見えぬ狼煙
景泰三(一四五二)年五月二十二日、夕刻。
宮殿で、先王の逝去に関する裁可が行われていたその頃、男は都の郊外にいた。
夕闇に沈み始めた周囲を、旅籠や、その日の営業を始めた妓楼の明かりが浮き上がらせている。その日の宿を求める旅人や、勤めに出る妓生〔遊女〕が、三々五々、行き交っていた。
「――擥! こっちこっち」
低すぎず、高くもない声で呼ばれたラム、こと權擥は、自身に向かって手を振る、小柄な男に駆け寄った。
「子濬さん」
チャジュンという字を持つ男――韓明澮の背後にも、例に漏れず開店したばかりの妓楼の門がある。
「悪いな、遅くなって」
「そんなことありませんよ。まだ、大君様もおいででないし」
ミョンフェは、出会った時からずっと、一つ下のラムにも敬語で話す。敬語が最早、日常語なのだ。
「今日は、こっちに泊まれそうですか?」
「いや。用件が終わったら帰るよ」
「たまには妓遊びくらいすればいいのに」
クスリと笑う彼の容貌こそが、どこか女性めいている。
出生時、未熟児だったゆえなのか、成人男性の平均に比べると、ミョンフェはの体格は小柄だ。加えて、じきに四十に手が届こうという年になったというのに、まだ十代と間違われているほど、年相応に見えない男でもある。
華奢な体つきと、端正な容貌も相まって、格好が男装でなければ、十人中十人が、性別判断を誤るだろう。
「それに、今からだと、終わる頃にはどうせ外出禁止に引っかかりますよ? 城門も閉まってるだろうし」
「それでも、妓楼には泊まれないよ。俺にはもう、妻も子もあるんだから」
ミョンフェは、肩を竦めただけで何も言わなかった。
ラムの生い立ち――父が浮気をしまくり、正夫人だった母を冷遇し、挙げ句に末の妹を殺したという過去を、知っているからだろう。
亡くなった末妹の浦慧は、まだ二歳だった。愛らしい盛りだったというのに、父は、我が子であるはずのポヒェを、容赦なく蹴り殺したのだ。
それなのに、開国功臣の息子だというそれだけの理由で、我が子を殺した父に咎めは一切なかった。開国功臣とは、現在の李氏王朝の祖である李成桂こと太祖王が、この朝鮮を立てた時に功績があった臣下を指す。
ともあれ、日頃の父の行いには、ラムも幾度となく抗議してきたが、その度に逆上した父に殴られた。自身の中に、溜めに溜め込んだ我慢も怒りも悲しみも、末妹の死で限界を超えた。
ラムは、当時すでに結婚し、独立していた兄に協力を頼み、母と幼い弟妹全員――合計七人を引き連れた、大規模な家出を敢行したのだった。
目の前の男とは、そのあとの放浪先で出会って、今に至る。
「ところで、ほかの皆は?」
「もう集まってますよ。あとは、君と首陽大君様が来れば、全員です」
「――では、早々に中に入ろうか」
後ろからした、耳慣れた声に、ミョンフェとラムは弾かれたように顔を上げた。
「これは」
「大君様」
二人は揃って頭を下げる。鷹揚に頷きで応えた首陽の後ろには、護衛と思しき男が一人付いていた。
「こんなところで立ち話していては、妓楼の営業妨害だろう」
「左様ですね。どうぞ、大君様」
ミョンフェが典雅な動きで、首陽を中へと誘う。二人に続こうとしたラムは、門の内側に入ったあと、塀に背を預けた男を振り向いた。首陽に、護衛として付いていた男だ。
「お前は行かないのか、ユンソン」
「……どーも、かったるくてな」
言葉通り、整った顔はどこか眠たげだ。
「大君様のなさることを手助けしたいとは思うけど、難しい話は性に合わん。一応護衛として付いてはいるが、大君様も俺と互角以上にやり合えるくらいの腕は持ってらっしゃる。一人でほっといても問題ないくらいの方だし、あんたもチャジュンさんも、武術の腕は大君様や俺に引けは取らないだろ。俺一人いなくても、どうにかなるさ」
