である。霊体が瘴気に中てられることで起こる、魂の病。一般の医療では治すことができなかった。
彼女の霊障はゆっくりと進行していった。最初の内は身体には何の影響もなかった。普通に出歩けたりもした。突然発作のようなことが起きることもあったが、そのたびに祖父が何らかの治療を施してくれていたようだ。その度に姉はばつの悪そうな顔をしていた。
そんな彼女も、ここ最近では寝たきりの生活が続いていた。理由は霊体の浸食率が五分の一を超えたのだ。人体の五分の一を瘴気に侵されたことで、足が動かなくなり一人ではまともに歩くことすらできなくなっていた。気分もあまり優れないことが多い。日々の鍛練で鍛えた肉体も、目に見えて衰えていった。あの美しかった槍の乱舞も、今では見れまい。
それでも姉は将人の前では気丈に振る舞い続けた。それが無理をしてのことだと将人にもわかっていた。だが、豊は将人の前では決して弱音を吐かず、ポジティブに物事を考えようとしていた。
「姉たるもの、常に弟の前に立って道標になるべし」
豊はそういう心情の持ち主だった。姉としての矜持が、最後の最後まで彼女に強がりをさせたのだ。
将人はそんな彼女が大好きだった。尊敬した。姉のようになりたい。その一心で、祖父の稽古を受けた。姉のような才能はない。姉のようにいつも笑っていられるわけではない。彼女のように強くはない。
だから、努力した。人一倍努力して、学んで、稽古に勤しんだ。姉を見舞って、姉の世話をして、他愛もない話をする。意地悪く笑う姉に、照れくさそうに笑う弟。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに。ずっとずっと、続けばいいのに――――――そう思っていた。
終わりは唐突にやってきた。何の前触れもなく、ただ忽然と定められた運命のようにそれはやってきた。
「やはり人間は愚かだ。故に制裁を下したの。人間風情が、図に乗った天罰よ」
今でも忘れないあの光景を。
あの背後で揺れ動く二対の尾を。
嗜虐的な笑みを彼女を顔で浮かべるその魂を。
「忘れん…………お前だけは絶対に殺してやるけんな」
千布将人は胸に刻み込む。
* * *
自分の中で膨れ上がる何かを感じた。熱くて、熱くてたまらない。身体の内側が沸騰するように、熱を帯びている。気付けば、後ろの二人の静止も聞かず、玄関先へと飛び出していた。靴も何も履かずに裸足のまま、将人は意味も分からずただ己の直感のみに従った。
行かねばならない。誰かが自分を待っている。来てくれと呼んでいるような気がした。
まるでその声に導かれるように将人は駆けだした。この先に何かがある。自分の中にあるこの膨張する熱の正体がある。そう思った。勘にも等しいその理解の過程には、一種の予感めいたものがあった。恐らく、この先にある何かとは自分がここ数日探し求めていたものだという予感だ。確信があるわけではない。ただ漠然とした感覚が、理解を超えて、思考を超えて、魂そのものに訴えかけてくる。早く来い、とうるさく魂を揺さぶってくるのだ。
さながら絡繰りにでもなったかのようだった。見えない何かに、無意識の領域を支配され操られている。自分が動かしている手足が、まるで「こうしろ」と命じられた人形のようにも感じられた。自分でも知らぬ何かに駆られて、行動するのが途轍もなく怖かった。後ろから繰糸が垂らされていて、自分の腕は、脚は、それに繋がっているのではないかと思ってしまう。
それでも将人の走る速度は変わらなかった。全速力で路地を駆け、一直線にその場所を目指す。余計な思考が生まれては消え、生まれては消えていく。まるで流し込まれるように雑念が脳内に浮かび上がり、その度に消滅を繰り返していた。体がおかしい。脳がおかしい。眼がおかしい。耳がおかしい。足が、腕が、心臓が、肺が――――――何もかもがおかしい。急かされるようだった。急げ急げ、と誰かが悲鳴を上げている。身体の内側の熱も徐々に、その温度を上げてきていた。今にも溶けてしまいそうなほどに、全身が熱かった。
走り出して、どのくらいが経過しただろうか。一時間経ったような気もするし、一分しか経っていないような気もした。時間の感覚が狂っていた。だが、それでもいい。目的地に着けさえすれば、時間などどうでもいい。どうにかなる。将人の思考に、意識しない言葉が割り込んできた。その声は昔から知っているようで、知らない声だった。その声はどこか遠くから響いていた。俯いていた顔をあげ、将人は声のする方に目を向けた。
