ー揺れる拠点探し、色々揺らしたいー
街へ出る。
朝の王都はすでに人の流れが多い。
商人の声。
荷車の音。
焼き立てのパンの匂い。
その中を、ベルは早足で進む。
「……こんなことになるのは」
小さく呟く。
「昼のうちに宿を決めないからでしょ」
自分に言い聞かせるように、無理やり結論を出す。
そうだ。
全部あいつのせい——ではなく。
段取りが甘かった自分の責任。
頬を軽く叩く。
「反省」
予算は限られている。
高い宿は最初から選択肢に入らない。
低価格帯の宿を片っ端から回る。
扉をノック。
「空きありますか?」
返ってくるのは同じ答え。
「満室だよ」
「今日は無理だね」
「もう埋まってる」
断られるたびに、肩の力が少しずつ落ちていく。
三軒。
五軒。
八軒。
どこも同じ。
最後の宿の前で、ベルは小さく息を吐いた。
「……うそでしょ」
空きはない。
今夜泊まれる場所がない。
通りの端に立ち、周囲を見渡す。
人は多い。
だが——
頼れる場所は、どこにも見当たらない。
「……どうしよ」
声が自然と漏れる。
こんな簡単なことで行き詰まるなんて。
指先が無意識に服の裾を握る。
夜の自分に任せっぱなしにはできない。
でも——
現実は待ってくれない。
最後の宿の扉が、背後で重く閉まる。
「申し訳ありません。本日は満室でして」
丁寧な声が、やけに遠く聞こえた。
外へ出る。
朝の光が眩しい。
なのに気分はどんよりしている。
「……はぁ」
思わず大きなため息が漏れる。
これで何軒目だろう。
数えるのも嫌になってきた。
今夜、どうするの。
昼のうちに宿を決めなかったから——
そう自分に言い聞かせたはずなのに、現実は甘くない。
通りの端で立ち止まり、うつむく。
視界が石畳だけになる。
そのとき。
「失礼」
後ろから声がかかった。
低く、よく通る声。
びくりと肩が跳ねる。
振り返る。
そこに立っていたのは——
背の高い男。
金髪が陽にきらりと光る。
整った顔立ち。
碧い瞳がまっすぐこちらを見ている。
服装は上質だが派手すぎない。
無駄のない仕立て。
立ち姿も隙がない。
けれど、貴族特有の傲慢さは感じない。
腰には剣。
きちんと手入れされた鞘。
自然にそこにある。
騎士……?
思わずそう考える。
男は軽く会釈した。
「お困りのようでしたので」
声音は穏やか。
押しつけがましさはない。
それが逆に警戒心を刺激する。
ベルは一歩だけ距離を取った。
「……なんでしょう」
声は思ったよりも素っ気なく出た。
男は気を悪くした様子もなく、静かに続ける。
「宿をお探しですか?」
核心。
胸がちくりとする。
「……だったら?」
つい少しだけ、棘が混じる。
男は微かに笑みを浮かべた。
「もしよろしければ、力になれるかもしれません」
「ありがたいですけど……」
ベルは一歩引いたまま言う。
「見ず知らずの方に、そこまでしていただくわけには」
言葉を選ぶ。
相手が悪い人間には見えない。
けれど、それとこれとは別だ。
男はわずかに目を細めた。
「見ず知らず、ではありません」
静かな声。
「先日の馬車襲撃の件。覚えておいででしょうか」
ベルの瞳が揺れる。
あのとき。
荷車。
悲鳴。
刃の音。
男は続ける。
「私は王都騎士団所属。あの護衛部隊の隊長を務めていました」
腰の剣に手を添える仕草は自然だ。
誇示ではない。
確認のような動き。
「騒ぎのあと、騎馬で駆けつけた者のひとりです」
……あのときの。
記憶の中に、確かに鎧のきらめきがよぎる。
男は少しだけ表情を柔らげた。
「御者の青年から話を聞きました。彼らを助けてくださった少女が王都に来ていると」
ベルの胸がきゅっとなる。
「あなたを探していました」
まっすぐな碧眼。
押しつけるでもなく、ただ事実を述べる。
「王都に来たばかりなら、宿を探している頃だろうと」
今まさに断られて出てきたところだ。
言い返せない。
ベルは視線を逸らす。
「……別に、大したことはしてません」
小さく言う。
男は首を横に振る。
「我々が到着するまで持ちこたえられたのは、あなたのおかげです」
その声に誇張はない。
事実として述べているだけ。
「ですから、これは礼の一部だと思ってください」
一歩も距離は詰めない。
無理に近づかない。
それがかえって誠実に見える。
ベルは唇を噛む。
助けはありがたい。
でも——
簡単に甘えるのは、どこか負けた気がする。
