第二章 一つの決意
「おはようございます、殿下」
「おはようございます」
翌朝、思政殿の執務室前に集まった大臣たちを見て、ホンウィは目を瞠った。
昨日は、義禁府提調、キェ・サンピル一人だったのに、今日はわんさか人が立っている。
領議政ファンボ・イン、左議政キム・ヂョンソを始め、右議政玉綱白、右参賛イ・サチョル、左賛成ハン・ファク、等々の主立った大臣がすべて揃っていた。
しかし、何よりも驚くべきは、その中に首陽がいることだ。
「おはようございます、殿下」
ホンウィが歩み寄ると、首陽は以前と変わらない微笑を浮かべてホンウィを見下ろした。
「おはようございます、首陽叔父上」
ホンウィも、できるだけ平静を装って、首陽に挨拶を返す。
「お珍しいですね。首陽叔父上が、朝の業務報告会に顔を出すなんて」
珍しいどころか、初めてのことだろう。
第一、彼は朝の業務報告に顔出しするような要職には就いていなかった。この四月に確か、慣習都監の都提調という役職に就任しており、他部署への異動や、退職の話は聞いていない。
ちなみに、慣習都監とは、高麗時代からあった、音楽関連部署だ。主には、王妃や大妃、大王大妃の為の宴で演奏される音楽を担当する機関であり、政治に直接の接点は持たない。
都提調は、その機関の長である。
だが、そんな役職でさえ、大臣たちの反応は芳しくなかった。王族が何らかの役職に就いているのは好ましくない、と司諫院から声が挙がっていたらしいが、先代の王である父は聞き入れなかった。
それでなくとも、首陽が当分王宮に出入りするのはやめる、と言ってホンウィの前を辞したのは、たった二日前のことだ。
そう言いたいのを、首陽は何となく察したらしい。かすかに苦笑を浮かべて、眉尻を下げる。
「申し訳ない。昨夕の御前会議のことを、ハン・ファク殿に伺ったものですから」
「左賛成に?」
どうしてまた彼に、と眉根を寄せて瞬時考え込んだが、すぐに思い当たった。
ファクは、首陽の長男、すなわちホンウィには従兄に当たる李暲の妻、韓淑徳の父親なのだ。チャンは二年前、十二歳の時に、一つ上のスクトクと婚礼を挙げていた。
結婚した子どもの親同士というわけで、親戚となったのだから、世間話くらいするかも知れない。
「……それで、どうして首陽叔父上がこちらへお運びになられる必要が?」
「ともかく、立ち話もなんです。中へ入りませんか」
「いえ、広間へ参りましょう。この人数ですから、執務室は手狭です」
首陽に答えたホンウィは、大臣の代表としてインに視線を向けた。
「皆、したいのは昨夕の会議の続きなのだろう?」
インが、静かに目を伏せる。他の者も彼に倣って顔を俯けた。
***
大臣のほぼ全員と首陽を伴って、ホンウィは広間に入った。
いつもは大臣たちがズラリと座っている場所が、ガランとしている。しかし、構わず進んで階を登った。
振り返ると、首陽を先頭に、大臣たちが入室するのが目に映る。
やがて、全員が室内へ収まって整列し、浅く腰を曲げた。
インより前に首陽がいるのだけが、今までの会議の席と違う。
「皆、座るがよい」
「はい、殿下」
首陽が皆を代表して返事をし、大臣たちを促した。彼らが腰を下ろすのを見届けて、ホンウィも玉座に着く。
「それでは、叔父上がこの場におられる理由から伺いましょうか」
よそ行きの口調で言うと、首陽も皆の手前、少しだけ顔を上げ、敬語で答えた。
「はい、殿下。先程申しました通り、ハン・ファク殿に、昨夕の御前会議の様子を伺いました。昨夕後半の議題は、殿下が政を一時退かれることと、そのあとの執政を誰が受け持つか、ということだったようですが、それに間違いはございませんか?」
ホンウィは、ややムッとした。返した声音は自然冷ややかなものになる。
「ええ。内容に間違いはありません。ただ、私は納得してはおりませんが」
「納得できぬとは、どの点がでございますか?」
「私が、政をこの場にいる皆か、母上に預けるという点です。私は何か、慌てて執政の権限を取り上げられるような過ちを犯しましたか?」
すると首陽は、困ったように、それでいて幼子を宥めるように眉尻を下げた。