あそこが目的地だ。あそこに行かなければならない。将人は今一度足に力を込め、その回転速度のギアをさらに上げた。
「よう、お前さん。どこ行くんだい?」
ぞわりとした寒気が背筋を凍らせ、将人に回避行動をとらせた。反射的に足にブレーキをかけて速度を緩め、慣性の法則に則ってつんのめりそうになる身体を上半身の力だけでの後方へとのけぞらせる。その動きから流れるように、後方へと跳んだ。直後、将人の先まで居た位置に将人よりも一回りも大きい巨漢の男が落ちてきた。
地響きが鳴った。男の落ちてきた位置の地面は深くえぐられ、砕け散ったアスファルトの破片が砂状になって男の服から零れ落ちる。もしも、回避が間に合っていなかったら今頃、肉片になっていたであろう。危なかった。
そんな将人の反応を見て、男が愉快そうに口笛を鳴らした。
「いいねぇ。その動き、並の人間じゃあ出来ねえ動きだ。退屈凌ぎにはちょうどいい」
男の顔に楽しげな表情が浮かんだ。闘争本能を隠そうとしない、獣のような獰猛な笑みだった。一目見ただけでも、その迫力に足が竦みそうになる。
「……なんや、お前は。いきない、おっちゃげてきて。邪魔ばい、どいてくれんね」
「おいおい、訛り強いな。なんて言ってるか、さっぱりだぞ」
いきなり現れた男を睨みながら、訛りの強い言葉を投げつける将人に男が苦笑気味に言った。肩を竦ませ、男は「つってもだ」と言葉をつづけた。
「拳で語り合えば、言葉を理解する必要なんてねえんだがな」
男のその言葉に、将人の第六感が危険信号を発した。脳から送られた電気信号が脊髄を通り、肉体の隅々にまで伝達される。思考する時間を放棄して得た反射行動は、将人が知覚するよりも早く男の動きを予見、察知し彼の拳の到着地点であろう頭部を素早く傾けさせた。
そして、一秒にも満たない時間の後、将人の頭のすぐ隣を男の岩のような拳が風を伴って通過した。
「うわっ……!」
「おっ?」
将人の驚く声と男のきょとんとした声が重なる。紙一重で男の攻撃をかわした将人だが、反射的とはいえその行動は殆ど無意識に行われていた。要するに、気付いたときには身体が動いていたのである。これには当の本人もびっくり仰天だった。さらに、その直後に目にもとまらぬ速さで厳つい拳が飛んできたのだから、その混乱の具合といったら言うまでもなかろう。
混乱が収まる間もなく、将人はまたもや反射的に地を蹴り、後方へと跳んだ。男から距離を取り、二撃目へと備える。
「おいおい、逃げるだけかぁ? とはいえ一撃目をよくかわしたな。褒めてやるぜ、手加減したとはいえ避けられるとは思っていなかった」
男の顔がまたも獰猛な笑みに縁どられ、将人を半歩後退らせた。生物としての生存本能が彼と戦っては駄目だと告げている。ここでとるべき最善策は、すぐさま敵に背を向け全速力で逃げることだと、将人はその思考力を以てそう判断した。
「おいおい、逃げんなよ? 面白くねえからな」
逃げるために踵を返そうとしたその時、不意に背後から今まで目の前にいたはずの男の声が聞こえてきた。体が硬直した。ついさっきまでいたはずの男の姿が前方から消え失せていた。あり得ない。そう思いたかったが視界の端に映り込んだ巨漢を見た瞬間、それが現実だと否が応にも認めざる得なかった。
衝撃が飛んできた。何かが当たったという感触はなかった。だが、将人はその背部に強烈な衝撃を感じていた。トラックのような巨大なものが突っ込んできたのではないかという錯覚を覚えてしまう。それほどまでに強烈な衝撃が背筋を駆け巡っている。まるで前方と後方の双方から圧をかけられて、押し潰されているようだ。
将人の人生の中で間違いなく一番の衝撃に晒された彼の身体は、蹴り上げられた小石よろしくその身を宙に浮かせていた。しばらくの空中遊泳を体験すると、将人の身体は勢いよくアスファルトで舗装された道路に、落下した。運が悪いのか、よいのか頭部からの落下だった。
視界が明滅したと思うと、停電したようにぷつりと意識が途切れた。しかし、ブラックアウトしたのはほんの一瞬だけですぐにその視界に色が戻ってくる。
「くそっ……」
頭から落ちたせいか、いまだ焦点が定まらず視界がぼやけている。頭も痛い。ずきずきとした断続的な痛みに、将人は顔を歪める。殴られた背中にもじんわりと痛みが広がっていた。最悪、骨が粉々になっているかもしれない。それほどの痛みだった。