「……宿、ほんとに空きあるんですか?」
少しだけ疑うように。
男は静かに頷いた。
「騎士団が契約している宿に、数室」
言い淀みもない。
嘘の匂いはしない。
ベルは迷う。
迷って、迷って。
そして小さく息を吐いた。
「……その、案内だけなら」
完全に頼るわけじゃない。
でも背に腹は代えられない。
男は柔らかく微笑む。
「もちろん」
男は柔らかく微笑む。
「もちろん」
そして、さりげなく一歩横に並んだ。
「どうぞ」
道を示す仕草は、あくまで紳士的だった。
⸻
宿屋の食堂は、昼の喧騒が少し落ち着いた時間だった。
木製の丸テーブルに向かい合って座る。
窓から差し込む光が、男の金髪を淡く照らす。
背筋は自然に伸び、動作に無駄がない。
豪奢ではないが、整った身なり。
鎧は脱いでいるが、外套の内側から覗く紋章が騎士であることを示していた。
男は一度だけ軽く会釈する。
「改めまして」
声は落ち着いていて、よく通る。
「王都騎士団部隊長」
「ライン・バックスと申します」
名乗りは簡潔。
だが揺るぎがない。
碧眼が真っ直ぐベルを見る。
「先日の馬車襲撃の件では、ご尽力いただいたと聞いております」
わずかに目を細める。
「遅ればせながら、礼を」
右手を胸に当て、騎士式の一礼。
格式ばらず、だが軽くもない。
ベルの前に置かれた水の入ったコップが、微かに揺れる。
食堂の空気は穏やかだが、
ラインの視線には職務としての観察が混じっていた。
「本日は」
一拍。
「あなたに、少しお話を伺いたく参りました」
紳士的な口調。
だが、目的は明確。
向かい合うテーブルの上で、
静かな対話が始まる。
。
「もちろん」
男は柔らかく微笑む。
「もちろん」
そして、さりげなく一歩横に並んだ。
「どうぞ」
道を示す仕草は、あくまで紳士的だった。
⸻
宿屋の食堂は、昼の喧騒が少し落ち着いた時間だった。
木製の丸テーブルに向かい合って座る。
窓から差し込む光が、男の金髪を淡く照らす。
背筋は自然に伸び、動作に無駄がない。
豪奢ではないが、整った身なり。
鎧は脱いでいるが、外套の内側から覗く紋章が騎士であることを示していた。
男は一度だけ軽く会釈する。
「改めまして」
声は落ち着いていて、よく通る。
「王都騎士団部隊長」
「ライン・バックスと申します」
名乗りは簡潔。
だが揺るぎがない。
碧眼が真っ直ぐベルを見る。
「先日の馬車襲撃の件では、ご尽力いただいたと聞いております」
わずかに目を細める。
「遅ればせながら、礼を」
右手を胸に当て、騎士式の一礼。
格式ばらず、だが軽くもない。
ベルの前に置かれた水の入ったコップが、微かに揺れる。
食堂の空気は穏やかだが、
ラインの視線には職務としての観察が混じっていた。
「本日は」
一拍。
「あなたに、少しお話を伺いたく参りました」
紳士的な口調。
だが、目的は明確。
向かい合うテーブルの上で、
静かな対話が始まる。
沈黙が一瞬だけ落ちる。
ラインは指先でグラスを整え、わずかに息を吐いた。
「正直に申し上げますと」
声の調子が、ほんの少しだけ柔らぐ。
「私は“ひと目惚れ”というものを信じておりませんでした」
ベルのスプーンが止まる。
「……え?」
予想外すぎる言葉。
ラインは淡く微笑む。
「任務としてあなたを探しました。礼を述べ、事情を伺う。それだけのつもりでした」
碧眼が、まっすぐ向く。
逃げ場のない距離。
「ですが」
一拍。
「こうしてお話してみて、認識を改めざるを得ないようです」
ベルの思考が追いつかない。
「え、あの、ちょっと待ってください」
声が裏返る。
ラインは慌てない。
「ご負担をかけるつもりはありません。ただ——」
穏やかに続ける。
「あなたの勇気も、今の素直な反応も、私には非常に魅力的に映っております」
真正面。
逃げ道なし。
ベルの頬が一気に熱を帯びる。
「そ、そういうの、急に言われても……!」
視線が泳ぐ。
パンをちぎる指がぎこちない。
「わ、私、別に、その……」
何を否定すればいいのか分からない。
ラインは落ち着いたままだ。
「もちろん、即答を求めるつもりはありません」
柔らかな声。
圧はない。
だが真剣さがある。
「ただ、あなたを知る機会をいただければと思っております」
紳士的。
距離は守る。
触れない。
だが退かない。
ベルは完全に混乱していた。
(なんでこうなるの……!?)
