プロローグ
真っ青な空から、ビルが茸みたいに生えている。
なんて不思議な町だろう、と思う。同時に不気味で、そして不自然だ。
本来ビルの間に押し込められるはずの空の青が、この街ではARという形で羽を伸ばしている。まるで油絵だ。細かく写実されたビル街の絵の上から、青の絵の具をぶちまけたような。ビルの丁度頭に当たる場所が、青空のテクスチャで塗りつぶされている。でも無理にその景色の不自然さをごまかそうという気はどうやらないらしく、結局前述の通りの情景が、俺の眼の前には広がっている。
(やっぱり俺はこの国の人間が嫌いだ…)
ビルが空から生えているというその景色が、錆びついた都会の中で安らぎを感じさせてくれると、本気で思っているのだから全く救いようがない。いや、彼らを救う気など、最初からさらさら無かったのだけれど。
俺は黒光りするAK-47を両手で抱えて、俺を運ぶトラックがランデブーポイントに到着するのを待っている。かつて故郷だったこの都市に、銃弾を穿ちに俺は向かっている。
いつかの俺が見たら、きっと肝をつぶすに違いない。一体これはどうしたことだと、慌てふためくに違いない。でも他に道はなかったのか、とは思わない。他に道はなかったのだから。どうしてこうなったのか、とも思わない。どうしようもなくこうなってしまったのだから。
もちろん後悔がないわけじゃない。妹はきっと、大学を辞めざるを得なかったろう。この国では、俺は死んだことになっているはずだ。俺の他にみよりのない綾子は、働かなくてはいけないだろう。だがそれでも、かつていたその場所にもう一度帰ることは、どうしてもできなかった。
「おい日本人。」ぼう、と物思いにふける俺に声をかけたのは、真向かいにしゃがむ男だった。
「少し落ち着いてくれ。お前の殺気にやられて、となりのガキが泣きそうだぞ。」そういって男は煙草を咥え直す。
首を巡らせてみればなるほど。右隣に座る華奢な少年が、両膝を抱えて震えていた。
「サムライってやつなのか、それが。」男がそう鼻で笑うのを無視して、
「すまん。」とりあえず謝ってみたが、何に謝ったのか自分でも分からず、首を傾げてしまう。
「な、なんのことだ?日本人。お、お前は悪いこと、していない。」いっちょまえのことを言いながら、少年がうずめていた顔を上げてこちらを見た。
「悪くないのに、謝るの、日本人の悪い癖だ。」
「そうだな」これには首肯するしかない。頷く俺に、少年はほっとしたように笑った。
「…でも。」
「ん?」
「日本人のキライなとこ、いっぱいあるけど、でもそういうトコは、俺キライじゃないゾ。」
「そうか。」
「うん。」
「良かった。」
「何がだ?」
なんでか、俺にはそう思えた。
トラックの、車体が大きく斜めに揺れる。速度を抑えずにカーブを曲がったせいだろう。
理由なく俺は眼の前の少年を気に入った。少年は、首を傾げて見せる。
「少年、名は?」
「日本名は山田だ。山田孝三郎だ。」
そう言って少年はまた無邪気に笑むけれど、その褐色の肌は、当然日本人でもなければ、アジア圏の人間とも思えなかった。
「本名は?」
「…、それは知らない。逃げてくるとき、俺はまだガキだったから。」
「そうか。」
「コウって呼んでくれ。お気に入りなんだ。」
「コウか、じゃあ俺と同じだな。」
「そうなのか?」
「俺もコウだ。永沢浩冶で、コウ。」
「そっか…へへっ、そっか!」
コウはひまわりみたいに笑う。
周りの屈強な大人たちが、つられて微笑んでしまうくらい。
トラックの薄暗い荷台の中で、男たちが、女たちが。
「まったく」とか、「おやおや」とか言いながら、銃を片手に声を出して笑う。
笑いながら、ほのかに芽生える温かさに愛しさを感じながら、この子は死ぬんだと理解する。
長らく戦争をやっていれば、いやでも身に着く、死を嗅ぎ取る嗅覚。
死の臭いが、彼の笑顔にべったりとついている。だからみんな、笑ってしまう。
「あはははは」
「うふふふふふ」
「がはははははは」
この世の残酷さに、笑いが止まらない。
いったいなんだって、この子が死ななきゃならないんだ。
戦場は、もうたぶんそう遠くない。
つまりコウの死もすぐそこに迫っている。
悲しいじゃないか。
むなしいじゃないか。
「コウ、年はいくつだ?」
「よくは分からないけど、14か5くらいだろうって母さんは言ってる。昔は年を数えてる暇なんてなかったんだって…。」
「そうか。」きっとそれは嘘だ。