力の入らない足で、何とか立ち上がりながら将人は毒づいた。本当にこの男、何者なのだ。いきなり現れたと思ったらいきなり殴ってくるわで、意味が分からない。しかも、一見すると普通の人間のようにも見えるのだが、その実人間ではないようなのだ。人にしては、やけに臭う。あの女と同じ、人ならざる者の臭いが。鼻をつんざくように、漂っているのだ。
「おっ、やっぱこのぐらいじゃ立ち上がってくるか。やっぱ、棟梁が目をつけるだけはある」
「ごちゃごちゃうっさかばい、お前。おいは急ぎよっと、ていうかお前に用はなか! ほんて、邪魔せんでくれ!」
「威勢がいいねえ。ガキとはいえ、やっぱ俺みたいのには慣れてんのかね」
男が低い声で「くくくっ」と笑う。どことなく楽しんでいるようだった。将人をいたぶって楽しんでいるのだろう。性格の悪い男だと将人は思った。
こういう類の人間を相手にするとき、将人は決まってある一つの行動をとることにしている。昔、姉から口酸っぱく言われたのだ。「危ない人に会ったら、全速力で逃げろ」と。よって、今回もそれを実行する。運よく先の攻防で、男と将人の位置は最初の相対の時と逆になっていた。つまり、このまま後方へと走って行けばもれなく目的地へと到着できるのである。
もうそうなったら、男に一瞥もくれない。将人は自分の出しうる限りの全力で道を駆けた。
「って、おい! てめえ、逃げんな!」
後方で非難めいた声が上がるが、将人の脳は一方的にその言葉が耳に入るのを拒絶していた。聞いたところで、どうなるわけでもない。会って早々、殺しにかかるような人間、もとい化け物とは関わらないほうが身のためだ。
とはいえ、やはり化け物は化け物だった。全力疾走をしているはずの将人に、なんなく追いついてきた。これには将人も驚かざる得ない。これでは逃げ切ることすら出来ないではないか。
「舐めんなよ? こちとら、何百年と〝鬼〟やってると思ってんだ。てめえみたいなガキに追いつくなんて、わけねえんだよ」
男が将人の隣を並列して走りながら、鼻で笑った。その表情からは余裕然としたものが伺える。年季の入った笑みだった。そして、とても癪に障る笑みでもあった。
将人がさらに足の回転を速めた。このまま並走しているわけにもいかない。無茶だとは百も承知だが、引き離さなければ目的地にたどり着く前に殺されてしまうであろう。それだけは何としても避けたい。
「諦めねえことがいいことだが、いい加減気づけよ。俺からは逃げられねえってことぐらいはよぉ」
「おいはまだ死ねんと! お前みたいなやつに殺さるっとか、御免こうむるばい!」
「たくっ、自分の置かれてる状況をちっとも理解してねえようだな、おめえは」
男が走りながら肩を竦め、大仰な手振りで両手を上げた。まるで欧米人のような仕草だが、妙に板についていた嫌味になっていない。「俺が棟梁に言われたことは、お前を全力で足止め、あるいは殺すことだ」男が軽い調子でそんなことを言った。将人はぎょっとした。はっきり言って、内容が過激すぎる。
「ここ最近は文明開化だとか、欧米化とかで俺たちも生きずらくなったからな。俺もそうだが、妖の連中はうずうずしてんのさ。それにだ、久しぶりに棟梁からの言伝で暴れろって言われてんだぜ? 嬉しくないわけないよなぁ?」
そこで男の雰囲気が豹変した。先までの軽い調子は消失し、代わりに殺気のようなものをたぎらせている。ちくりと肌を刺す闘気が、男の心中を如実に語っていた。浮かべていた獰猛な笑みも、今やその度合いを高め、人の皮を被っているとは思えないほどの獣じみた笑みをその顔からこぼしていた。
「棟梁が俺に直に命じるぐらいなんだ。それなりに楽しませてくれるよなぁ、ガキィ……っ!」
昂ぶっていく男の――――――――鬼の闘争本能に同調するように周囲の空間が徐々に圧力を帯びていき、びりびりと痺れるような感覚が肌にまとわりつく。
将人は「見鬼」ではない。だが、ここまではっきりとした霊的な力になると将人でも感じ取ることが出来た。一言で表すならばそれは、異様、だった。将人は夜鷹や陣内のように裏の世界に通じているわけではない。そこそこ知っている程度には見識があるものの、詳しい「霊的存在」の分類や種類となると首を傾げるレベルだ。裏側にいる以上、必要最低限の才能である「見鬼」も持ち合わせていない将人にとっては、未知なる領域なのである。おかげで陣内が治療を施してくれたという術の仕組みもちんぷんかんぷんで、内心少しだけ怖かった。
