第三章 彼らの真意
その場が静まり返った。
「……今……何と仰いましたか……? 首陽叔父上」
ホンウィは、唖然とした気分で口に乗せる。
首陽は、平然とした表情で同じ言葉を繰り返した。
「内宮様に、先王殿下の正妃の座にお昇りいただいては、と申し上げました」
「バカな!」
叫んだのは、インだ。
「左様な前例はございませんぞ、大君様! でなくても、すでに殿下は我々に執政をお任せになると決定を下されました! いくら殿下の叔父君とは言え、国王殿下の決定に異を唱えるなど、許されませぬぞ!」
「だが、大臣に政務を任せるというのも同じく前例のないこと。これでは王権は骨抜きになると、先々代、世宗大王殿下の王子たちは皆、嘆いておりまする」
「しかし」
「殿下」
何か、インが言い掛けるのを無視するように、首陽はホンウィに向き直る。
「内宮様が先王殿下のご正妃に――つまり、大妃様におなり遊ばせば、代々の正妃に与えられた垂簾聴政の権限を行使するに、何ら支障はございませぬ。とは言え、突然王妃に上がられるのも前例なきことゆえ、まずは嬪〔王の側室最高位〕への昇格をご命じくださいませ」
「叔父上」
「手続きでしたら、ご心配なく。後程、惠嬪様辺りにお伺いを立てて」
「叔父上。申し訳ございませんが、お引き取り願えませんか」
毅然とした口調で遮ると、首陽は瞬時、表情を強張らせた。
「……これはまた、何故です。わたくしは、殿下の御為を思って」
「叔父上がこの場におられることが、すでに決まりに反しております。王以外の王族が執政に口を挟むことは、本来許されておりませぬ。これは、先々代の祖父上……世宗大王殿下がお決めになられたこと。叔父上をこの場に招じ入れたは、人数が人数だったので急場凌ぎのことです。また、先程は少々迷いましたゆえ、ここまでの発言を許してしまいました。私の不徳です。ですが、これ以上はどうか、ご遠慮ください」
「殿下」
首陽は、眉根にしわを寄せ、眉尻を困ったように下げた。次いで、縋るような目をしてホンウィを見上げる。
先刻まで、あんなに何も感じ取れない、冷えた表情をしていたクセに、自分が不利になると見るや、情に訴えようとしているのが手に取るようだ。
それを感じ取った途端、どうにかしてこの叔父を庇いたいと思っていた感情は、急速に遠退いていった。
「――叔父上。どうぞ、私が|甥としてお願いしている内に《・・・・・・・・・・・・・》、ご退出を」
(これで引き下がってくんなきゃ、次は王命として強制退出させることになるぜ)
内心で付け足したその真意を、目が合った瞬間に悟ったのだろう。
それまで縋り付くかのような表情をしていたものが、まるで何かの合図に応じるかのように無に切り替わった。
首陽は、決して鈍い男ではないのだ。
「……分かりました。では、殿下は叔父の助けなど要らぬと……この叔父ばかりでなく、他の叔父の助けも要らぬと仰っておいでなのですね」
「何……ですって?」
だが、やはり人生経験分はこの叔父のほうが上だった。それを悟った時には遅い。
「よく分かりました。それでは、弟たちにもそのように伝えましょう。今後一切、殿下の執政の手助けはするなと。たとえば、批答を書く手助けなど……も」
「叔父上っ……!」
まさか、この場でこんなことまで言われるとは、さすがに思わなかった。覚えず、反射的に立ち上がる。
だが、これ以上をこの場では言えない。首陽はどうか分からないが、ホンウィのほうは、だ。
うまい切り返しができず、反駁できずにいる内に、クスリ、と嘲るような微笑を浮かべた首陽が立ち上がる。
「では、わたくしはこれにて」
勝ち誇った表情で首陽は一礼し、きびすを返した。
ここが私的な場なら、追い掛けて殴り掛かっていただろう。けれども、仮にも朝の御前会議中という公式のこの場では、どうしようもない。
悔しさに、無意識に唇を噛み締めた。
(……つか、ガキ相手に大人気なさ過ぎだろ!)