一日一日、戦車の砲撃や、戦闘機の爆撃から逃れ生きていく人間ならなおさら、我が子が成長する姿はうれしいに違いないのだ。まして年齢がおぼろげになることなどないだろう。
おそらくコウの母親は…。
いや、止めておこう。
コウが今、ここにいるということが、つまり答えなのだ。
それ以上のことは考えないでおこう。
トラックが、ゆっくりと停車する。それに合わせてエンジン音も止んだ。
その静寂が、俺たちの戦闘開始の合図。
「着いたぞ。」ドライバーの声が荷台に聞こえてくる。
一瞬の間をおいて、男たちがぞろぞろと歩きだす。それに続こうとすると、ねぇ、とコウが俺に声を掛けてきた。
「俺は死ぬのかな。」
息を飲んだ。
「死ぬのが怖いか。」
「いいや。」即答したけれど、その眼はひどく泳いでいた。
「死ぬのは怖くない。俺の死が、少しでも世の中を良くするなら、俺はそれでいいんだ。」
単純な物言いに、俺は半ば呆れた。
「それは違う。戦争は何も生まない。気に食わないやつを殺したって何も手には入らないんだよ。」
狙う銃口が、一つ減るだけだ。それ以上のことは起こらない。
殺戮という行為にロマンスを感じてしまうのは、きっと人間の、本能みたいなものなんだ。
俺の返事はコウには意外だったのか、慌てるように彼は続ける。
「でも、同士久瀬はこれが世界のためだと言っていた。」
「戦場で他人のことは信用するな。自分だけを信じろ。ここは誰かのために戦う場所じゃない。まして眼に見えないもののためになんて、それこそ愚か者のすることだ。」
「いやだ!それはできない!」
彼の切なげに転じる表情。そして口を開ける。
「母さんに、御国のために死んでこいと言われたんだ。」
ああ、やはりと、俺は眼を閉じて世界を呪った。
トラックの荷台を降りると、見覚えのある巨大な交差点の、丁度真ん中に、俺たちは位置していた。しかし兵士以外の姿はそこにはない。全く機能していない都市の、しかし視線を上げてみれば、ビルに埋め込まれたディスプレイだけがキラキラとカラフルに発色して、その職務を全うしている。
「では、ブリーフィング通りに。」ドライバーが運転席から出てきて言った。
それに無言の頷きで返し、みんなは空虚な町に四散する。
「じゃあ、日本人。」
「ああ。」
コウはまた笑っていた。
…お前はそれでいいのか。そう聞きたくなって、でも口には出さなかった。
「じゃあな」
「うん。」
そしてそのまま、俺は何も言えないまま、何もできないまま、彼を見送った。やるせないな、と思う。
小さくなるその背中に、拳を強く握った。
「おい、日本人。」その声に振り向くと、トラックの中で俺を呼んだ男が、切れ長の目でこちらを睨んでいた。
「言っておくがよ、俺ぁまだあんたを信用しちゃいない。」
「わかってる。それはお互いさまだ。」
「くくっ」喉の奥で鳴らすような音で、男は笑った。
「荷台ん中じゃずいぶんガキに優しくしてたようだな。俺は知ってるんだぜ、日本人。シリアでお前が何をしてきたか。」
「…。」
「FOX部隊。光学迷彩と加速装置を利用した超隠密機動部隊。実践配備はシリア戦争の一回きりだが、噂だけはこっちにも届いてたぜ。命だけ取って姿もみせない狐だってな。」
「…お前は中国人ではないな?」
男の眼が怪しく光り、俺は腰のサバイバルナイフに手をやりながら男との距離をとる。
「作戦前にやるつもりはないよ、永沢軍曹殿。」
こいつ…。
「日本軍のものだな。」
「惜しい、と言っておこうか。それ以上は俺も言うつもりはねぇ。」
おどけたように両手を振って、男は口もとを歪につりあげてみせる。
「だが自己紹介はしておくよ。俺の名は久瀬。久瀬実だ。憶えといてくれ。」
久瀬はそこまで言うとトラックの助手席に乗って、ドライバーに「出せ」
と言った。
「久瀬は戦わないのか?」
「ああそうだ、俺は戦わない。他ならぬお前が言ってたじゃないか、眼に見えないもののために戦うのは愚か者のすることだと。言っておくが狐よ、ここにはお前の言う愚か者しかいないんだぞ。」
俺はこんなところで死にたくないんだ、と久瀬は笑いながら言った。
トラックはもと来た道を帰っていく。
「安心しろ、回収地点には待機しているさ。時間におくれるなよ。」
最後に久瀬はそう言った。
静寂がたちまちあたりを包む。
ここが戦場だとは、とても思えないような静けさだ。
ふと、視線を上げると、ひとり黙々と職務を全うする液晶が、ビルに植えつけられていた。
カラフルな色遣いの画面に、横並びの文字が明るく点滅しながらスライドしてゆく。
「東京オリンピックまで、あと8日。」