第四章 霞む狙い
「……ねえ、ホンウィ。批答の内容、変えた?」
翌日、性懲りもなく呼び出した錦城は、ホンウィの示した批答を見るなり開口一番問うた。
「うん。俺の考えだから、そのまま書いて大丈夫」
執務室ではなく、康寧殿の私室で執務に向き合いながら、ホンウィは答える。
内容としては、『よく考えてみるから、そっちも人間は皆平等ということについて考えてくれ』という、昨日大臣たちに向けて言ったことそのものだ。
「……てゆーか、呼び出しといてナンだけど、叔父上たちこそ俺の手伝いに来てヘーキか?」
「ホンット、呼び出しといてよく言うな」
はっ、と鼻息だか溜息だか分からない吐息に乗せて答えたのは、永豊君だ。
「だって、昨日首陽叔父上があんなこと言ってたから気になって……」
あんなこと、とは、首陽が去り際、捨て台詞のように言っていた、『今後一切ホンウィの手助けはしないよう弟たちに申し渡す』というアレだ。
「気になったらフツー呼び出すか?」
いい加減、怒鳴るのにも疲れたらしい。永豊君の口調は、先日とは違って静かだ。しかし、声には呆れが混じっているのは否めない。
ホンウィは首を縮めて口ごもる。
「う、まあその、それとこれとは別っていうか……」
「大丈夫大丈夫。何だかんだ言って、あれで首陽兄上だってホンウィが可愛いんだから。ちょっと思い通りにならなかったから意地悪したくなっただけだよ」
「だけって……」
ホンウィは、少々唖然とした。それがもし本当だとしたら、やっぱり大人気なさ過ぎる気がしないでもないが。
「首陽兄上のフィジ兄上に対するあれこれ聞いたあとでもそれ言う?」
のほほんとした錦城の言葉に、永豊君のやはり呆れたようなツッコミが入る。
「うん、ごめん。冗談」
クス、という笑いと共に、錦城は肩を竦めた。
「たださー。手伝うなとは言われたけど、もし手伝ったら何かされるとかは特に言われてないし、第一皆もういい大人なんだから、兄上に禁止事項出されてハイそうですかって従う年でもないでしょ」
言いながら、錦城は批答を書いた上疎を処理済みの箱へ放り込む。
「案外、孝那はそういう年かもだぜ」
永豊君は苦笑混じりに返すと、批答を書き上げたと思しき上疎の巻物を箱へ放った。
ヒョナ――李華恋こと、貞安翁主は、祖父・世宗の、一番末の娘である。ヒョナというのは彼女の字だ。
ホンウィにとって、彼女は叔母に当たるが、実は同い年で二ヶ月ほどしか違わない。ホンウィにしてみれば、ほぼ双子の姉のようなものだ。実姉の敬惠や敬淑から見ると、貞安は叔母なのに年下である。
王室の長である王は通常、正妃のほかにも、側室として妻を何人も持つので、必然腹違いの兄弟姉妹が増えれば、こんなことも起きる。
もっとも、祖父の子供たちが全部で二十五人いるのに比べたら、ホンウィの兄弟姉妹は、これから生まれる予定の赤子を含めても、八人と少ない。その少ない内の大半が、幼くして亡くなっているし、その亡くなった姉や弟妹たちとはほとんど付き合いもなかった為、ホンウィの感覚としては、自分は最初から三人姉弟の末っ子なのだった。
(……そう言えば、ヒョナ姉も末っ子だっけ)
ふと考えるともなしに思う。公式の場では叔母と呼ぶが、私的な場でそう呼ぶと怒られるので(同い年の少年から『叔母上』などと呼ばれれば無理もないが)、普段は字に姉を付けて呼んでいる。
「まあ、ファリョンも十一になったばっかりだしね。それに女の子だし、いくらホンウィのこと弟みたいに思ってるからって、批答書き手伝う発想なんてないでしょ」
「あら、聞き捨てならないわね、錦城兄様」
先触れもなく、唐突にその場にいなかった者の声が割り込んだ。鈴の鳴るような声音と共に私室へ入ってきたのは、貞安その人である。
「げ、ヒョナ」
「げ、とは何よ、げ、とは。ご挨拶ね、ヒョク兄様」
勝ち気そうな瞳が、思わず零した永豊君をジロリと見据えた。しかし、永豊君も怯む様子はない。眉根を寄せて、肩を竦める。
「言いたくもなるだろ。よりによって王殿下の私室に先触れもなく、仮にも先々代王の王女が……」
「はしたない、とか言うわけ?」
