第十七章 割り切れない議論
『――殿下がご自分を責められる必要はございません。すべてが己の意思ではなかったとは言え、チョン御医が先王殿下を弑し奉ったのは、紛れもない事実』
コンの台詞を脳裏に再生しながら、ホンウィは濡れた目元と頬を、常服の袖で拭う。
『酌量の余地はございますが、その事実に関しては、彼も負うべき責任があります』
(……分かってる。分かってるよ、だけど)
どうしても、納得できないことがある。
どう考えても、今一時的にでも、彼に全ての責任を負わせてしまうことになるのに変わりはない。
だが。
『殿下ご自身が仰ったではありませんか。この決定が、真犯人の無罪放免ではないと――』
(それも、分かってる。まだ……終わりじゃない)
だから、泣いている暇などないのだ。
わけも分からず、熱くなってくる目から零れる滴を強引に呑み込んで、ホンウィは伏せていた顔を上げた。
***
目の赤みがある程度引くのを待っていた為、司憲府に赴いたのはそれから二刻〔三十分〕もした頃だった。
前日、チョン・スヌィほか、合計四人を取り調べた部屋には、すでにその四人と軍士が八人、そしてコンとポフムが揃っている。
「……すまない。遅くなった」
「いいえ。どうぞ、お入りに」
コンが答え、容疑者四人以外の者は全員、ホンウィに向かって小さく一礼した。
ホンウィは、机を挟んでスヌィたちと向かい合い、口を開く。
「最初に、この場にいる皆に言っておく。今から、私が何を言おうとしようと、チョン・スヌィ、ピョン・ハンサン、チェ・ウプ、カン・メンギョンが何を言おうと、口を挟むな。咎める必要もない。分かったな」
「はい、殿下」
「承知致しました」
コンとポフムが口々に言い、軍士たちは再度黙って顎を引く。
それを確認し、まだ座っていなかったホンウィは、スヌィたちに向かって深々と頭を下げた。
「殿下!?」
事前に言っておいたにも関わらず、スヌィたち以外の全員がどよめく。しかし、ホンウィは構わなかった。
「……すまない。チョン・スヌィ御医、ピョン・ハンサン、チェ・ウプ両医官。そして、都承旨。今回、あんたたちに先王殿下の弑逆を指示した首陽叔父上の口を割らせることはできなかった。だから、今回はあんたたちだけに罪を問うことになる」
四人は言葉で反応を示さない為、彼らがどんな表情をしているかは、ホンウィには分からない。
「許して欲しいとは言わない。王族の権威で、医の倫理に反することと、人殺しを強要された上に、肝心の指示を飛ばした人間は知らぬ存ぜぬを通してるんだ。憎むな恨むなってのも、無理だって分かってる」
「……その裁きが公正でない、ということも、ですか?」
冷えた笑いがその場に落ちる。
ホンウィは、ゆっくりと頭を上げた。視線の先には、昨日と変わらず、ねっとりとした微笑を浮かべたスヌィがいる。
ほかの三人は、戸惑ったような表情をしていた。
「……ああ」
「では、賭けはわたくしの勝ちですね」
「賭けなんてした覚えはねぇな」
すると、また一つ、スヌィの口から冷笑が漏れる。
「殿下の裁きが公正なモノなら、わたくしは殿下の忠実な僕となるとお約束しました」
「あんたの一人約束だな。俺は別に『是非そうしろ』とも『するな』とも言ってない」
「ええ。左様ですね。ですから、わたくしの勝ちです。これで殿下は一つ、世間の厳しさを知った」
勝ち誇った笑みに、覚えず反感が沸くが、ホンウィはそれを理性でねじ伏せた。
「否定はしない。だけど、あんたが父上を殺したこと自体は話が別だ」
「申し上げたはずですよ。わたくしに、選択権はなかったと」
「それも分かってる。拒否できたはずだとか、最悪あんたが死ねばよかったとか、そんなことは言わないし、言えるはずもねぇ。ただ、あんたが父上を殺した事実を、あんたが言うところの世間は甘く見ねえってことも、知っておいて欲しい」
「何が仰りたいのです」
「正直、あんたを殺してやりたいよ。あんたが、父上を殺したのと同じやり方でな。あんたは、俺のたった一人の父上を殺した。ピョン医官とチェ医官もだ。あんたたちを殺したところで、父上が生き返るわけじゃねぇのは嫌ってほど理解してるけど、落とし前付けてやりたい気持ちがないわけじゃないんだ」
冷ややかに見据えると、スヌィが初めてたじろいだ顔をした。ハンサンとウプは、言うに及ばずだ。
それを、努めて淡々と見つめながら、ホンウィは言葉を継ぐ。
「だけど、あんたたちの事情も理解できる。だから、残念ながら心底憎みきることもできねぇ。それに、王室の一員として、あんたたちに残酷な選択を迫った王族がいるってことも申し訳ねぇと思ってる」
「では、どうなさいますか? このまま、我々は無罪放免に?」
口を開いたスヌィは、もう元の粘着いた微笑を取り戻していた。
