エピローグー
公園を後にした三人は、そのまま宿への道を静かに歩いた。
誰も多くを語らない。
夕暮れの街は、昼間の騒ぎなど知らないかのように穏やかだった。
宿へ戻ると、一階の酒場にはちょうど夕食の匂いが漂っていた。
空いている席へ腰を下ろし、運ばれてきた料理を囲む。
ウルフはいつも通り豪快に食べ、ミリィは時折ベルの顔色を窺いながら静かに口へ運ぶ。
ベルも腹は空いていたのか、黙々と皿を空にしていった。
誰もデッドエンドの話はしなかった。
話題にしなくても、皆それぞれ思うところがあったからだ。
食事を終えると、三人は短く言葉を交わし、それぞれの部屋へ戻っていく。
廊下を歩き、扉を開ける。
部屋の中には変わらない景色が広がっていた。
窓から差し込む夕陽が床を赤く染め、静かな空気だけが流れている。
ベルはそのままベッドへ腰を下ろした。
柔らかな軋みとともに、身体から力が抜ける。
少し遅れて、ミリィも隣へ腰掛けた。
二人の間には、拳一つ分ほどの距離。
窓の外から聞こえる街の喧騒だけが、静かな部屋へ小さく届いていた。
どちらからともなく息をつき、ゆっくりと顔を上げる。
そして二人は、互いの横顔を見つめた。
夕暮れの光が窓から差し込み、部屋を柔らかな橙色に染めていた。
ベッドに並んで腰掛けたまま、しばらく二人は何も話さない。
宿の下から聞こえてくる酒場の賑わいだけが、静かな部屋へぼんやりと届いていた。
やがてベルが、小さく息を吐く。
「デッドエンド…ううんハーブ、倒したね」
その声は誰に聞かせるでもなく、胸の奥を整理するような呟きだった。
ミリィも静かに頷く。
「はい…前のゼニエダも手強かったけど、デッドエンドは別の意味で強敵でした」
戦えば倒せる相手ではなかった。
笑いながら距離を詰め、常識を壊し、人の心まで掻き回してくる。
何が本当で何が嘘なのか、最後まで掴ませてくれない相手だった。
ベルは膝の上で両手を組み、そのまま俯く。
窓の外では、夕日が少しずつ街並みの向こうへ沈み始めていた。
部屋の中に伸びる二人の影も、ゆっくりと長くなっていく。
その静けさの中で、戦いの余韻だけがまだ消えずに残っていた。
それからも二人の会話は、ぽつり、ぽつりと続いた。
戦いのこと。
街のこと。
他愛もない話。
どちらからともなく話しては、静かに笑う。
そんな穏やかな時間が流れていく。
気が付けば窓の外は茜色から群青へ変わり、最後の夕焼けも街並みの向こうへ沈んでいた。
部屋にはランプの灯りだけが揺れている。
その頃には、ミリィの身体も小さく揺れ始めていた。
ベルの隣へ座ったまま、船を漕ぐようにうつらうつらと首が傾く。
瞼も何度も閉じかけては開き、眠気と必死に戦っている。
そんな様子を横目で見ながら、いつしか銀髪の少年の姿へ戻っていたベルが小さく笑った。
「今日は疲れたもんな。早く寝な」
そう言って、静かに立ち上がる。
ミリィは眠たそうに目を擦りながら顔を上げた。
「ベルさんは?」
ベルは扉へ向かいながら肩越しに答える。
「俺はちょっと、夜の散歩だ」
その言葉に、ミリィは安心したように小さく頷いた。
「..いってらっしゃい」
言い終える頃には、もう眠気には勝てなかった。
そのまま布団をめくり、ベッドへ潜り込む。
枕へ頬を預けると、身体から力が抜けていく。
ベルはその様子をしばらく見つめ、静かに微笑んだ。
そして音を立てないよう扉を開ける。
夜の廊下へ一歩踏み出し、そのまま静かに部屋を後にした。
それなりに自由な夜を過ごしたベルはまた夜が明ける前に宿に戻り、ベッドに潜り込む。
ほんのわずかな時間、眠るために。
朝。
宿の部屋には、薄いカーテンを透かした柔らかな陽光が差し込んでいた。
窓辺から伸びた光が床を照らし、静かな朝の空気だけがゆっくりと流れている。
ベッドの上。
黒髪の少女となったベルは、シーツにくるまったまま穏やかな寝息を立てていた。
その隣ではミリィもまだ深い眠りの中にいる。
昨日の疲れが残っているのか、どちらも目を覚ます気配はない。
不意に。
ベルの口元が、ほんの僅かに動いた。
眠ったまま眉が寄る。
何か違和感を覚えたように顔をしかめるが、それでも瞼は閉じられたままだった。
そして。