再度、永豊君に鋭い視線が向く。異母妹に思い切り睨まれた彼は、「おお怖」と言いつつ、もう一度肩を上下させた。
「……ところで、ヒョナ姉。何か用?」
書き上げた批答を乾かす為に床に置いて、手を止めたホンウィは彼女に目を向ける。
双子の弟に近い感覚の甥にまで素気なくあしらわれた彼女は、すっかりお冠で唇を尖らせた。
「もーっ、ホンウィまでそんなこと……手伝いに来たに決まってるじゃない」
憤然と言った貞安は、唐衣の前身頃の下に入れていた手を腰に当てる。
「って、首陽叔父上、まさか本当にヒョナ姉にも手伝うなとか釘刺しに行ったのかよ」
王族とは言え、本来女性は政治には関わらないものだ。ホンウィ個人としては、そういう偏見を持っているつもりはないが、首陽が要らぬ釘を刺しに行ったのかと思ったのも事実だった。
しかし、貞安は速攻で「そんなわけないでしょ」と切り返してくる。
「じゃあ、何で……」
「昨日、ファリョンの誕生日だったからね」
答えたのは、錦城だ。
「まあ、フィジ兄上の喪中だし、そんなに盛大に宴とかできなかったけど、きょうだい皆で集まって、ささやかにお祝いしたんだ」
「で、せっかく皆が集まったからって、首陽兄上が昨日の朝会であったこと、サラッと話したわけ」
永豊君も、説明に加わる。
「敬惠姉様と敬淑姉様も来てくれたのよ」
にっこり笑った貞安は、空いた場所を探して腰を落とした。彼女の身に着けた、薄緑色の豪奢なチマが、フワリと花弁が滑るように広がる。
貞安にとっても、年上の敬惠たちを姪として遇することは難しいらしい。だからか、私的な場では彼女たちを、王女名に『姉様』と付けて呼ぶ。
「……うわー。悪い、ヒョナ姉。すっかり忘れてた」
ホンウィは軽い目眩を覚えて、掌へ顔を伏せた。このところ、自身のことで手一杯で、ヒトの誕生日まで気を配る余裕もなかった。
だが、貞安は「いいのよ」と首を振る。
「ホンウィはお父様を亡くしたんだもの。それだけじゃなくて、国王に即位したりして色々大変でしょ」
快活に輝いていた顔が、僅かに曇った。
彼女自身、二年前に彼女にとっての父親を亡くしている。それを思い出したらしい。
「けど、父上を亡くしたのは、敬惠姉上たちだって一緒なのに……」
自分だけ忘れていたのだ。何とも恥ずかしい気がする。
「本当に気にしないで。敬惠姉様や敬淑姉様は国事まで担ってるわけじゃないから、多分それだけ余裕があったのよ」
「その国事も、当分お預けだけどな」
吐息混じりに答える。
インやチョンソたちはああ言っていたが、実質ホンウィがすることは何もないだろう。ただ、まだ一夜明けたばかりで、執政を第三者に肩代わりして貰う状態が実際にはどんな感じなのかが、まるで見当がつかない。
「ねえ、それなんだけど」
錦城がふと、思い付いたように口を開いた。
「本当にホン貴人様に任せることにしたの?」
「は?」
新たな上疎を開こうとしていた手が止まる。
「え、何……どういう意味?」
「首陽兄上が言ってたんだ。ホン貴人様を嬪に昇格する儀式をして、彼女が垂簾聴政を行うことになるだろうから、しばらくは僕たちきょうだいも口を出さずに見守ろうって」
「……じゃあ、別に手伝うなって、高圧的に言われたんじゃないってことか?」
パタリと音を立てて、文机に上疎が落ちた。色んな意味で唖然とするしかない。随分、柔らかい物言いだ。
思わず、貞安のほうへ視線を向けた。
「ヒョナ姉、今のホントか?」
問う声が意図せず鋭くなる。その所為か、貞安は瞬時、怯えたように表情を強張らせた。
「……あ、ごめん。びっくりさせて」
「……ううん、大丈夫。本当よ。別に首陽兄様も、あなたのこと怒ってるわけじゃないのよ、ただ――」
『――私が、先走り過ぎたのだ』
そう言った首陽は、寂しげな微笑を浮かべていたらしい。
『あの年にして両親を失ったあの子が、あまりにも哀れで、私が守ってやらねばと……そう思う気持ちが強過ぎたようだ。今でもあの子を我が子と思っているが……いつまでも幼い、判断力がないと侮ってもいたのかも知れぬ』
自嘲するように言った首陽は、朝会であった出来事を、その場にいたきょうだい全員に聞かせたという。ちなみにその時、敬惠と敬淑は不在だったようだ。