「殿下。先日来、山のように積まれていた上疎の中身が、まさにそれでございましょう。過日、わたくしは殿下の御為を思いお諫めしましたが、逆にご不興を買ってしまいました。ひとえに、わたくしの不徳のいたすところではございますが、どうか、大臣たちの諫言をお受け入れくださいませ」
「どうか、お聞き入れくださいませ、殿下」
「どうか、お聞き入れくださいませ、殿下ー」
早くも合唱が始まって、ホンウィは頭痛を覚えた。無意識に額に手を当てるが、そんな仕草で合唱をやめてくれる連中ではない。
(……ったく、何だって朝からこいつらの理不尽な合唱聞かなきゃなんねーんだよっ)
いっそ、仮病でも使って倒れたい気分だ。けれども、そんなことをしても、問題を先延ばしにするだけでしかない。
はあっ、と溜息を吐いて、手を挙げる。
すると、傍に控えていたイム尚膳が、「静まれ!」と声を張り上げた。一瞬で、広間に静寂が戻る。
「昨日、私はそなたたちに申し渡したな。一晩考える時間をくれと」
大臣たちは、誰も答えない。けれど、無視している訳ではないのは、ホンウィにも分かる。
インは、耳を傾けるように小首を傾げているし、首陽の目も先を促すようにホンウィを見ていた。
「そなたたちは、身分や性別によって人間の価値が違うと申した。それは、私の考えとは違う。だが、そなたたちは私に考えを改めよと申す。すなわち、身分や性別によって、相手を踏みつけることを許容せよと」
「殿下! 我々は何もそのような」
「黙れ、領議政。発言を許した覚えはない」
冷ややかに流し目をくれると、インは息を呑んだように口を閉じた。しばしの間ののち、ホンウィは相変わらず冷えた目線を彼に向け、同じ温度の声音で言葉を継ぐ。
「……何もそのようなことがないのなら、どういう意味だ? 領議政。そなたは確か、私に言ったな。卑しい者の言葉を聞く必要はないと。あれらはただの道具ゆえ、人間に物申すのも烏滸がましいとな」
「その通りではございませんか。あれらは、奴婢は人間ではないのです。法でそう定められておりますれば」
「なれば、仮に反逆罪などで奴婢に身分を降格になる者がいるが、その場合はどうなる? 平民以上なら人間と仮定すると、奴婢になった途端、それまで人間だったはずの者たちはヒトでなくなるということか?」
「そ、それは……」
「その通りです」
言い淀んだインを助けるように口を開いたのは、首陽だ。
「ヒトであった者がヒトでなくなる。それが、一種の処罰ですゆえ」
「では、直接罪を犯したのでない親族が罰せられ、その親族もヒトでなくなるのも当然の罰だと?」
「左様です。直接罪を犯したのでない親族……特に、一番近しい妻子、きょうだいは必ず連座で裁かれます。ですが、それは理に適ったことです」
「何ですって?」
ホンウィは、覚えず眉根を寄せた。
「叔父上。いくら叔父上だとて、そのような理不尽な発言は許しませんよ」
「殿下、お聞きください。では、仮に罪を犯した本人一人が裁かれ、ほかの家族は不問に付されたとします。ですが、世の中はそれを許しません。あれは罪人誰それの家族だ、と至る場所で後ろ指を指され、言われなき誹謗中傷を浴びる。その罪が知られていない場所へ転居したとしても、本当のことはいずれ知れ、人の中傷から逃げ回る生活を余儀なくされるやも知れぬのです。ならば、一見理不尽に思えても共に罰せられれば、それで家族も処罰は受けたことは誰の目にも明らか。それ以上彼らは貶められる理由がなくなり、堂々と生きてゆけるではないですか」
「しかし、それでも家族を責める者は責めるでしょう。その上結局、法ではヒトと定義されない階級で生きることを余儀なくされる。ましてそれが、例えば家族が無実の罪を被った結果だとしたら、尚のこと理不尽ではありませんか」
「そこを突き詰めてはキリがありません。それに、冤罪のことなど、仮定の話です。家族が罪を犯したことが――もしくは無実の罪に陥れられたことが不運だったと、ヒトでなくなっても息をしているだけでありがたいと思うしかありませぬな」
首陽の、投げるような冷ややかな声音と、同じ温度の言葉に、ホンウィはまたも自身の耳を疑う羽目になった。
(それが他人に……自分より身分階級が上の奴に強いられた結果でもかよ!)
