初めての遭遇ー
あれからしばらくが経った。
ベルは手元の地図を頼りに、近くの街を目指して歩き続けていた。
特別な出来事は何一つなく、人とすれ違うことすら稀な土の街道がただ静かに続いている。見上げる空は高く、雲がゆっくりと形を変えながら流れていく。
「……この道で、合ってるよね」
小さく呟きながら、ふと歩幅を緩める。道を間違えてはいないか、本当に街へ向かっているのか。不安がないわけではないが、立ち止まっても答えは出ない。だからこそ、ただ前へ進むしかなかった。
やがて、道の両側に広がる景色が明確に変わり始めた。
のどかな草原だった風景に木々が増え、背の高い樹木が立ち並ぶ深い森へと差し掛かる。鬱蒼とした枝葉が空を覆い隠し、差し込む光は細く弱々しい。
足元の柔らかい土と落ち葉を踏む音が、静寂の中にひっそりと響く。ひんやりとした空気に、ベルは自然と周囲へ警戒の視線を巡らせた。
「……静かだな」
鳥の鳴き声と、風に揺れる枝葉の音だけ。けれど、どこか得体の知れない違和感がある。森の奥へと吸い込まれるような、不気味なほどの静けさだった。
歩みを止めず慎重に進んでいく、そのとき。
――遠くから、何かが崩れるような重い音が響いた。
続いて荒々しい怒鳴り声と、硬いものが激しくぶつかり合う衝撃音。
「……?」
ベルの足が自然と止まる。耳を澄ますと音は一度止み、今度は別の方向から切羽詰まった叫び声が聞こえた。森の奥で、何かが起きている。視線を上げると、木々の隙間から遠くで激しく揺れ動く影が見えた。
「……何の騒ぎ?」
小さく呟く。まだ距離があり詳細は見えない。ただ確かに、誰かが戦っている音だけが響き続けていた。
関わるべきか、逃げるべきか。一瞬の迷いはあったが、ここで見なかったことにして背を向ける選択肢は、最初から彼女の頭には浮かばなかった。
ベルは音の方向へと真っ直ぐに足を向けた。
街道を外れ、太い木々の間を縫うように森の奥へ進む。枝を踏まないよう落ち葉の音を殺し、慎重に距離を詰める。進むほどに、金属が鋭く打ち合う音、荒い呼吸、地面を削る音がはっきりと鼓膜を打った。
一本の大きな木の陰に身を寄せ、ゆっくりと顔だけを覗かせる。
少し開けた森の空間に見えたのは、三両編成の馬車だった。一両は完全に横倒しになって車輪が壊れ、もう一両も傾きながら危うく揺れている。その周囲では、剣を構えた護衛たちが必死に防戦陣形を敷いていた。
彼らに向かって、低い姿勢で次々と跳びかかっていく黒い影――鋭い牙を剥き出しにした獣、ベロンの群れだ。
数は尋常ではない。森の地面を埋め尽くすように複数体が連携し、正面で引きつけ、横へ回り込み、後方を狙う。明らかに標的を“挟み込む”狡猾な陣形をとっていた。
「……多い」
ベルの胸が静かに強く波打つ。普段の群れより明らかに多いイレギュラーな事態に、馬車の防衛線はじわじわと押され始めていた。
「来るぞ!」
誰かの悲痛な叫びとともに、正面のベロンが低く唸りながら突進する。盾を構えた護衛が鈍い衝撃音とともにそれを受け止めるが、陣形がわずかに崩れた隙を突き、後方に回り込んでいた個体が馬の脚に牙を突き立てた。
いななきと悲鳴が上がり、馬車が大きく揺れる。「抑えろ!」という隊長の怒号が飛び、二人がかりで獣を引き剥がして斬り捨てる。血の匂いが風に乗って漂ってきた。
しかし、一体倒してもすぐに次の影が襲い来る。終わりの見えない猛攻に護衛たちは息を切らし、武器を振るう腕が重くなり、判断がほんの少しずつ遅れていく。ベロンの群れはその致命的な隙を見逃さず、じわじわと包囲の円を狭めていた。
木の陰で息を殺し、ベルはその凄惨な命のやり取りをただ見つめていた。
自分とは縁がないと思っていた世界。何度も襲い来る黒い影に、指先が無意識のうちに震え出す。怖い。はっきりと、怖い。あの牙や爪にやられたら、ただでは済まない。武器も力もない自分にできることなど何もない。
「……どうすればいいの」
喉がひどく乾き、心臓が速く打ち続ける。今なら気づかれていない。このまま静かに離れれば巻き込まれずに済む。頭の中に逃げる選択肢がよぎる。
しかし、視線の先で護衛の一人が弾き飛ばされ、無様に地面へ倒れ込んだ。ぽっかりと空いた致命的な隙間へ、ベロンが一気に距離を詰める。
「――っ!」
ベルの体が反射的に動きかけ、恐怖で足がすくむ。本能が「近づくな」と叫んでいる。
けれど、もしここで何もしなければ、あの人は、あの馬車は、目の前で壊れてしまう。
「……助けない、なんて」
力強く首を横に振る。
「...できない!」
誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「怖いよ……でも、見てるだけは……もっと嫌」
武器はない。力もない。それでも、ベルは木の陰から一歩、前へ踏み出した。
一度立ち止まり、目を閉じ、強く拳を握り締める。
「……この場で、私にできること」
再び目を見開き、決意を込めて戦場を睨みつける。
「考えろ……考えろ……!」
走りながらでも出来ること。叫び、注意を引き、何かを使う。現状を打破するための「何か」を見つけ出すために、彼女は必死に頭を回転させた。