内緒で批答書きを手伝って貰っていたのが、この場にいる大臣すべてに知れ渡ったのだ。何だか分からないが、死ぬほど恥ずかしく、いたたまれなかった。本気で倒れたくなる。
倒れる代わりに、拳を握り締めたまま、玉座に腰を落とした。
(……っくしょ、あのクソ叔父上、覚えてろよ!)
側頭部を掻き毟って暴れたくなるが、それも我慢した。この上、大臣たちの前で醜態を晒すことこそ、批答を手伝って貰っていたことがバレたことに、輪を掛けて恥ずかしい。
目を閉じて、深呼吸する。
覚悟を決めて瞼を上げると、目の前に座した大臣たちは皆、床に目を落としていた。その全員が、何とも言えない表情をしている。首陽が暴露した内容に、どう反応すべきか、すべきでないのかを逡巡しているのは明らかだ。
もう一度溜息を吐いて、ホンウィは立ち上がり、階を降りた。
「……あの、殿下」
やがて、恐る恐るといった口調で発せられた声音は、インのものだ。
「何だ」
「あの……」
声を掛けたものの、何を言っていいか分からない。そんな様子だ。
ホンウィは、もう何度目か分からない吐息を漏らして、先に口を開いた。
「ひとまず、執政に関しては、今この時よりそなたたちに預ける。何か、私の手が必要なことがあれば、その都度申すがいい。但し、それも半月後までだ」
「では、半月したら、殿下の親政をされるという意味でしょうか」
ホンウィとインのやり取りの間に気を取り直したのか、キム・ヂョンソが平時の声音で言った。
「いや。内宮様の昇格云々の話に紛れてしまった感があるが、そなたたちも私も、互いに考えることがあろう。今日明日の内に答えが出るとは思えぬし、かと言って、時間を取り過ぎても同様だ。だから、取り敢えず半月に区切ることとする」
一旦そこで言葉を切って、ホンウィは広間に視線を投げる。大臣たちは、相変わらず目を下へ向けていたが、今は耳をこちらへ向けているのが分かった。
「この半月の間――六月四日までに、そなたたちが考えることは、私の言った、人間は皆平等であるべきという考えについてだ。国の根幹がどうのとか、そういったことは抜きにして、少し考えてみてくれ。大臣としての立場が邪魔するようなら、考える時だけでいい。個人に立ち返って、私の言ったことを考えて欲しい。私も、そなたたちがこだわる身分と性別の差によって、人の扱いを変えるべきなのかを、真剣に考えてみる。今朝の会議は以上だ。次に私が臨席する会議は、六月四日の朝会とする。それと、領議政、左議政、右議政は、このあと執務室へ寄ってくれ。昨日まで私が手掛けていた仕事の引継をしたい」
「は、承知いたしました、殿下」
「承知いたしました」
指名された領議政ファンボ・イン、左議政キム・ヂョンソ、右議政オク・ガンベクが揃って頭を下げる。
それを見届けて、大臣たちの間を歩み出そうとしたホンウィを、「殿下、今少しお待ちを」と呼び止めたのは、サチョルだ。
「加えてやはり、内宮様の代理聴政の件、お考え直しいただけないでしょうか」
すると、ファクもサチョルに寄るように膝行する。
「左様です、殿下。でなくば、王権がこのあと衰退してしまわぬか、大臣一同憂えております」
ホンウィは、また一つ、漏らした吐息に乗せて「分かった」と告げた。
「但し、考えるだけで、内宮様に代理聴政を任せるよう変更するとは限らぬ。そこは覚えておいてくれ」
「ご英断、感謝いたします、殿下」
「感謝いたします」
揃って、約半数の大臣が頭を下げる。
なぜあの養母がこんなに人望を集めているのか、甚だ疑問だ。
(……それとも……首陽叔父上の推薦だからか?)