そんな将人が本能的に、眼前の鬼の放つ霊的な圧力に畏怖を覚えた。「見鬼」で霊気を直接感じたり、視たりしたわけではない。男の持つ禍々しい〝鬼気〟に中てられ、霊体つまり魂そのものが本能的にこの鬼に恐怖を感じたのだ。
この男と真面に対峙したら、駄目だ。かといって、会敵したこの状態でこの男から逃げられるとは思えない。全力疾走にも追いつき、瞬くような速さで後ろへ回り込めるその俊敏さは、一般人よりも少し優れた身体能力しか持ち合わせていない将人にとって、太刀打ちできるような代物ではなかった。
ならば、どうする。将人は出来うる限り、速く足を動かしながら、早く思考を巡らせた。
しかし、どう考えを巡らせたところで将人が持ちうる鬼に対しての情報は皆無にj等しく、有効な対抗策なんて思いつくわけがなかった。情報が不足している。圧倒的に知識が欠けている。この土壇場で、必要なものがない。武器もなければ、切り抜けるための知恵もなく、後ろから今まさに迫ろうとしている男に対して何もすることが出来ない。
「ガキィィィィィィィィィイイィィィイイイイイイ!」
もはや殺意と興奮にその眼を濁らせた男は、先までの飄々とした面影など微塵もなかった。ただ、殺戮を、暴力を楽しむ文字通り〝鬼人〟と化していた。将人の踏ん張りで少しばかり離れていた距離が、あっという間に縮まる。男の顔が、拳が近づく度に将人は死を連想した。死にたくない、死ねない。そう思っても、現実は無慈悲で残酷だ。神はいつも弱者を殺し、強者を生かす。それが理であり、如何なる理不尽も理の中では正当なる道理となる。悔しい。何故、自分達はいつもこうでなくてはならない。何かの気紛れで殺され、生かされ、いたぶられなければならない。
将人は思う。自分に力があれば、こいつを殺すことが出来るほどの力があればよかったのに、と。願う。あの夜と同じように、憎たらしい神に乞う。
――――――――なんでもいい、力をくれ。この世界のありとあらゆる理不尽を殺すことが出来るような、力を……!
『願え。さすれば汝、我が力、手に入れん』
やはり聞こえた。将人の無意識に潜み、今まさにその身体を支配している者の声が。自分を呼んでいる者の声が、脳に響く。あの夜と同じだ。姉が死に、祖父が、母が殺されたあの日に聞こえてきたあの声と同じだった。あの時もこうやって理不尽を嘆き、弱者だった自分を悔いた。そして、願ったのだ。力が欲しいと、理不尽を打ち砕く力が欲しいと。あの女を、家族を殺したあの女に復讐するための力が欲しい、と。
そして、将人の中で眠っていた何かが解かれた。まるで閉じられていた蓋が開かれたように、今まで封じられていた何かが将人の内に溢れ出した。
何かが身体に浸漸していく。得体のしれない何かが身体の内側を満たし、循環している。
これは力だ。しかも、強烈な負の霊気だ。あの男が放つ鬼気とはまた違う禍々しさを持つ、圧倒的な霊気。それが将人の中で暴走するように膨らんでいき、爆ぜた。その瞬間、将人の霊体は凄まじい勢いで汚染された。霊障の発症だ。通常、「霊的存在」のみでしか起こり得ない瘴気の発生。それが一般人であるはずの将人の身に起きた。
「ぐ、ぐわぁああああっ」
「どうした! ついに怖気ついたか、このクソガキ!」
将人の身に起きた異変に気付かず、男はその岩のように巨大な拳を将人の脇腹に叩き込んだ。容赦ない一撃は、銃撃にも等しい衝撃を伴って将人の身体を射抜いた。鬼気を纏わせた、渾身のボディブローだった。防御姿勢も取れていなかった将人はもろにその一撃をくらい、骨の折れる音を盛大に鳴らした。受け身も取れず、弧を描くように後方へと飛んだ。
「あぐっ……!」
「あん? どうしたよ。まさか、もう終わりってんじゃないだろうな」
男の表情は狂気に満ちていた。悍ましい笑みだった。全身から鬼気を迸らせ、空間をそのものを圧縮したようなプレッシャーを放ち続けている。正直、対峙しているだけでもその圧力に押し潰されそうだった。それほどの威圧感を、この男は持っている。
「なぁ、どうした? 反撃して来いよ、もっと楽しもうぜ? こちとら何十年ぶりの憂さ晴らしだと思ってやがる。もう待てねえんだよ、ほら、早く、来いよ!」