『幸い、垂簾聴政にはホン貴人様も賛同してくださっている。私以上にホンウィを大事に思ってくださる方だ。お任せしても悪いようにはなさるまい』
『でも、兄上』
そこへ、錦城が口を挟んだ。
『垂簾聴政って簡単に言うけど、実際には、ウチの国ではまだ先例がないでしょ。たまたまホンウィがまだ十歳で即位したから考えなきゃいけなくなったわけだけど、フィジ兄上は父上の在位中から代理聴政してたし、父上もお祖父様も、即位された時はそんな子どもっていう年じゃなかったし、大伯父上の場合も即位された時は成人されてた。その前って言ったら、もう初代の殿下だ』
『だが、高麗やその前の王朝、明国の例に倣えば、さして難しいことでもないだろう。新羅の国では、女人の王が立っていた時代さえある』
亡き世宗の第三王子・安平大君が話に加わる。
『ただ、それらの例では、垂簾聴政の権限を持つのは、代々王の正妃だけだ。それを思うと、中々に我が国の状況は悩ましくはあるが……』
『だからって、大臣が実権握るのはどうかと俺も思うけどなー』
軽く酒杯を引っ掛けながら言ったのは、第四王子・臨瀛大君こと、李璆だった。
「……もう、溜息が出ちゃった。まるで私の誕生日をダシに、政治談義に来たみたいだったもの」
唇を尖らせた貞安に、錦城が眉尻を下げた。
「ごめんね。そんなつもりはなかったんだ。多分、首陽兄上もね」
優しい顔立ちの錦城に、心底申し訳なさそうな顔で謝られると、誰も文句を言えない。貞安も、例に漏れなかったらしい。
「……別に。錦城兄様が謝ることじゃないけど」
まるで、彼女のほうが悪いことをしたような顔つきになって、ボソボソと返す。
「じゃあ、ヒョナ姉は何を手伝いに来たんだ? 別に俺が批答書きに追われて死にそうだなんて、聞いてないんだろ?」
すると、貞安は「うん、聞いてないわ」と言いつつこちらへ視線を戻した。
「ただ、朝会の様子を一通り首陽兄様がお話なさったから、嫌でも耳に入ったのよ。詳しいことは分からないけど、あなたがすごく苦労してるように聞こえたの。私の誕生日に顔も出せないくらいだから深刻なんだろうなって思ったから、様子を見に来たの」
「……やっぱりさり気なく嫌味言ってる?」
どうにも自虐的な気分になっているのか、それとも単にひがみなだけか。投げるように訊きながら、上疎の巻物を開いて、差出人を確認する。昨日の内に議政府から届いた、批答を書かなくてよい者が纏められた目録の中身は、すっかり暗記してしまった。
目録にない名前なのを確認し、新しい紙を取り出して筆を執るホンウィに、貞安が慌てたように「ちっ、違うわよ!」と猛然と否定した。
「そんな、一回の誕生日にお祝いに来られないくらいで怒るほど、私心狭くないから!」
しかし、彼女が自己弁明すればするほど、なぜか逆のことを言っているように聞こえてしまう。
「ただ、様子見に来たら、ヒョク兄様はヒョク兄様で私のことまだ赤ちゃんみたいに言ってたし」
チラリと貞安が視線を向けた先で、永豊君が「うっ」と声を詰まらせている。
「べっ……別に赤ちゃんだなんて言ってないだろ」
「そうかしら」
ジロリと永豊君を睨んだ貞安の目線は、錦城に転じられる。
「錦城兄様だって同じよ。私の頭が空っぽみたいな言い方して」
「……ごめんね。そんなつもりはなかったんだけど」
「さっきと同じ顔で同じ台詞言われたって、謝られてる気しないんですけど!」
プン、と横を向いて、貞安は完全にお冠だ。けれども、錦城は殊更宥めるようなことも言わなかった。
何だかんだ、錦城と貞安の年齢差は、彼とホンウィとのそれと同じだ。下手をしたら、錦城にとっての貞安は、娘に近い感覚があっても不思議はない。
相変わらず柔らかな微笑を浮かべて、「うん、ごめん」と畳み掛ける。
「ただねぇ、ファリョン。そろそろ、本格的に手伝うか帰るか決めてくれる? 手ぇ動かしてないの、君だけだよ?」
「え」
指摘された貞安は、目を瞬いて周囲を見る。彼女の視線は、錦城から永豊君へ移動し、最後にホンウィで止まった。
「あっ、ごっ、ごめんなさい、ホンウィ! 何すればいい!?」