だとしたら、人望を集めているのは、養母ではなく首陽ということになる。そして、首陽を支持する人々はもしかしたら――とそこまで考えて、内心で首を振った。
(……いや。何考えてるんだ。仮に叔父上が王位を欲しがってるとしても、周りの人間までは……)
しかし、そういう意味での支持でないとなれば、やはり自分の年齢が、一番の問題なのだろう。
もちろん、ホンウィだとて、大臣たちの気持ちは分からなくはない。仮に、自分の今の年齢が倍の二十歳前後で、国の大臣として伺候していたと仮定して、代替わりした国の長が十歳前後の子どもだと聞かされたら、不安にならないほうがどうかしている。
(……まあ、年以外にも価値観とかズレまくってるし……)
だが、どれもこれも、今考えても詮無いことだ。
吐息を漏らしながら、ひとまず、先刻共に来るように促した三大臣に目配せする。彼らは、各々目で頷き返し、立ち上がった。
***
「――三人とも、座ってくれ」
昨日の内にざっと整理した執務室内は、昨日のままになっていた。
インとチョンソ、カンベクは、揃って「はい、殿下」と返事をして、長机のほうへ腰を下ろす。
ホンウィも、長机の一番端、上座に当たる席へ着いた。
向かって右手手前にイン、その向かいにチョンソと、チョンソの隣にカンベクが座し、ホンウィに顔を向けていた。その顔は、やや伏せられている。
「まあ、引継と言っても、差し当たってやらねばならないのは、批答の返信だ。この半月ばかり、政務はそなたたちに預けることになったから、私がひたすら批答書きをやるという選択もあるが、どうする?」
批答という単語で、自然、先刻のホンウィと首陽のやり取りも思い出されたのだろう。
三人は、何とも言えない顔になって目配せし合った。
やがて、結局は役職的に一番上ということで、インが発言することになったらしい。目と目の会話を終えると、チョンソとカンベクは元通り浅く顔を下へ傾け、インだけがこちらを見た。
「あの、殿下」
「ん?」
「恐れ入りますが、その……批答はどの程度書き終えているので?」
「んー……そうだな……」
言われて、ホンウィはグルリと室内に視線を巡らせる。
王個人用の執務机を指して、「まずあそこに山になってるのとー」と言いつつ、その指先をそのまま長机の、誰も座っていない場所に転じる。
「あとそこの箱の中に入っている分ですべてだな」
ホンウィの言う箱からも、上疎の巻物がチラリと見えて山になっているのは、三人にも分かっただろう。
その箱が全部で四つ、長机の半分を占拠している。箱の大きさとしては、一つ底面積が縦一尺と四寸〔約五十センチ〕、横一尺と三寸〔約四十センチ〕ほどで、高さも一尺四寸ほどだろうか。
「何人分あるか、正確に勘定はしておらぬ。考えるだけでうんざりするのでな。とにかくあれとあれがなくなるまでひたすら書く。それだけだ」
ホンウィは、『あれとあれ』と言いながら、執務机と長机の上訴を順に指差した。
「まあ、昨夕会議の場にいた大臣の分は探して除くがな」
「……その、批答の内容は……」
「存じているのだろう? 断っておくが、批答の内容を変えるつもりはないぞ。考えるとは言ったが、まだ納得できたわけでもないのでな」
ホンウィは、やや行儀悪く机に頬杖を突いた。
「ちなみに、叔父君に手伝っていただいたと言うのは……」
「何を聞きたい? 手伝っていただいた叔父上のお名前か? 先に言っておくが、別に答えを相談したわけではない。単に代筆を頼んだだけだ。一人でやるより格段に効率がよいのでな。叔父上方が書いた内容も同じゆえ、案ずることはない」
「し、しかし王族が執政に関わるのは」