口に出しそうになって、すんでで堪える。
スヌィは無実ではない。彼自身の事情や選択はどうあれ、ホンウィの父を殺したのは――直接手を下したのはスヌィだ。
それは分かっているし、許せないと思う。けれど、彼に、自身の命を投げ出してまで父を庇えとも言えなかった。殺す相手が、たとえホンウィ自身の父であっても、そんな残酷な選択を、口が裂けても迫れない。
それ以上に、ホンウィは生まれて初めて、この叔父に対して憎しみを抱いた。というより、その感情は、怒りのほうに近かったかも知れない。
そして、やはり身分階級があることは、権力差によって理不尽を強要される危険を孕んでいる。改めて、そう思った。
ギリ、と拳を握り締める。
「殿下。仰りたいことは、それですべてですかな」
ホンウィがもう何か発言することがない、と見たのか、首陽が言葉を重ねる。
「……何に対してです」
辛うじて絞り出すと、首陽は淡々と、「殿下が一時、執政を退かれる件です」と答えた。
「殿下は、何故ご自分が政を退かねばならぬか分からぬと仰いました。それは、ひとえに身分や性別の違いがご納得できぬからであるとお見受けします。身分や性別による人間の価値は、そのままこの国の根幹ですゆえ、揺るがすことはできませぬ。もし、ご納得いただけるのでしたら、何も大臣たちもあのような上疎は提出しなかったでしょう。そうであろう? 領議政」
首陽が水を向けると、インも目を伏せて口を開く。
「左様です、殿下。もし、この場で、身分・性別によって人間は差別されてはならぬとのお考えをお改めくださり、奴婢は人でないことをお認めいただけるのでしたら、我々はあの上疎を取り下げ、全身全霊で殿下の親政をお支え申し上げます」
「お支え申し上げます、殿下」
「どうか、身分・性別によって人間の価値は違うことをお認めください」
「お認めください、殿下ー」
今度は、身分・性別によって人間の価値は違うと認めろの大合唱が始まった。
(……そんな風に考えを改めるって、何だ。改めるってのは、悪い状態を良くすることじゃねぇのか。だのに、こんなの)
無理だ。絶対にそんなことを認められない。
何より、その結果、泣く民を放っておくのは祖父の教えに反する。絶対に王のすることじゃないと思う。
『こういう時は相手に調子を合わせるほうがいい。年を重ね、力を付けたら徐々に味方を増やして、自分の考えを貫く。それが賢いやり方だ』
ふと、以前に首陽に言われた言葉が浮かぶ。
こんな風になっても、首陽の教えにも頼ろうとする自分も嫌だった。
けれども、確かに、正面から自身の考えを通すことは、今はできそうにない。それは、嫌というほど分かる。
(なら、いつまでだ。いつまで待てばいい)
いつまで、泣いたままにしておけばいいのだ。
そう自問した時に脳裏をよぎったのは、やはり先の裁きで犠牲にした者たちだ。証拠不十分だったばかりに、真犯人を放置せざるを得ず、表面上のすべての責めを負わせて、理不尽で悔しい思いをさせた者たち。そして、亡くなった医女や軍士たちの遺族は、仇の名すら知らされない。
(いつまで――放っとけばいいんだ、あんたたちを)
無意識に向けた視線の先にいた首陽は、大臣たちと合唱することなく、ただじっとホンウィを見つめ返していた。
その目は、無表情だった。
いつも、公式の場にいても、叔父としての慈しみを湛えていたはずの瞳は、今何の感情も読み取れない。苛立ちや怒り、憎しみといった負の感情さえ、何も見えなかった。
彼がこちらを害そうとしているのか、本当にこの座を欲しがっているのか、それすら見当が付かない。
だが。
(――渡せない)
さり気なく、彼の死角にあった左手を、今座っている玉座に置いて、拳を握り締める。