任務の話は?
安全の忠告は?
なぜ突然こうなる。
「わ、私は別に、そんな……」
しどろもどろ。
言葉が迷子。
ラインは微かに首を傾げる。
「ご迷惑でしたか」
静かな問い。
責める響きはない。
それが余計に困る。
「め、迷惑とかじゃなくて……!」
必死に否定する。
でも肯定もできない。
顔が真っ赤だと自覚している。
ラインはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
楽しんでいるわけではない。
ただ——
本気で好意を抱いている男の顔。
「困らせてしまいましたね」
やわらかい声。
「ですが、撤回はいたしません」
真っ直ぐ。
逃げない。
ベルはついに両手で顔を覆った。
「ちょっと……ほんとに待ってください……!」
食堂のざわめきが遠い。
紳士的に口説かれる。
逃げ場がない。
ラインは視線を逸らさない。
「もちろん、突然のことで戸惑われるのは当然です」
落ち着いた声。
「ですが、私は軽い気持ちで申し上げているわけではありません」
一歩。
言葉が近づく。
「あなたが危険に飛び込んだ理由も、今こうして困っている姿も——」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ベルが慌てて手を振る。
「えっと、その、そういう話よりも!」
必死に話題を探す。
「あの、王都騎士団って普段どんなお仕事してるんですか!?」
我ながら苦しい。
ラインは一瞬だけ瞬きをする。
だがすぐに微笑む。
「治安維持、貴族の護衛、時に魔物討伐など」
丁寧に答える。
「ですが今は、あなたの話をしております」
逃げ道が塞がれる。
「そ、それより宿のこととか!」
「ご安心ください。手配は済んでおります」
即答。
隙がない。
ベルの肩がぴくりと跳ねる。
「え、もう!?」
「はい。あなたが断られて出てこられた時点で」
さらりと言う。
観察されていた事実に、顔がさらに熱くなる。
「み、見てたんですか……?」
「失礼のない距離は保っていたつもりです」
柔らかな謝意。
だが後退はしない。
「ベル殿」
声が少し低くなる。
真剣。
「あなたの迷惑にならぬ範囲で構いません。時間をください」
正面から。
逃げない瞳。
ベルは視線を右へ左へとさまよわせる。
どう断る。
どう濁す。
「わ、私、そういうの全然慣れてなくて……!」
本音が出る。
ラインの目がわずかに和らぐ。
「存じております」
「な、なんで!?」
「今のお姿で」
穏やかな断言。
ベルはぐっと言葉に詰まる。
「そ、それは……!」
言い返せない。
ラインは押さない。
だが退かない。
「急がせません」
一拍。
「ですが、諦めもしません」
静かな宣言。
ベルの心臓がどくんと鳴る。
(なんでこんなに堂々としてるの……!)
軽くあしらえない。
冗談にもできない。
真正面から、誠実に好意を向けられている。
ベルはついに視線をテーブルへ落とした。
「……ずるいです」
小さく呟く。
ラインは首を傾げる。
「何がでしょう」
「そんなちゃんとした顔で言われたら……」
言葉が続かない。
食堂のざわめきが戻ってくる。
ベルの耳まで赤い。
ラインは静かに息を吐き、わずかに微笑んだ。
「では」
声が柔らかく落ちる。
「まずは食事を。冷めてしまいます」
逃がさない。
だが追い詰めもしない。
包囲されているのに、優しい。
ベルはパンをぎゅっと握ったまま、小さく呻いた。
ベルはパンを握ったまま、視線を上げられない。
「……本当に、急がなくていいんですか?」
小さな声。
ラインは即答しない。
ほんのわずかに間を置いてから、
「はい」
と頷く。
「あなたが私をどう思うか。それはあなたの自由です」
言葉は穏やか。
だが視線は逸らさない。
「ただし」
ベルの指が止まる。
「私があなたを想う自由も、どうかお許しください」
静かに踏み込む。
ベルの耳がまた赤くなる。
「そ、そういう言い方ずるいです……!」
「事実を述べているだけです」
涼しい顔。
ベルは慌てて水を飲む。むせる。
ラインは自然な動きで布巾を差し出す。
距離は近すぎない。
だが遠くもない。
「落ち着いてください。私はあなたを困らせたいわけではない」