「そんなことは分かっておる。相変わらず耳が遠いのだな、領議政。先にも言ったから二度目だが、聞いていなかったようだから何度でも申すぞ。答えを相談したのではなく代筆を頼んだだけだ。つまり叔父上方は単に、私が言った通りの答えを書いてくださっていただけだ。筆跡は違えど、中身は同じだったはずだぞ」
「は、はい。失礼いたしました、殿下。その通りでございます」
ホンウィは、頬杖を突いたまま、フンと鼻先を鳴らした。彼ら三人とは、父が亡くなってからまともに顔を付き合わせたが、本当に大丈夫だろうか。
「それで? 私がまともにやり残している仕事はこの批答だけだが、どうする?」
「お続けください、殿下」
答えたのは、チョンソだ。
「会議に出ずとも、朝廷に伺候している者なら、大抵は昨日の内に批答の内容を知らされております。後程、彼らの名は目録を制作し、殿下にお渡ししますので、その者の署名が入った上疎は弾いてください。同時に、彼らにはそのように、我々から通達をします。地方の両班や、儒学者、儒生への批答は続けてお書きに」
「……よいのか?」
やや呆気にとられた気分で訊ねる。すると、チョンソは「何がでしょう?」と訊き返した。
「批答代筆の権限も奪い取れば、そなたたちが好きに返答を書けるではないか。首陽叔父上がなさったように、そなたたちの望む回答を書いて、私には玉璽だけ押印するよう迫ればよいのに、そうせぬのは何故だ?」
半ば挑発するように問うと、今度はチョンソのほうが目を見開く。しかし、それは一瞬のことだった。瞬きの間に、彼の目は元通り伏せがちになっている。
「……殿下。率直に申し上げてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「我々は、殿下を政治から遠ざけたり、意のままに操ろうなど、考えたこともございませぬ。我々はただ、先王殿下のご遺言を遂行せんとしているだけにございます」
「……父上の遺言?」
ホンウィは、眉根を寄せた。初めて聞く話だ。
「左様です。殿下は、先王殿下のご臨終に間に合いませんでしたゆえ、ご存知なくとも当然でございましょう。今わの際、先王殿下はわたくしたち大臣に、殿下を呉々も頼むと、お守りするよう申しつかりました」
「あっ……!」
思わず声を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……今思い出したんだ。数日前に、首陽叔父上が確かそんな話をしていた」
「左様でしたか」
チョンソは淡々と頷いて言葉を継ぐ。
「ですから……誤解を生むような申し出であったことは重々お詫び申し上げますが、我々は殿下に政から遠ざかって欲しいとは思っておりませぬ。一時預かるコトにはなりますが、あくまで我々は補佐に過ぎません。現に殿下は、わたくしが思っていたよりずっと立派に、御前会議を取り仕切っておられる」
「え……」
「それに、殿下がまったく政から離れてしまっては、やり方も分からぬではありませんか。どんな仕事でも同じですが、年を経たからと言っていきなりできるモノではありません。何事も初めがあるのです」
その考え方は、父が亡くなったあとで、ホンウィが繰り返し首陽に向けて言ってきたことと似ていた。
「コトに終始あり……か」
「大学ですな。さすがです」
満足げに言ったチョンソは、再度頷いた。
大学とは、儒教の経書の一種で、四書の内の一つに数えられている。両班や王族の子弟なら、一般教養として習うものであり、官僚を目指す場合の必須教養でもある。
「今は我々がおりますが、いずれ殿下は本当にわたくしたちの手を離れ、親政を執られる時が参ります。その時、殿下が安心して、且つ自信を持ってそうできるようにする。それが、目下の我々の職務と考えております。わたくしなど、もう退任も近うございますゆえ、若干焦りもありますが」
この国では、七十が退任〔定年退職〕の年だ。