閉じられていた唇が、ゆっくりと。
まるで内側から押し広げられるように、少しずつ開いていく。
吐息が漏れる。
その隙間から、きらりと七色の光が覗いた。
糸を引くような粘液。
朝日を受けて虹色に輝くそれが、音もなくゆっくりと外へ這い出してくる。
一滴。
また一滴。
粘液は床へ落ちることなく宙で形を保ち、細く長く伸びていく。
ベルは眠ったまま、小さく寝返りを打った。
それでも気付かない。
隣で眠るミリィもまた、規則正しい寝息を繰り返しているだけだった。
静まり返った部屋。
誰にも知られることなく。
七色に輝く粘液だけが、ゆっくり、ゆっくりとベルの口から這い出し続けていた。
やがて最後の一筋まで、七色の粘液がベルの口から静かに流れ落ちた。
床へ広がったそれは朝日を受け、宝石のような虹色の光を揺らめかせる。
ふるり、と表面が震える。
波紋が幾重にも広がり、粘液は自ら意思を持つように中央へ集まり始めた。
盛り上がる。
細く伸び。
人の輪郭を描き。
肩が生まれ、腕が形を得て、脚がゆっくりと床へ降り立つ。
液体だったものは少しずつ質感を変え、柔らかな肌へと変わっていく。
七色の光が薄れた先に現れたのは、一人の少女だった。
腰まで届く銀髪は緩やかなウェーブを描き、朝日に照らされて淡く輝いている。
両側だけ丁寧に編み込まれた髪が、その気品ある顔立ちをより際立たせていた。
まだ十代半ば。
これまでの成熟した姿よりも少しだけ背は低く、細い肩や手足には少女らしい華奢さが残っている。
それでも真っ直ぐに立てば、その佇まいにはどこか育ちの良さが滲んでいた。
整った目鼻立ちは幼さの中にも凛とした美しさを宿し、将来どれほどの美人になるのか容易に想像できる。
身に纏うのは、柔らかなミントグリーンのワンピース。
飾り立てすぎない上品な仕立てが、彼女の清楚な雰囲気によく似合っている。
指先には白いレースの手袋。
足元には白いショートブーツ。
まるで由緒ある貴族の令嬢が、そのまま物語から抜け出してきたような姿だった。
ただ、その身体は今のハーブより一回りほど小さい。
完成された大人ではなく、まだ成長の途中。
少女と女性の境界に立つ、儚い年頃の姿だった。
彼女は静かに自分の両手を見下ろし、指をゆっくりと握っては開く。
そして何事もなかったように顔を上げると、ベッドの上で眠り続けるベルへ視線を向けた。
黒髪の少女はシーツにくるまり、小さく寝息を立てている。
その寝顔を見つめる銀髪の少女の表情は、どこか懐かしむようでもあり、少しだけ寂しげでもあった。
朝の光だけが静かに二人を照らし、部屋には寝息以外の音は何一つ響いていなかった。
銀髪の少女は、自分の腕をゆっくりと持ち上げた。
細い指先を見つめ、くるりと手首を返す。
肩に触れ、腰へ手を添え、裾を軽く摘まみながら全身を確かめるように視線を落とした。
そして、ふっと小さく笑う。
「あらあら、残った量が少なくてちょっと子供に戻ってしまったみたいね」
腰まで流れる銀髪がさらりと揺れる。
頬へ触れた髪を指先で払いながら、今度はどこか楽しそうに肩をすくめた。
「まぁ若い分には文句ないわ」
その声音には焦りも落胆もない。
むしろ、そんな変化すら面白がるような余裕があった。
そうして静かに振り返る。
ベッドの上では、ベルが何も知らず眠り続けている。
隣ではミリィも穏やかな寝息を立て、朝の静寂だけが部屋を満たしていた。
ハーブはゆっくりと歩み寄り、その寝顔を優しく見下ろす。
口元が自然と綻ぶ。
「どういたしまして。またご飯食べてね」
返事はない。
けれど、それで十分だった。
ハーブは微笑みを残したまま踵を返し、音も立てず部屋の扉へ向かう。
白いショートブーツが床を踏んでも、不思議なほど足音は響かない。
静かに扉を開き、その向こうへ一歩踏み出す。
そして敷居を越える寸前、ほんの少しだけ振り返った。
朝日を背に受けた銀髪が淡く輝く。
「それじゃ、またね」
囁くように言い残し、彼女は廊下の向こうへ姿を消した。
部屋には再び静寂だけが戻る。
ベルは小さく寝返りを打ち、何事もなかったようにシーツへ顔を埋めた。
窓から差し込む朝の光だけが、そこに残された温もりを静かに照らしていた。