「十分困ってます……!」
本音が漏れる。
ラインの口元がわずかに緩む。
「光栄です」
「光栄じゃないです!」
完全に振り回されている。
ベルは必死に話題を探す。
「え、えっと……騎士団って、恋愛とか自由なんですか?」
「規律はありますが、禁じられてはおりません」
「そ、そうなんですね……」
失敗。
「むしろ」
ラインが続ける。
「守るべき人がいると、人は強くなれます」
まっすぐ。
「私は、強く在りたい」
それは口説き文句のようでいて、
騎士としての本音でもある。
ベルは思わず顔を上げる。
その瞳は冗談を言っていない。
からかってもいない。
ただ、真剣。
(……この人、本気だ)
逃げたい。
けど、
逃げきれない。
「……あの」
ベルはぎゅっとパンを置いた。
「わ、私……強い人とか、立派な人とか、そういうのじゃなくて」
声が少し震える。
「普通、なんです」
ラインは静かに聞いている。
「だから、その……期待されると、困ります」
やっと言えた本音。
沈黙。
数秒。
ラインはゆっくりと首を横に振る。
「私は、あなたを理想像として見ているのではありません」
一歩も引かない声。
「困って、慌てて、今も逃げようとしているあなたを見て——」
一瞬、目が細くなる。
「惹かれたのです」
真っ直ぐすぎる。
ベルの思考が止まる。
(逃げ場がない……!)
「……どうして、そんなに」
かろうじて絞り出す。
ラインは、ほんのわずかに柔らかく笑った。
「理由が必要でしょうか」
静かな断言。
ベルは言葉を失う。
食堂の外で風が鳴る。
胸の奥がざわつく。
断らなきゃいけない。
でも。
「……すぐには、お返事できません」
やっと出せた答え。
ラインは、迷いなく頷いた。
「承知しております」
それだけ。
責めない。
急かさない。
だが確実に残る。
「では」
椅子をわずかに引く。
「私は待ちます」
その言い方がまた重い。
ベルは小さく呻いた。
(なんでこんな人に……!)
困惑は消えない。
けれど、
ほんの少しだけ、
胸が静かに温かい。
ラインは椅子を引き、静かに立ち上がった。
「本日はお時間をありがとうございました」
深くはない、だが整った一礼。
「お返事は急ぎません」
それだけ告げると、余計な言葉は残さない。
去り際まで、背筋は伸びたまま。
金の髪が窓の光を受けて揺れ、
扉が閉まる音が、やけに小さく響いた。
⸻
案内された部屋は二階の角。
簡素だが清潔で、窓からは街並みが見える。
木の床。
白いシーツ。
小さな机。
ベルは扉を閉めると、背中を預けて、ふう、と長く息を吐いた。
「……なんなの、あの人」
呟きながら、ゆっくりベッドに腰掛ける。
心臓はもう落ち着いている。
でも、
胸の奥が、静かにざわざわしている。
真っ直ぐだった。
からかいも、遊びもなかった。
「一目惚れ、って……」
自分で言葉にして、顔が熱くなる。
枕に顔を埋める。
ばたばたと足を動かす。
子供みたいだ、と自分で思う。
でも。
(あり、かなしで言ったら……)
枕から顔を出す。
窓の外に視線を向ける。
(……あり、なんだよね)
優しかった。
ちゃんとしてた。
強くて、立派で、
でも威圧的じゃなくて。
自分を見てくれていた。
あの真っ直ぐな瞳を思い出すと、
胸がじわりと温かくなる。
「……恋、とか」
ぽつり。
自分がそんなことを考える年頃だってことは、わかっている。
街で手を繋ぐ男女を見ると、
少しだけ羨ましいと思ったこともある。
もし。
もし誰かを好きになれたら。
誰かに好きだと言われたら。
「……してみたい、よね」
小さく笑う。
怖いけど。
でも、嫌じゃなかった。
困ったけど、
逃げたくなるほどではなかった。
ベッドに仰向けになる。
天井を見上げる。
(でも……)
少しだけ、胸が曇る。
自分は普通じゃない。
誰かと“普通”に並べる存在なのか。
ふと、指輪に触れる。
冷たい感触。
「……こんな私で、いいのかな」
ぽつりと零れる。
答えは出ない。
でも今はまだ、
返事をしなくていいと言われた。
それが、少しだけ救いだった。
窓の外で、陽がゆっくりと傾いていく。
部屋の中の光が、わずかに色を変える。
ベルは目を閉じる。
胸の奥に残る、静かな温度を抱いたまま。