(……ってコトは、コンも来年にはもう……)
大司憲に相応しい人物だと思っていたのに、退任は何とも残念だ。
「……右参賛や左賛成始め、半数は内宮様の垂簾聴政を望んでいるようだが」
目を伏せたまま呟くと、インが口を開く。
「殿下。気になさる必要はございません。殿下はすでに、答えをお示しになられましたゆえ」
ホンウィはジロリと上げた目を、インに据えた。
「……そなたはどうも楽観的なところがあるようだな、領議政」
彼に対すると、どうしても口調が冷えたものになってしまう。
役職的には上でも、年齢としてはチョンソのほうが年上なのだ。彼に比べると、やや頼りないのは致し方ないのだろうか。
「は……それはどういう」
「内宮様の垂簾聴政派には、首陽叔父上が付いているのだぞ。先刻、広間で会議中にそなたも感じなかったか?」
「な、何を」
「あの人には、こちらの常識は通じぬ。多分、言葉も通じぬ。そうは思いたくないが、ここ数日、首陽叔父上の言動にはそのように感じることが多くてな」
はあ、と無意識に漏れた吐息は、とてもとても、じきに十一を迎える少年の吐くそれではない。
「殿下は、何を根拠にそのように思われましたか?」
静かに訊ねたのは、やはりチョンソだ。
「領議政が、王族は執政には関われぬが規則であるから退出するよう叔父上に求めた際、叔父上は無視なさっただろう。これまで信じ、頼りにしてきたゆえ、私も叔父上に発言の許可を求められ、すぐに拒否できなかったからそこは反省しているが……」
「殿下がそう思われたのなら、大丈夫でしょう」
何がだ、と言おうとしても口が開いたまま動かなかった。まさか、チョンソまでがそんなことを言うとは思わなかったのだ。
「……そなたも中々楽観的だったのだな、左議政」
疲れ切って、溜息にもならない息を吐くと、チョンソは穏やかな微笑を浮かべたまま「いいえ」と首を振った。
「恐れながら、わたくしが大丈夫と申し上げたのは、そういう意味ではございませぬ」
「では、どういう意味だ」
「首陽大君様の言動に、尋常ならざる“何か”をお感じになられたのでしたら……それが何かをうまく説明できずとも感知できたのなら、まずは大丈夫です。それは、あの方にどういう形であれ、対抗する為に不可欠な能力の一つでございますれば」
ホンウィは、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、あれだけあからさまにされればな。感じ取れぬほうがどうかしているだろう」
言いながら、チラリとインに流し目をくれると、インは縮み上がるように首を肩の間に竦める。まるで、天敵に遭った子亀だ。
(……ま、俺もヒトのこと言えた義理じゃねぇけど)
今のインは、ほんの数日前までの自分だ。
首陽を何の警戒もなく信じ慕い、憧れてさえいた。
(……いや……多分まだ……)
膝に置いた手を、きつく握り締める。自然、整った顔は歪んだ。
過去形ではない。今も多分、心の底では首陽を慕い、憧れている。
だから、たった今、首陽が現れて、スヌィの言ったことは嘘だと言ってくれたら、それを信じるかも知れない。動かし難い状況証拠が、父を殺したのがあの叔父だと示しているのに、実際にあんなに冷ややかな態度を取られたのに、それでもまだ首陽叔父を信じたい自分もいる。簡単には切り替えられない。
彼が、ホンウィに『お前は一人じゃないんだよ』と言ってくれてから、十日も経っていないのだ。
そう思うと、不意に涙が滲みそうになって、慌てて歯を食い縛った。顔を俯け、目をきつく瞑ってどうにか溢れそうになるモノを飲み込む。
「……殿下」
「……何だ」
何とか返した声音はやや掠れたが、チョンソは多分聞かなかった振りをしてくれたのだろう。特に何か言うことなく、言葉を継いだ。