「……ヒョナ姉の書く文字の水準によるけど」
胡乱気な流し目をくれると、貞安は思い切り眉尻を吊り上げる。
「まっ、失礼ね、ホンウィまで!」
「あはは、その辺は大丈夫じゃないかな」
小さく笑って、錦城が助け船を出した。
「王室にしちゃ変わってる父上の教育方針は、ホンウィだって知ってるでしょ? ウチの父上も口には出さないけど、割と男女平等派だからね。自分の子全員、それこそ王子も王女も関係なく、読み書きと四書五経満遍なく叩き込んでくれたよ」
「……あー……そういや、姉上たちもやらされてたっけ」
頬杖を突いて、姉たちが四書五経の暗誦に四苦八苦しているのを横目で眺めていた記憶を振り返る。
「そゆことなら安心だわ。じゃ、ヒョナ姉。そこの目録とつき合わせて、名前がないやつはこれ……」
「そゆことなら安心て、どーゆー意味ッッ!?」
「言葉のとーりだよ。はいはい、手動かして」
コケにされたように思ったのか、貞安は思う様頬を膨らした。しかし、やがて溜息と共に膨らした頬を戻し、上疎と批答用の紙を受け取った。
***
その後、点心の時間に出されたおやつを、今度は四人で摘みながら上疎と取っ組み合った結果、その日の内に、残り箱二つ分まで上疎は減った。
都在住の儒者・儒生の分を、仕上がる端から本人に届けるよう手配し、地方在住の者の分は、昨日仕上げた批答と共に送る手続きを済ませて、ホンウィはホッと息を吐いた。
「――錦城叔父上。ヒョク兄もヒョナ姉も助かったよ。ありがとな」
「いいのよ。明日も来るからね」
見送る為に立ち上がって向けた視線の先で、貞安の顔が微笑する。
「明日で一応完了かな。明日は、和義兄上も連れてくるよ」
錦城の口から出たその名に、ホンウィは眉をひそめた。
和義、こと和義君は、諱を李瓔という。祖父・世宗の第六王子で、錦城たちには腹違いの兄だ。漢字の書体の一種である草書と隷書に長けているので、文字の上手さという点に於いてはまったく問題ない。しかし。
「……俺、あの人苦手かも」
「ええー、何で?」
「臨瀛叔父上も。二人とも、女関係であんまいい噂聞かねえし」
若干唇を尖らせて、吐息を漏らす。
今は亡き叔父・平原大君の側室を寝取ったとか、臨瀛と共謀して女性を男装させて宮殿に招き入れようとしたとか、そんなこんなで世宗の存命中に何度か王子位を剥奪されたり、所有している田畑を没収されたりしている。臨瀛も同じだ。
世宗の息子の中でも、この二人はとにかく女癖がよろしくない。
「分かる!?」
途端、貞安が食い付いた。
「もー、もっと言ってやってよ。お父様なんて、特に臨瀛兄様には甘々なんだから。最初に王宮の侍女と私通した時は黙認だったし、錦江梅って妓生を妾にした時なんて『正直に言うのが好感持てる』とか何とか言っちゃって、結局そのまんま側室扱いよ。妓生が仮にも王子の側室になるのが許されるってどうなのって感じよね」
民間で育ったとは言え、この辺りは貞安も王族気質が抜け切っていない。
ホンウィとしては、側室本人の出自よりも、女性と見れば見境のないほうが問題だと思うが。
「ホンウィ」
錦城が、困ったような微笑を浮かべて、床に膝を突いた。目線を合わせて、ホンウィの肩先に手を置く。
「女癖が悪いかどうかなんて、一面だよ。だからって、僕も兄上たちのやったこと肯定するわけじゃないけど、それでその人の全部を否定するのもどうかと思うな」
「錦城叔父上は人が良すぎんだよ。まあ、自分の兄上たちの悪口言いたくないのは分かるけど」
錦城は、眉尻を下げて苦笑すると、ホンウィの肩をポンポンと優しく叩いた。
「分かったよ。僕たちだけでも明日中に片は付くだろうから、和義兄上には声を掛けない。それでいい?」
瞬間、ホンウィはハッとした。
「……ごめん」
よく考えれば、我が侭を言って叔父たちに迷惑を掛けているのは、自分のほうなのだ。応援を呼んでくれるというのにそれを断るのは、筋が通らないかも知れない。
だが、錦城は「ううん」と首を振った。
「僕こそ、ごめんね。あれだけ叔父上と叔母上がいたら、中には気の合わない人もいるよね。僕の配慮が足りなかったよ」