もはや戦うことしか彼の頭にはない。思考など介在する余地もなかった。今まで抑えつけてきた昂ぶりが、際限なく溢れてくるようだ。それが麻薬のように脳を染め上げ、狂乱の感情を湧き立たせる。理性が吹き飛び、破壊衝動に意識が侵されていく。それがとても心地よくて、男はまたにやりと口元を歪めた。
アスファルトを思い切り蹴り上げ、その破片を宙に浮かび上がらせる。そして、その破片が抉られた地面に落下するよりも速く、男の巨体が将人めがけて突進した。その体躯からは想像もつかない速度だった。先程、将人を追いかけてきたときよりも格段に速い。恐らく、これが男の本気なのだろう。それはまさしく、鬼、というに相応しい力だった。
対して将人は動けずにいた。先の攻撃で肋骨がいくらか粉砕され、息をするたびに電流が流れたような痛みが走っている。それに将人は気づいていないが、深刻な霊障も併発していた。霊体が瘴気に侵されており、その弊害で実体のある肉体にも影響が出始めているのだ。
霊障となると、今の将人にはどうすることもできない。肋骨の怪我は無理さえすれば、動けないことはなかった。激しい痛みを伴うだけだ。我慢すればいい。だが、霊障となるとそうはいかない。霊障の治療には必ず、陰陽術のような裏側の力が必要となってくる。勿論、将人がそのような術を持っているわけがない。しかし、霊障は自然回復もまず見込めないし、浸食が進めば後遺症が残る可能性もある。このまま放っておけば、仮にこの状況を打開できたとしても身体の一部に麻痺が残るのは確実だ。そうなれば、将人の目的も達成することが難しくなる。それでは本末転倒だ。
もはや一縷の望みとして、後ろから夜鷹と陣内が自分を追いかけてくれていることに賭けるしかない。
三度迫りくる男の拳を前に、将人は自嘲した。もうそれに縋るしかなかった。今日であったばかりの彼らに、自らの命運を託すしか選択の余地がなかった。
それはあまりにも身勝手な願いだったであろう。自分から飛び出しておいて、何を今さら言っているのだ。彼らは赤の他人であり、自分を助ける道理などどこにもない。自分のことなどとうに忘れて、今まさに起こっている異変とやらの調査に赴いているかもしれない。それに相手はあの鬼だ。手強く、その実力は並の者では歯が立たないほどのものであろう。そんな相手に狙われている自分を、わざわざ助けてなんの得になる。リスキーなだけで、見返りがない。リスクに対して、リターンがあまりにも小さすぎるのだ。
『求めよ。さすれば、汝、願い叶えられん』
また声がした。自身の中の奥深くから響いてくるような声に、魂が揺さぶられる。
その声に従えば楽になる。だが、従えば己を失う。
理解をしているわけではない。だが、わかる。将人の動物じみた直感が、その声に含まれた危険な色を感じ取っている。従っては駄目だと、警告音を鳴らし続けているのだ。
だが、もういいような気がしてきた。この絶体絶命の中で、生き残るすべがあるとしたらもうそこにしかないような気がする。
ここでもし己を失えば、将人の思い描く復讐劇は完遂されないまま終幕を迎えることになるだろう。だが、それでもここで犬死ようにして死んでしまったら、それこそ姉や祖父にあわせる顔がない。
ならば、求めよう。その力とやらを。願おう。この鬼を殺す力を、あの女を殺す力を。この肉体に流れる負の霊気を以て、命じよう。
――――――――理すらも切り裂く、あの力を。
「あ、あああ……アアアアアアアア」
呼べ。あの名を。叫べ、己の分身の名を。捧げろ。自らのすべてを。力とし喰らいつくせ。この世界の不条理を、理を――――――――
「急急如律令!」
しかし、将人が己の中にある力を御するよりも早く、その上空から轟然たる灼熱の太陽が迫りくる男めがけ突如降り注いだ。「なに!?」男の顔に初めて動揺と驚愕が現れた。すぐさま後ろと飛びずさると、男は先の呪術を放った術者へと視線を向けた。
「てめぇ……誰だよ。初めて見る顔だな」
男が困ったように苦笑いを浮かべた。その視線の先にいるのは、一人の少年。無造作に切られた黒髪に、鋭い目つきが特徴的で人相だけで判断すれば如何にもがらの悪そうな少年だった。印象だけでいえば、あまり絡みたくない部類の人間だ。
「なんとか、間に合ったな……」
危なげなく着地し、額から流れる汗を手の甲で拭った淡海夜鷹はそう言って、安堵するようにため息をついた。