ー夜と朝で入れ替わるー
ベルは静かに席を立ち、代金を支払う。
「ごちそうさまでした」
それだけ告げると、店を後にした。
背後から青年の視線をわずかに感じた気もしたが、振り返らない。
王都の通りへ踏み出す。
石畳を踏む足音。
商人の呼び声。
焼き立てのパンの匂い。
行き交う人々のざわめき。
高い建物の間から差し込む陽光を、ベルは無意識に見上げた。
「……広いな」
小さく呟く。
これからどう動くか。
教会へ戻るか。
街をもう少し見て回るか。
それとも——
ふと、視界の端で影がわずかに伸びた気がした。
気のせいか。
歩きながら、自然と時間が流れる。
やがて——
西の空が、ほんのわずかに赤みを帯び始めた。
太陽はまだ地平線の上。
だが光の色が、ゆっくりと変わっていく。
ベルの歩調が一瞬だけ止まる。
胸の奥で、静かな“切り替わりの予兆”が走る。
指輪が淡く光を反射する。
呼吸が深くなる。
意識の奥で、何かが静かに沈み——
世界の色が、ほんのわずかに変わった。
意識の奥に広がっていた感覚が、ゆっくりと遠ざかる。
代わりに——
深く、静かな水面のような感覚が浮かび上がる。
まぶたの裏で世界が一度途切れ、
次の瞬間。
呼吸の質が変わった。
立っている姿勢がわずかに低くなり、重心が安定する。
風に揺れるのは黒髪ではない。
銀色の髪が、夕暮れの光を受けて静かに光る。
目つきが鋭さを帯びる。
同じ場所。
同じ身体。
だが空気が明確に変わった。
銀髪の少年はゆっくりと周囲を見回す。
「……あ?」
低く、少し面倒そうな声が漏れる。
「なんか騒がしいな」
記憶はそこにない。
ただ、空気のざわつきと周囲の視線だけが情報として残っている。
少年は首を軽く回し、指輪へ目を落とす。
「……まあ、いいか」
深く考えず、足を踏み出した。
夕暮れの王都に、もう一つの存在が静かに溶け込んだ。
夜の王都。
通りにはまだ人の流れがある。
街灯の光が石畳を淡く照らしていた。
銀髪の少年は、特に目的もなく歩いている。
その前方で——
ガタン。
重い音。
荷車が石の段差に乗り上げ、車輪が空転する。
積まれていた木箱がゆっくりと傾き、崩れ落ちそうになる。
「うわっ!」
荷主の男が慌てて手を伸ばす。
だが支えきれない。
木箱が滑る。
その下に、小さな子供がいる。
少年の足が止まる。
一瞬。
次の瞬間、地面を蹴った。
音より早い。
傾いた荷車の側面へ滑り込み、片手で木枠を掴む。
もう片方の腕で落ちかけた箱を受け止める。
そのまま体を使って、押し戻すように力を込める。
ギギ、と木が軋む。
荷車がゆっくりと安定した位置に戻った。
静寂。
少年は手を離す。
「……次から気をつけろ」
短く言う。
荷主の男は目を丸くして固まっていたが、すぐに頭を下げた。
「た、助かった……!」
少年は返事をしない。
礼にも興味を示さない。
ただ何事もなかったように、再び歩き出す。
周囲の視線が少しだけ残る。
だがすぐに日常へ溶けていく。
荷車が元の位置に戻り、騒ぎはすぐに日常へ溶け込んでいく。
銀髪の少年は一度だけ周囲を見回し、それ以上何もなかったかのように歩き出した。
その様子を——
少し離れた場所から見ている人影があった。
柱にもたれかかり、最初から一部始終を眺めていた女性。
年は少年より少し上。
落ち着いた立ち姿で、じっと背中を追っている。
少年が近くを通り過ぎようとした、そのとき。
「ねえ」
軽い声がかかった。
少年の足が止まる。
視線を向ける。
女性は柱から背を離し、ゆっくりと一歩近づいた。
「さっきの、見てた」
口元にうっすらと笑み。
「迷いなかったね」
少年は表情を変えない。
「……何だ」
低い声。
女性は肩をすくめる。
「別に取って食おうってわけじゃないよ」
視線がまっすぐ向けられる。
「ただ、ああいうの見ちゃうと気になってさ」
一歩、距離を縮める。
「名前、教えてくれない?」
軽い口調。
だが目は本気で、興味を隠していない。
少年は一瞬だけ無言で見返す。
面倒そうな空気。
だが——
「……ベル」
短く答えた。
女性の目がわずかに細まる。
「ベルね」
満足そうに繰り返す。
「覚えた」
少し間を置いて、女性は軽く首を傾げた。
「ねえ、ベル」
声の調子が柔らかい。
「このあと暇?」
少年は即答しない。
じっと相手を見る。
「なんでだ」
「別に」
女性は肩をすくめる。
「ちょっと話してみたくなっただけ」
一歩近づく。
「どっか行かない?」
その言葉に、ベルの眉がわずかに動いた。
「……あんた、なんか奢ってくれるのか?」
素直というより、少し期待が混じった声。
女性は目をぱちっと瞬かせ——
すぐに笑う。
「いいよー? 奢っちゃう」
あっさり。
その返答に、ベルの口元がほんの少し緩む。
「……じゃあ、行く」
迷いはない。
女性は嬉しそうに手をひらりと振る。
「決まり」
並んで歩き出す。
少年の歩幅に合わせて、女性が自然に隣へ。
夜の通り。
偶然の誘い。
ただの気まぐれと、ほんの少しの好奇心。
まぶたを開く。
見慣れない天井。
木の梁。
朝の光がぼんやり差し込んでいる。
……ここ、どこ?
体を起こそうとして——
横に温もり。
動きが一瞬で止まる。
ゆっくり視線を落とす。
隣に、女性。
しかも距離が近い。
「…………」
思考が完全に止まる。
数秒。
いや、十秒くらい。
状況を理解するより先に、体温が一気に上がる。
「え……?」
声が裏返る。
慌てて自分の服を確認する。
乱れてない。
乱れて……ないよね?
手が震えながら布地を掴む。
大丈夫。
でも大丈夫って何が大丈夫?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「ちょ、待って……」
小声で呟く。
昨夜の記憶を引っ張り出そうとする。
でも——
何も出てこない。
「……わかるわけないよねー」
顔が熱い。
心臓がうるさい。
自分の知らない間に、何が起きたのか。
隣で眠る女性を見下ろす。
どう見ても“ただ寝ている”だけ。
危険な雰囲気はない。
それが逆に怖い。
「……あいつ……」
小さく呟いて、両手で顔を覆う。
「ほんと、なにしてんのよ……!」
怒り半分。
恥ずかしさ半分。
布団をぎゅっと握りしめる。
そして——
深呼吸。
落ち着け。
今叫んでも何も変わらない。
まずはここを出る。
そう決めて、そっとベッドから降りた。
足音を立てないように。
できるだけ静かに。
起きる気配はない。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か分からない。
小さな謝罪を残して、部屋の扉へ向かう。
扉に手をかける。
ゆっくりと開ける。
外の空気が流れ込む。
そのまま足を踏み出し——
静かに部屋を後にした。
まずは宿を探す。
そして、次はこんな朝を迎えない。