「違う、叔父上は悪くない」
ホンウィも、首を横に振る。悪いのは、未熟な自分だ。この先、王として玉座に座る限り、苦手な人間と巧くやっていかなくてはいけないことは山のように出て来るだろう。
気に染む人間ばかり重用していては、その内独裁政権ができあがってしまう。そんな恐ろしいことはない。
「……いいんだ、ありがとう。さっきのは忘れてくれ。和義叔父上にも……叔父上の都合が付けば来て欲しい」
「そう? 本当にいいの?」
「うん」
自嘲するように言って、肩を竦めた。
今からこれでは、我ながら将来が思いやられる。助けてくれるという手を、自分の価値観に合わない面もある相手だからと突っぱねていてはだめだ。
以前にも一度、首陽の手を撥ね除けたことが、彼との間がギクシャクし始めた一因でもあるのだから。
「明日一日は、和義叔父上の女癖の悪さを忘れることにするよ」
錦城は、困ったような微笑を消した。ただじっと静かな表情でホンウィを見つめ、やがて「分かった」と頷く。
「連れてくるとは言ったけど、和義兄上の都合によっては兄上は来ないかも知れない。けど、ホンウィがそう言うなら、可能だったら連れてくるよ」
「うん。ありがとう」
唇の端を淡く吊り上げると、錦城も微笑を返してくれる。もう一度、ホンウィの肩を叩いた錦城は立ち上がった。
きびすを返した三人を外まで見送って、私室に戻ったホンウィは、文机の前に腰を下ろして頬杖を突いた。
批答は錦城の言う通り、明日中にはどうにかなるだろう。だが、次の問題が待っている。貴人ホン・ユナのことだ。
(……昇格は、チョンソの言った通りにしてやるとして……垂簾聴政の件はどうするか……)
いや、とホンウィは首を振った。答えは出ている。
個人の好き嫌いの問題ではなく、あくまでも彼女の人柄の問題だ。彼女に乳を貰っておいて、よく同じように自分の根性がひん曲がらなかったと感心するくらい、彼女は自身が好意を持つ者に対する執着と支配欲が強い。
それでいて公にはそれを感じさせないのだから、彼女こそ首陽に劣らぬ二重人格者だ。
(……いや……首陽叔父上も、本当に二重人格者なのか)
貞安の話を聞いて、ホンウィはまたも揺れていた。
彼女の誕生日に集った内輪の中での話――その時、首陽が口にした言葉が、彼の本心だとしたら。
(俺だって……あんたをもう一人の父上と思ってるのに)
ならばどうして、彼は嘘を吐くのだろう。
父が亡くなった日の朝、思政殿の南回廊に自身がいたことを、なぜ隠したがるのか。
彼自身が言うように、ホンウィを侮っていたからか。では、今はどう思っているのだろう。
小さな可愛い――と言えば聞こえはいいが、要は自分のいいように操れる人形と、今も思っているのか。子は親の人形でいなければいけないのか。個人の人格を持った、一人の人間と認めて貰えないのか。
ホンウィは、机に突っ伏した。
一度は決定を下したことが、何度目かで脳裏を巡る。
状況証拠が、首陽が父の死に関わったと示しているのに、首陽本人の証言だけがそれを否定している為に、不公正に終わった裁可。そのたった一つの証言に縋り付きたがる自分に嫌気が差した。
首陽の目的が見えない。
可愛い、我が子と思っていると言ったかと思えば、ホンウィに無断で批答を処分したり、ホンウィの考えを真っ向から否定する。そして、自身は思政殿の南回廊にはいなかったと嘘を吐く――
永豊君の言った通り、首陽は本当に王位を狙っているのか。返す返す、世宗本人に見解を聞く機会がなかったことも悔やまれる。
(……貴人に垂簾聴政させてどうするつもりだ……貴人のほうを操る気か?)
最初にホン貴人の垂簾聴政を提案した時、首陽は『自分が付いているから安心しろ』と言っていた。つまり、そういうことなのだろう。言葉通りに受け取るなら、の話だが。
だとしたら彼女の、先代王の正妃への昇格だけは絶対に認められない。
それに、気になることもある。父の側室たちの、不自然な昇格のなさ――
(……そこから始めるか)
ひとまず明日以降から取り掛かることを決めると、ホンウィは長座布団の上にゴロリと転がった。
©️神蔵 眞吹2019.