「内宮様の垂簾聴政の件ですが、殿下はこのあと、大君様がどう出られると思われますか?」
「そうだな……多分、強引に内宮様の昇格と垂簾聴政の準備を進めて来よう。叔父上は、もう私が父上の生前と同様に叔父上を素直に慕っていないと気付いておられる」
本当は、素直に慕っていたい。信じていたい。
何も知らなかった頃に戻れたら、どんなにいいだろう。けれども、それはもう敵わないところへ来てしまった。たった十日弱でだ。
なぜ、こうなってしまったのか。何が間違っていたのか。
(それとも最初から……こうなるはずだったのか)
感傷に逆戻りしそうな思考を、必死に引き戻す。
「ですが、先刻大君様は、もう口出ししないようなことを仰っておられましたが」
「表立ってして来なくとも、裏で糸くらい引くであろう。父上の時もそうだった」
そうして、誰からも見える場所には痕跡を残さず、確実に自分の意図通りにコトを成していく。そんな気がする。
だとしたら、ホンウィがどんなに足掻いても無駄に終わるかも知れない。
「でしたら、殿下」
考えあぐねていると、チョンソが助け船を出すようにそろりと言った。
「半分は、彼らの思惑に乗ってやってはいかがでしょう?」
「……どういう意味だ」
「内宮様の嬪への昇格は、受け入れてはどうでしょうか。考えれば内宮様は、亡き縣主〔世子の側室の娘〕様ご懐妊の折りに良媛〔世子の側室の位の一つ〕へ昇格されたきり、特に昇格がありませんでした。また、先王殿下がご即位された時には、すでに先王殿下にはご正妃がおいでにならなかったにも拘わらず、先王殿下はついに改めてご正妃をお迎えになりませんでした。内宮様は先王殿下のご即位により、貴人へ昇られましたが、果たされた役割を考えれば、先王殿下のご存命中に嬪への昇格があって然るべきであったとも思います。さすがに、王殿下ご逝去ののちにご正妃へ昇格されるのは先例がございませんし、内宮様ご本人にそれ以上の功績もありませぬゆえ、そこまでは認めることは難しゅうございますが……」
ふと、引っ掛かるモノを感じて、ホンウィは眉をひそめる。すると、それを敏感に察したのだろう。
チョンソは、「どうかされましたか」と伺いを立ててくる。
「いや……そう言えば、楊司則も昇格がなかったと思って」
ヤン司則、こと楊月娥は、ホンウィの異母姉・敬淑翁主の生みの母だ。
彼女は敬淑のほかにもう一人、王女を生んでいる。ホンウィの亡き父が即位した年に生まれた女児は、ホンウィには腹違いの妹だが、その幼い妹姫はわずか一歳で亡くなった。
ヤン司則本人も、妹を生んだあとの産後に肥立ちがよくなかったらしく、妹を生んで程なく死去している。
あまり会う機会がなかったので記憶は曖昧だが、美貌の側室だという話は聞いたことがあった。
「……だが、父上が即位してからも二度目の懐妊の折も、彼女は司則から昇格することはなかったな」
そして、司則というのは、世子宮の女官の地位で、品階は従六品。守閨と並んで、世子宮付き女官の中での最高位である。
主な任務は、世子夫妻が参列する儀式の準備と主管だが、世子の寵愛を受けた内人が昇格した結果、叙される地位でもある。つまり、王に対しての、承恩尚宮に相当した。
「それは、ヤン司則様ご本人の強いご希望があってのことです」
ここへ来て、カンベクが初めて口を開いた。
「本人の希望だと?」
彼のほうへ視線を向けたホンウィは、再度眉根を寄せる。
「左様に聞き及んでおります。やり取りした現場にいたわけではないので、わたくしも詳しくは存じません。仰る通り、敬淑翁主様をお産みになったあとと先王殿下ご即位の時、そして二度目のご懐妊とご出産を経て、司則様の昇格の機会は四度あったことになりますが、それらのどの時点に於いても、司則様は昇格を固く辞退なさったそうです」