一時は、別に渡しても惜しくないと思っていたこの座だが、彼には渡せないと初めて強く思った。
自らが犯した罪でもないことで罰せられることを、仕方がないなどという人間に。法的にヒトでなくなっても、息をしているだけでありがたいと思うしかない、などと切り捨てる人間に。
何より、自身の犯す罪に巻き込んだ相手に、権力尽くですべての罪をかぶせるような男には、最高権力者が座るこの座は、絶対に渡してはならない。
ただ、そんな風に恐ろしいことを言う人間だと、首陽がそんな男だったと、未だに認めたくない自分もいる。
けれど、ホンウィはついさっき、この耳で聞いてしまった。首陽が、発した冷たい言葉を。
(……どっちが、本当のあんたなんだ)
今この場で、彼の胸倉を引っ掴んで確かめたい。本音を聞かせてくれ、あんたが――優しいあんたが、あんなに冷たくて残酷なことを言うなんて、何かの間違いだろう、と。
これまで温かく接してくれた記憶と、つい最近知った、下層の民への冷たさを秘めた顔が、脳内で錯綜し、混乱で叫び出しそうになる。
思わず、自分を抱き締めるようにして右手で左上腕部を掴んだ。
何があっても彼を信じ庇いたい自分と、彼を敵視してしまいそうな自分の狭間で、壊れそうだった。
大臣たちの合唱から、衝動的に耳を塞ぎたくなるのを、全力で堪える。
いっそ壊れてしまえたら、どれだけ楽になれるだろう。だが、そうもいかない。スヌィや彼の下の医官、殺された医女や軍士たちや彼らの遺族にはどうしても責任を果たさなくてはならない。
狂気に逃げるより前に、やらなくてはならないことが山程ある。
ホンウィは、きつく目を閉じた。
父が亡くなってから、今日この日この時、今この瞬間を迎えるまでの、ほんの短い間に、逃げ出したいと思ったことが何度あったことか。ただその時は、逃げて空いたこの席に座る者がいるとは思っていなかった。戻れば、結局はここに腰を下ろして、義務を果たすことになると信じて、疑っていなかった。
しかし、今は違う。隙あらば、少なくとも目の前にいる叔父は、この座に歓喜して腰を下ろし、政務の采配を振るだろうことが、分かっている。
そして、きっとその政治は、特権階級層だけしか見ていないそれになるだろうことも。
(……父上……祖父様)
亡き父と祖父を、順に心の中で呼ぶ。
彼ら二人はきっと、身分階級まで撤廃しようとは思っていなかっただろう。だが、少なくとも身分的弱者を踏み付けることだけは望んでいなかったはずだ。
『一番に考えるのは、民の幸せだぞ、ホンウィ』
常々そう言っていた祖父の声が、脳裏に蘇る。
彼は度々、宮殿の外でホンウィを預かっていた養父の元を訪ねてきては、ホンウィを街へ連れ出した。
そして、軽食を振る舞う店に座って、粗末な――宮殿で供される食事に比べればずっと粗末なそれを、美味しそうに食べながら民の様子を見ていた。
『見てみろ、ホンウィ。皆、笑っているだろう?』
言われて見回したあと、ホンウィは首を傾げて返した。
『……フツーに生活してるだけじゃん』
『ああ、そうだな。それが幸せということだ』
祖父は、また満足げに言って笑った。
『何の心配もなく、今日も明日も明後日も変わらぬ日常を送れる――平凡とも呼ぶかも知れない。お前が今言った、“フツーの生活”ともな。それが幸せってことさ』
『ふうん』
汁飯を匙で口に突っ込みながら、ホンウィは祖父の顔を見た。
『じゃあさ。俺たちの幸せって?』
『ん?』
『フツーの生活が、民の幸せなんだろ?』
『ああ』
『じゃあ、俺たちの幸せは? 俺たちのフツーと民のフツーは違うじゃん』
『そうだなぁ……』
呟いた祖父は、クスリと微苦笑した。