ユンソン、ことホン・ユンソンは、小指で耳の穴を掻きながら、あくびでもせんばかりだ。
「一応、文官として出仕もしてるのに?」
「仕方ない。今んトコ、大君様のお側にいようと思ったら、文官になるしかなかったからな。下手に護衛武官になっちまうと、王殿下の傍に侍んないといけないだろ。ガキのお守りなんざ、真っ平だし」
ユンソンの言い分に、ラムは覚えず苦笑した。
ラムから見て、現国王のイ・ホンウィという少年は、少なくともユンソンが言う『お守りが真っ平』な類の子どもとは異なる。
ミョンフェとはまた違う種類の美貌で、女性的に整いまくった容姿を持った少年なので、いかにも温室育ちの坊ちゃんに見えるが、それこそ見た目だけだ。
現在の職場である集賢殿の校理に就任してから、ラムは時折、世子時代のホンウィとも顔を合わせていた。
彼が、ずば抜けて利発であることは、世宗や先代の王から漏れ聞いていた。実際、公平に見ても賢い少年だと思う。
彼と言葉を交わしたことがなければ、世宗や先王の言うことは、祖父バカ、親バカと一笑に付されるだろうが、決してそうではない。
ラムが、今は密かに心の中で君主と仰いでいる首陽でさえ、ホンウィの優秀さを認めている。
(……だからこそ……あの方が王位に就くには、今の殿下をどうにかして退かせなければならない)
だが、それでいいのだろうか。
ラムは、ふと自問する瞬間がある。
あれだけ聡い少年だ。うまく導いて育ててやれば、後世に残る英明な君主となることは間違いない。
しかし、それを思うと、『だからこそ』というところに話が戻ってしまう。
「二人とも、まだこんな所にいたんですか」
思考に沈んでいたラムを、そんな声が現実に引き戻す。いつの間にか伏せていた顔を上げると、ミョンフェが、小走りに駆けてくるところだった。
「あとから来ると思ってたのに、いつの間にかいないんだから。捜しましたよ」
「あ、ああ。すまない」
「ほら、ユンソンも」
ミョンフェに声を掛けられたユンソンは、明らかに面倒そうに、「俺も?」と顔をしかめている。
「いいよ、俺は。どーせ、あとで大君様にあらまし聞けば済むし……馴染みの妓の部屋にでも行ってくる」
きびすを返そうとするユンソンのチョゴリの裾を、ミョンフェの手が素早く掴んだ。
「ダメですよ。大君様のお手間を取らせちゃいけません」
「ええー。じゃあ、正卿さんに聞くから」
この三人の中では最年少のユンソンは、ラムのことも字の『チョンギョン』と呼ぶ。この国では年齢的、もしくは、身分や役職的に目上の者を諱で呼ぶのは、とんでもない無礼に当たるからだ。
「大君様に訊かなければいいって問題でもありませんよ。ラムだって忙しいんですから」
「俺だって忙しいよ」
「妓遊びに、ですか?」
ミョンフェの笑顔が、ついに目の笑わないそれになる。
「分かりました。自分の足で歩いて行くのと、ちょっと痛い思いして寝て貰うの、どっちがいいですか?」
相変わらず、一見笑ったように見える顔をしたミョンフェの指が、パキ、と小さく音を立てた。
「寝たらどっちにしろ話なんか聞けねーじゃねーか!」
素早く身構えるユンソンに、ミョンフェが指を鳴らしながら迫る。
「ご心配なく。部屋に着いたら、ちゃんっと起こしてあげますから。とっととどっちにするか選んでください」
本気の声音で落としたミョンフェの足が、ユンソンとの間合いを更に詰めた。
直後、ユンソンが白旗を揚げたのは、言うまでもない。
そして、その様を、油断のない目で見ている者がいたことに、ラムはもちろん、ミョンフェもユンソンも気付いていなかった。
©️神蔵 眞吹2019.