「いいや。言っただろ。落とし前付けてやりたい気持ちがないわけじゃねぇって。処罰は下すけど、台諫と義禁府の求刑より軽い刑になるように努力はする」
「だから、ありがたがれと?」
ホンウィは、一つ息を吐いた。
「……そうじゃない」
言うと、スヌィの微笑に、かすかに苛立ちが混じる。
「では、何なのです」
「悪いな」
「は?」
「あんたの過去に何があって、そこまで特権階級層に不信と憎悪を持たせる結果になったのか、俺は知らない。だから、謝罪のしようもないけど、特権階級層の長としても、そこに属する一人としても……恥ずかしく思う」
スヌィが、唖然とした表情を見せた。ホンウィの前では、数えるほどしか見せたことのない顔だ。
「俺は俺なりに、あんたの不信と憎悪を生んだ、特権階級層の常道的な横暴を詫びたいと思ってるし、それを正したいとも思う。それに対して、あんたたちに感想は強制してない。俺が勝手にやってるだけだけど、今回の件については……俺の本音も知っておいて欲しいから話した。それだけだ」
すると、スヌィがまた小さく笑いをこぼした。
「なるほど。詰まるところ、自己満足というわけだ」
「何が言いたい」
「詫びるつもりなど、更々ないのでしょう。表面上は謝ったとしても、所詮見せかけに過ぎない。お偉方には珍しくありませんから、今更失望もしませんがね。現にあなたは、我々を無罪放免にするつもりはないようだ」
「あんたが、父上を殺したことは許せないし、許すつもりもない。そう言ったはずだが?」
「だから、我々の事情を汲んではくださらぬのでしょう?」
「汲んでたら許すのが当たり前なのか。少なくとも人ひとり、亡くなってるのに?」
冷えた、固い声音で返すと、スヌィも苛立ちをあらわにするように、歯を剥き出しにした。
「そんなことは知りませんね。あなた方の勝手だ。いつもそうです。我々庶民は、お偉方の勝手に振り回され、こちらが害を被っているにも関わらず、そちらの事情だけを考慮せよと言う」
「……そうは言っていない」
「では、我々を放免してください。本当に、殿下が心底、王族の権威で我々を医の倫理に背かせたのが申し訳ないと思っておいでなら、父君の犠牲はその報いとお諦めを」
ふざけるな、と反射で叫びそうになるのをどうにか堪える。机に掌を叩き付けそうになるのも、何とか我慢した。
周囲の軍士は顔色を失っているが、まだ誰も何も言わない。
ポフムもスヌィに殴り掛かりそうな形相をしているのを、コンの手が制している。
「……だったら訊くけどな。もし放免にすると言ったら、今日の夕刻会議の場で、昨日俺にしたのと同じ話をしてくれるか?」
スヌィが、息を呑んだ。ほかの三人も同様だ。
「あんたの言う通りだよ、スヌィ。特権階級層の、庶民に対する横暴を放置しておいた結果が父上の死に繋がってるって言うなら、確かに王となった俺にも責任はある。俺は父上の死という代償を支払って、あんたたちに報いよう。だが、もし俺が黙って父上の死を呑み込んで、あんたたちの国王弑逆を無傷で放免するなら、その代わりに、真実を公にすべきだ。違うか?」
直後、スヌィの顔には余裕が戻った。その顔にうっすらと、何度目かで粘着質な笑みが浮かぶ。
「……やはりあなたは王族ですな。それでは貸し借りが棒引きにはならぬと、お分かりでないらしい」
「へぇ。じゃあ、内訳は?」
「わたくしは、先王殿下を弑し奉りました。ですが、それを殿下、あなたが王族の過ちによる強要された犯行と認めることで罰を免れた。それで一つ、取引が成立しております。わたくしが真実を公にする、という対価を差し出すなら、もう一つあなたから見返りがありませんと」
「ふん、なるほどね」
ホンウィは鼻を鳴らし、無意識にうなじの辺りへ手をやる。呆れたように目を細めると、スヌィに冷ややかな流し目をくれた。
「調子に乗るのも大概にしろよ」
うなじから離れた手が、柔らかく放物線を描いて、机に添えられる。素早い動きでホンウィは机に乗り上がり、あぐらを掻くと、スヌィを上から見据えた。
「確かにあんたは、特権階級層からひどい目に遭わされたんだろうよ。具体的には何度も言うようだが、聞いてないから知らねぇ。けど、それは多分、特権階級にいる奴を人間と思えなくなるようなことだろうってのは予想が付く。そのことは、特権階級層の頂点にいる身として、平身低頭詫びるつもりで俺はここに来た。だけどな」
ホンウィの指先が、スヌィの肩先に突き付けられる。
「そろそろ自覚しろよ。あんたは、人ひとり殺してんだぞ」
「……殿下にも、まだご理解いただけていないようだ。わたくしには、選択の余地がなかった。何度言わせれば気が済むのです」
