ー聖女になった女ー
メリルの家に着くと、すぐに風呂を貸してくれた。
「まずは汗と血、流しといで」
軽い調子で言われ、ベルは素直に浴室へ向かう。
服を脱ぎ、湯気の立つ湯船へ体を沈めた瞬間――
「っ……」
肩に走る鋭い痛み。
温かい湯が傷口に触れ、じわりと染みる。
思わず息が止まる。
眉がわずかに寄る。
だが、それも長くは続かない。
痛みはある。
けれど――
どこか遠い。
まるで自分の身に起きた出来事ではないみたいに、現実味が薄い。
(……なんか)
(今日、相当無茶してたらしいけどよ)
誰かから聞いた話。
目が覚めたときの周囲の反応。
包帯の状態。
その断片だけで状況を“想像”している。
記憶はない。
ただ――
自分が危険な場所で叫び、走り回っていたという事実だけは、雰囲気で分かる。
湯に肩まで浸かりながら、ベルは小さく息を吐いた。
「まぁ……生きてるなら上出来だろ」
誰に向けた言葉でもない。
感覚だけの自己評価。
長くは浸からない。
体を軽く洗い、傷に触れないよう慎重に湯から上がる。
水気を拭き取り――
いつもの黒いパンツを履く。
上半身は裸のまま。
包帯はまだ巻かれていない。
部屋へ戻ると、メリルが椅子に座って待っていた。
手には清潔な布と包帯。
「おかえり」
「ちゃんと洗った?」
「おう」
「じゃ、こっち」
ベルは素直に近づく。
メリルは傷の状態を確認しながら、手際よく消毒を始める。
「っ……」
染みる。
思わず声が漏れそうになる。
メリルはちらりとベルを見る。
「痛い?」
「……ちょっとな」
だが大げさにはしない。
メリルは軽く笑いながら、包帯を丁寧に巻いていく。
その手つきはふざけた雰囲気とは裏腹に、驚くほど慣れている。
「若いのに、なんか無茶したみたいだねぇ」
「これ魔獣とでも戦ったみたいな傷だねぇ」
ぽつりと呟く。
ベルはそれを聞き流しながら――
今日の出来事を“他人事みたいに”頭の奥で反芻していた。
メリルは包帯を巻き終え、軽く結び目を確認しながらふと思い出したように言う。
「さっきも聞いたけどさ」
「――あんた、これからどこ行くの?」
ベルは少しだけ目を上に向ける。
そして――
肩をすくめた。
「それがわかんねーんだよなぁ」
即答。
迷いはないが、答えもない。
メリルは眉をひそめる。
「なんだいそれ? 旅してるんだろ?」
「行き先も決めずに?」
ベルは包帯を巻かれた肩を軽く動かし、痛みを確かめる。
「いやー」
「やりたいことはあるんだけどよ」
言葉を選びながら続ける。
「どうしたらいいか、わかんなくてさ」
「その方法を探してる……みたいな感じだな」
誤魔化しているわけではない。
曖昧にしているわけでもない。
本当に――自分でも整理できていない。
目的はある。
だが道筋がない。
まるで地図はあるのに、現在地が分からない状態。
メリルはその答えを聞いて、ふっと笑う。
「へぇ」
「まぁ旅に出るくらいだし、人には色々事情ってもんがあるだろうね」
グラスを軽く揺らす。
「なんも考えてなさそーなあんたにも」
「いろいろあるんだねぇ」
ベルは一瞬きょとんとする。
そして――
「あー」
「それよく言われる」
即答。
少しだけ苦笑する。
確かに。
自分は軽く見られやすい。
深く考えていないように見えるらしい。
実際、今も明確な答えを持っているわけではない。
でも――
それでも足は前へ進んでいる。
メリルはベルの横顔をじっと見る。
酔いで少し潤んだ目。
だが観察する視線は鋭い。
「……あんたさ」
「本当に何も考えてないわけじゃないでしょ?」
問いかけというより、確認に近い声。
ベルは少し黙る。
そして――
「さあな」
とだけ答えた。
それ以上、深掘りはしない。
深掘りされるつもりもない。
今夜はまだ――
そこまで踏み込む必要はない。
メリルはグラスをくるりと回し、残っていた酒を一気に飲み干した。
そしてふと思い出したように言う。
「もしさ」
「どこで何をしたらいいのか分からないってんなら――」
「王都にでも行ってごらんよ」
ベルは目を瞬かせる。
「王都?」
「そ。王都」
メリルは指を一本立てる。
「王都にはなんでもある」
「食べ物も、服も、宝石も、店も、人も、仕事も」
「それに何より――情報が集まる」
ベルの目が少しだけ輝く。
「おー……」
「おぉーおぉおぉおぉ……おぉ!」
「ありがとよ!」
即決。
「王都よさそうだな!」
メリルはその反応を見て、くすっと笑う。
「行っておいで」
「外に出た方がいい」
「あんたはきっと――」
少しだけ視線を細める。
「世界に出た方が似合うよ」
「小さな村や街じゃ、収まりきらない気がする」
「……あんたってなんか」
「自由な感じがしてさ」
ぽつり。
「眩しいよ」
ベルはきょとんとする。
「なんだかわかんねーけど」
「また褒めてくれてんのか?」
「ありがとよ」
その言葉に悪意はない。
ただ素直。
メリルは小さく笑い――
空になったグラスを置いた。
「それじゃ――」
「そろそろ寝ないかい?」
後ろから、軽くベルの肩に腕を回す。
ベルは迷いなく頷いた。
「おう!」
「寝る!」
そう言って、素直にベッドへ横になる。
躊躇も警戒もほとんどない。
メリルは一瞬だけ目を細め――
ランタンの火を指先で静かに消した。
部屋が夜に沈む。
薄暗い空気の中で、衣擦れの音。
メリルは上着を脱ぎ、ゆっくりとベッドに上がる。
ベルの隣に寝そべり――
自然な距離で体を寄せる。
だが。
数分。
いや、十数分。
ベルから規則正しい寝息が聞こえ始める。
「……ん?」
メリルはゆっくり体を起こす。
顔を覗き込む。
爆睡。
完全に落ちている。
一瞬、驚いた表情になる。
そして――
ふっと笑う。
「まったく」
「たまんないね」
低く呟く。
だがそれ以上は何もしない。
そっと毛布を手繰り寄せ――
ベルの体にかけてやる。
その手つきは、からかいではなく――
どこか母性に近い静かな仕草だった。
メリルもまた、静かに目を閉じる。
夜は深くなる。
何も起きない。
ただ――
旅立ち前の、ひとときの安らぎだけがそこにあった。