「まあ、ご本人の出自も卑しいご身分でしたからな」
インが、半ば吐き捨てるように言う。
どうも、彼は出自や身分にかなりこだわりがあるらしい。
「ちなみにその時、昇格を口にしたのは誰だ?」
「先王殿下ご自身です」
答えたのは、カンベクだった。
「殿下のご生母であられる顯徳王妃様亡きあと、ご正妃をお迎えにならなかったことから分かるように、先王殿下は顯徳王妃様を大変深くご寵愛でした。ですが、それとは別に、懐妊・出産による昇格は当然のことと斯様に仰せでしたが……」
言い淀んだ続きを、チョンソも補完する。
「結果的に、亡くなられるまで司則様は正式なご側室となられることを固辞なさり、それに加えて、司則様の元々のご身分を理由に反対する大臣も多く、未だ司則のご身分のままなのです」
「だが、亡くなられたのは父上のご生前であろう? 追尊などの措置はなかったのか」
追尊とは、本人が亡くなったのちに、昇格することだ。
「追尊もしてくれるなというのが、ご遺言だったそうです。ですので、先王殿下も故人の意思を尊重されたのだと思います」
「なるほど……」
口ではそう言ったものの、まだ何か引っ掛かっている。それが何なのかは、ホンウィ自身にも分からない。
(何だ……違和感、か?)
敢えて違和感とするなら、その違和感は、ホン貴人の昇格するか否かに関係していることだ。
「……これまでに、内宮様の昇格は誰も?」
その問いが、唐突だったのか。瞬時、インとチョンソ、カンベクは互いの顔を見合わせた。
ややあって、インが口を開く。
「……そう言えばそうですな。これまで……此度、首陽大君様が仰るまで誰も奏上致しませんでした」
「父上もか?」
三人は、もう一度顔を見合わせ、一様に頷いた。
「左様です。先王殿下も、仰いませんでした」
(……いや……待てよ?)
ホンウィは無意識に口元へ拳を当てる。
(……ホン貴人と……ヤン司則だけじゃない。父上の側室は全員……不自然なくらいに順当な昇格がなくないか?)
父の側室は、ホン貴人、ヤン司則を含め、全部で八人いる。その八人が八人とも、父が即位した際、王の側室として昇格したきりだ。中にはヤン司則のように、世子宮付き女官の地位から上がっていない者もいる。
八人の中の一人、張樹詠尚宮もそうだ。
彼女は、一年ほど前に父の寵愛を受け、承恩尚宮となっていた。現在懐妊中で、その胎内にいる赤子――つまり、ホンウィには異腹の弟か妹は、父の顔も知らぬままだ。
チャン尚宮は、もう臨月だというのに、懐妊が分かってからもやはり昇格していない。普通、承恩尚宮が懐妊すれば、生まれる子が男か女かは関係なく、懐妊が分かった時点で淑媛には昇る。淑媛とは、王の側室の中では一番下の位で、品階は従四品だ。
通常、側室の任免権は、内命婦の長である王妃にある。息災なら、大妃が担う場合もあるが、チャン尚宮の懐妊が分かった当時、王妃の座に座るはずだった母も、大妃となるはずだった祖母も亡くなっていた。そして、内命婦の長としての役割を果たしていたのは――
(……まさか……)
いや、いくら何でもそんなことがあるだろうか。
正式な王妃であったとしても、王の寵愛を受けた者を不当に昇格させないなど、あってはならないことだ。
(だけど……)
脳裏を掠めるのは、首陽のことだ。
あの養母と違い、首陽のことは、心から信頼していた。信頼するかしないかなんて考えたこともないくらいに。だが、結局は今の事態だ。
あの養母なら、何かやらかしたとしても、まったく考えられないことではない。
(……何かあるのか?)
「……だとしたら……」
「殿下?」
そう呼び掛けたのが、三人の誰だったのか。
「内宮様の昇格の件は、暫時保留とする」
それを認識しないまま、ホンウィはきっぱりと告げた。
©️神蔵 眞吹2019.




