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綾子 1

見事な日本庭が玄関の手前に広がっていた。

東北の片田舎というアクセス条件を考えてみても、決して安い物件ではない。

石を敷いた道を通って、玄関の戸をたたく。

「ごめんください」私はそう言って、家主の返事を待った。

アポイントメントは取ってある。時代遅れとはおもったけれど、電話で。

どう調べてもメールアドレスの類は見つからなかった。

電話に出たのは、穏やかな高齢の女性の声だった。訳を話すには、かなりの時間と労力が必要だったけれど、家にお邪魔する約束を取り付けることができた。

「こんにちは。」声は、縁側の方から聞こえた。

電話で話したあの女性の声だ。

そこにいたのは、声で想像したよりも、少し若いかな、というくらいの人だった。

「あなたが、綾子さん?」彼女はゆっくりとそう言って、笑った。

私はお辞儀をして、それに答える。

「永沢綾子です。はじめまして。」

「幸子です。」幸子さんは手で玄関を示す。

「どうぞ、綾子さん、主人は書斎です。」






永沢コウが私の兄ではないと知ったのは、区役所でだった。



恩赦を受け取るのに戸籍謄本がいると、浩冶の上司に言われ、ただ私はそれを受け取り、喜び勇んでその上司の元へ行く予定だった。

一応確認してくださいと窓口の女性に笑顔で言われて、裏返して見たその薄い紙。

けれどその謄本には、これ以上ないほどはっきりと、たしかに彼と私の両親が全くの別人であると宣言されていた。

私のしらない4人の男女の名前。

でもそのこと自体に、あまり驚きはなかった。むしろ合点がいった。

彼の妹ではなかった私と、私の兄ではなかった彼との間には、今思えば「他人」という、どうしようもない距離感があった。

人生のほとんどを共に過ごしてもなお、超えられないものが。

それが私には悲しくて、彼に当たってみせたり、そしてまた勝手に深く傷ついてみたり。何より私には、彼に養われているという後ろめたさがあった。

だから、そう。永沢浩冶と永沢綾子に血縁がないという事実を知って私は心から思った。

ああ、よかったと。

私が人生のほとんどにおいて感じていたことは、これ以上なく正しかったのだと。

お兄ちゃんにしてしまったいろんなことも、全部仕方のないことだったんだ。

私がいけないわけじゃなかったんだ。

身勝手にも私は心の底から、そういう風に言い訳ができた。

でもそれを言うなら兄だって、十分に身勝手だ。

コウは私に何も残さなかった。彼はただ軍人として生きて、戦場で死んだ。

私の兄として生きたことなどは無かったんだ。

ホントそういうとこだけ、私たちは似てしまった。

でもというか、やっぱりというか、登りかけの梯子を外されたような感覚はある。私が彼の妹だということは、私が私であるという根拠の間違いなく大きな一つだった。

 さらに疑問があるとすれば、私の記憶だ。

戸籍謄本によると、私が彼の妹になったのはちょうど10年前。当時兄は22歳、私は10歳。兄はいざ知らず、私だって少しは彼に出会う前のことを憶えていてもいいはずなのに。

思い出そうとして気付いたのだけれど、私には小さいころの記憶がおぼろげにしかのこっていない。

十年よりも前の過去に、私という人間を証明してくれるものはない。

私は兄に変わる、私という存在の根拠を、鞄に大切にしまったその薄っぺらい紙に求めるしかなかった。私の知らない、私に血肉を与えた男女。見たことも聞いたこともない、苗字さえも違う。

実の両親に、私は会ってみようと思った。



「それが、私だと?」

幸子さんに案内されたのは、柔らかい絨毯が敷かれた広い洋間で、そこには私が探していた男がいた。

眼の前の老人は、こちらには目もくれず、ベージュの小さな椅子に座り、肘かけに寄りかかっている。やはり都合が悪いよな、突然来られても。そう心うち呟きながら、私はバッグから紙を取り出す。

「私の戸籍謄本です。」

「見せなくていい、そんなもの…。」

振り払うように手を振り回して、彼は一つ溜息をついた後、

「あんたのことは知っている。あんたの兄のことも。」

静かにそう呟いた。

「たしかに、私には一人娘がいた。十年前、より正確には9年とすこし前まで。」

足元に下ろした視線を上げて、彼は私の方を見た。

「なんてことない、ありふれた一日だった。良く晴れた、雲一つない青空だった。何の前触れもなく、私たちはいつも通り仕事に励んでいた。」

何かに突き動かされるように、突然流暢に話しだした彼は、眼の周りにより一層皺を寄せながら私を覗き込むように身を乗り出して言った。




「3.11と言えば、あんたの歳でもわかるだろう?」

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