『私たちと民の普通が違う、とよりによって我が孫が思ってるようじゃ、私の治世もまだまだだな』
『祖父様の治世が?』
『うん。少なくとも、孫の一人にそう思われているようでは、すべての民を幸福にしているとは言えない』
『じゃあ、すべての民が幸せっていうのは、どういう状態なわけ?』
問うと、祖父はまた苦笑を零す。
『普通の基準は、それぞれで違うものだ。王族も両班も奴婢も関係なく、個々人でな。だから、本当の意味で民のすべてを満足させることはできぬのかも知れぬ』
『何だよ。結局正解なんてないんじゃん』
ホンウィが唇を尖らせると、祖父は今度は複雑な微笑を浮かべた。苦笑いのようでもあり、何かを面白がっているようなそれでもあった。
『だからこそ、忘れてはならないのは、相手の立場に立って考えることだ。自分が一番正しいと思い込むのは、大きな過ち、延いては民の不幸への第一歩だぞ。覚えておけ、ホンウィ。いつでも相対している人の立場になって、考えることを、な』
『相手が、両班でもか?』
顔をしかめて訊ねると、祖父は大真面目に頷いた。
『そうだ。そして、相手が平民なら平民の、奴婢なら奴婢の、白丁なら白丁の立場に立って考える。まずは相手を理解しようと努めろ。相手の心に寄り添うんだ。心底理解できなくても、まずこちらが理解しようとする姿勢を見せれば、相手も心を開いてくれる』
『なあ、それって民の幸せの話? 論点ズレてねぇ?』
すると、祖父は何度目かで苦笑した。
『ああ、そうだな。微妙にズレてはいるが……けどな、ホンウィ』
一旦言葉を切った祖父は、笑いを引っ込め、真剣な顔でホンウィを見た。
『為政者というのは本来、民の幸せの為に尽くす者だ。自分の幸福しか考えられぬ者、自分の考えが正しいと思い込んで目下の者の諫言に耳を傾けぬ者、民の声に耳を貸さぬ者は、その職務に従事する資格はない。民の目線で物事を見られない、考えられない者も同様だ。王は、その頂点に立つ者であることを、常に忘れるなよ――』
脳裏で尾を引くように遠くなる祖父の声を、その言葉を思い返しながら、ホンウィは瞑っていた目を開けた。
途端、今まで不思議に聞こえていなかった合唱も耳に飛び込んでくる。
思い出の中から抜け出すように、一つ深呼吸した。伏せていた目を上げると、未だ首陽以外の大臣たちが、「どうか、お認めください、殿下」を唱えながら頭を上げ下げし続けている。
どのくらいの間、そうしているのだろう。疲れないだろうか、とこちらが疲れてしまった思考の中で呟く。
(……相手の目線に立って考えろ、か)
はあ、ともう一度、溜息に近い吐息を漏らし、息を吸う。そうして、息を吐くと同時に、おもむろに上げた足で、執務机を押した。
ガタン! と派手な音が鳴り響き、パタリと合唱が途絶える。
「……よく分かった」
シンと静まり返った広間に、少年の凛とした声が落ちる。
「そなたたちの言いたいことは、よーく理解できた。しかしながら、私の理解が追い付かぬ。身分によって、性別によって、相手を虐げていい理由が、いかにしても見つからぬし、納得もできぬ」
「殿下! 恐れながらこれは国の決まりで」
「黙れ、領議政。発言を許した覚えはないぞ、何度言わせたら気が済む。まだ話は終わっておらぬ」
「は……」
身を縮めるように頭を下げるインを見つめながら、ホンウィは言葉を継いだ。
「私は自分の意思を曲げるつもりはないし、そなたたちも同様であろう。どちらかが折れねば、平行線だ。よって、私はしばらく政務から退き、領議政以下の大臣たちに、政を任せることとする」
「殿下! 賢明なご判断です」
「いえ、殿下、なりませぬ! どうか、垂簾聴政を内宮様に」
「領議政。右参賛もだ。そなたたち、一体いくつになる。いいと言うまで口を閉じていよと何度言えば通じるのだ?」
「もっ、申し訳ございません!」
「申し訳ございません!」
ガバッとひれ伏すインとサチョルに、ホンウィは冷ややかな流し目をくれた。
「……領議政を筆頭として政務を任せるのはどうにも不安だが……そなたたちも価値観が違うだけならともかく、年齢も十歳過ぎたばかりの私に従うのも、不服な一因であろう。国の根幹だとそなたたちが叫ぶことを、私も少し真剣に考えてみたい。そなたたちに政務を任せるのは、その間だけだ。よって、そなたたちにも、私の考えに歩み寄る努力をして欲しいのだ」
「……殿下。発言してもよろしいでしょうか?」
さすがに懲りたのか、三度目にしてようやく、インは口上の前に断りを入れる。
「許そう。何だ」
「その……殿下のお考えに歩み寄る努力を、とは、いかな意味合いでしょうか?」
「私は幼きみぎり、祖父上である世宗殿下より教わったことがある。それは、いかなる身分の者と相対しても、まず相手の身になって考えよということだ」
「はあ」
「それが、為政者として大事なる一つであると教えられた。為政者であることは、そなたたちにも共通のことであろう。違うか?」
「お、仰る通りです」
「これは、くどいようだが世宗殿下の教えでもある。ゆえに、そなたたちにも、それを実行して欲しい」
「承知いたしました、殿下」
「承知いたしました」
約半数の者が頭を下げる中、不満げに床を睨んでいたサチョルが、「殿下」と呼んで顔を上げた。
「恐れながら、わたくしにも発言をお許しくださいませ」
「よいだろう。申してみよ」
「古来、政治の頂点にいるべきはやはり王族です。その為に、王殿下がまだ幼い場合の急場凌ぎとして、垂簾聴政の制度がございます。然るに、やはりここは内宮様に垂簾聴政を願うべきと存じます。どうか、わたくしの意もお汲みくださいませ、殿下」
「お汲みくださいませ、殿下」
ファクも、サチョルに同調するように頭を深く下げる。
しかし、インは眉根を寄せた。
「右参賛。左賛成も、殿下はすでにご自身の意思をお示しになられた。今後、しばらくの裁可は下ったのだ。黙って従うのが臣下の務めぞ」
「何を言われます、領議政様」
インに向き直ったサチョルが、黒々とした眉をつり上げる。
「たった今、殿下が申されたことをお忘れですか。相手の身になり考えよと。それは、世宗大王殿下のお言葉でもあると、左様仰ったではありませんか」
「しかし、最終決定権は殿下がお持ちだ。我々は互いの意見を殿下にお伝えし、殿下はそれを吟味されたのだ。従うべきであろう」
「少し、よろしいか」
話が振り出しに戻り掛けた時、それまで黙っていた首陽が口を開いた。
「殿下。この叔父にも少々、口を出させていただいて構わぬでしょうか」
ホンウィは迷った。本来、王以外の王族は、執政に口を挟むべきではないのだ。一つ、これを許したら、ほかの叔父たちも次々に政に首を突っ込んでくるようになるかも知れない。
だが、ホンウィが迷うその隙へ踏み込むように、首陽はホンウィが否も応も返事をしない内に続けた。
「昨日の内にファク殿に漏れ聞いたところによると、内宮様がご側室のご身分であることが納得できぬ要素であるとか。違うか、領議政」
「首陽大君様。恐れながら、お答えすることはできませぬ。これ以上の大君様の執政への関与は、ほかの王族の方々のあらぬ誤解を招きますゆえ、何卒これにてご退出を」
しかし、首陽は意に介さずホンウィに視線を戻した。
「であれば、いかがでしょう。内宮様に先代王殿下のご正妃の位に上がっていただいては」
©️神蔵 眞吹2019.