「だから、免罪符になるとでも思ってんのか。医官のクセに、救うべき患者を医術の知識で殺すよーな人間が一人でもいるなんて知っちまって、俺はこれから医者不信になりそーなんだけどな」
「殿下に、それを責める資格があるとでも思っておられるのですか」
「百歩譲って、王としてはその資格がなくても、父親を主治医に殺された一人の息子の立場としちゃ、あると思ってるね」
スヌィの唇が、何か言いたげに震えた。が、今度は彼の口が何か言葉を漏らすことはない。
ホンウィは、もう一度鼻を鳴らすと、机から降りてスヌィを見据える。
「庶民階級にいる、チョン・スヌィという一人の人間に対しては同情するし、はっきり言って責めることはできねぇ。王としては、王族の頂点にいる者として、あんたの気が済むまで謝罪する。だけど、医官としてのあんたを、許すことは俺もできねぇ。酌量すべき事情があったとしても……父親を殺された、一人の息子としてはな」
スヌィは、唇を噛んで、ひどく複雑な表情でこちらを見た。それは、戸惑いのようであり、ばつの悪さのようでもあり、これまで通り特権階級層に対する不信と憎悪のようでもある。
彼から視線を逸らすことなく、ホンウィはスヌィの目を見つめ返した。
「どちらが悪い、とはっきりこの件に関して、ケリを付けることは多分難しいだろうよ。全体的に、あんたとはどこまで行っても、意見が平行線だろうからな」
許せないことと責められないこと、許容できないことが、今回父を殺した者たちとホンウィの間には、複雑に絡み合い過ぎている。
それを最早口に出すことなく、ホンウィは目を伏せて、出入り口に足を向けた。
「夕刻の会議には、あんたたち四人も参加してくれ。大臣たちの前で、改めて証言してくれると嬉しい。どういう証言をするかは、任せるけどな。正式な沙汰はその時に下す。コン」
「はい、殿下」
「そういうわけだから、会議が始まる頃に、思政殿の広間のほうへ、四人を護送してくれ。それまで、警備は厳重にな」
「承知いたしました」
退出の際に、チラリとスヌィを見る。
彼のギラ付いた目が、視線だけで射殺せそうな凄まじさでホンウィを睨んだ。
***
夕刻に御前会議を開く旨を議政府へも通達の手配を済ませると、ホンウィは思政殿にある王の執務室へ戻った。
昨日、上疎の件が、図らずも未処理状態になってしまったからだ。夕べの内に細かい点検はできなかったので、まずはそこから始める。
どんなにうんざりしようが、暴れようが喚こうが、燃やされてしまったものはもう元へ戻らない。地道にやるしかないが、分かっていても溜息が出た。
(……取り敢えず点検して……会議はえっと申時の正刻〔午後四時〕からだから……今何時だ?)
苛立ったように側頭部へ手をやるが、やはり翼善冠に阻まれ、耳の後ろを掻いた。
卯時の正刻〔午前六時〕にはもう、コンとサンピル、インとチョンソと執務室で話をしていた。それが大体半時辰〔一時間〕掛かったとして、司憲府に出向いたのが辰時の正刻〔午前八時〕より二刻〔三十分〕ほど前だと仮定すると、巳時の正刻〔午前十時〕にはまだなっていないだろう。
(……とすると、朝水刺にはまだちょっと早いけど、もう少しだよな……)
そして、昼食に当たる点心は、それから一時辰〔二時間〕後だ。とは言え、朝水刺できっちり一食分頂くので、点心で供されるのはおやつ程度のモノではあるが。
(そしたら、点心をちょこっと錦城叔父上とヒョク兄に貢いで、夕刻の会議まで目一杯手伝って貰うか……)
くっそ、と小さく漏らしつつ、処理済みの箱を確認する。
首陽叔父はどれだけ書くのが早いのか、もうすでにひと箱分が、上疎で一杯になっていた。
しかし、それらに対して書いたと思われる批答が見当たらない。叔父に見せられた批答はそこにあったが、それ以外の文書がないのだ。
「……ってちょっと待てよ」
思わず自問が口に出る。
見当たらないのに、処理済みの箱は上疎で一杯になっている。だとしたら書いたはずの批答はどこに、と考え、弾き出された答えに、血の気が引いた。
「……ンッのクソ叔父上、まさか……!」
多分、生まれて初めて(この場に相手はいないが)首陽に対する悪態が口を突く。
「尚膳! イム尚膳はいるか!!」
「はっ、はいっ、殿下」
大慌てで駆け込んできたイム・ギュギュン尚膳は、肩をすぼめるようにして頭を下げた。
「昨日、首陽叔父上がここで仕事をしていたな」
「は、はい」
「叔父上は、ここで書いた書翰を誰かに渡したりしなかったか?」
「ええと……はい、確かに承りました。殿下にはご承知のことだからと大君様が仰られたので、尚伝に手渡して」
尚伝とは、内官の正四品相当の役職で、王命の伝達が職務だ。
「そーゆーコトは俺……じゃない、私本人に確認を取ったあとでするのが当然だろう! 職務怠慢だぞ!?」
「もっ、申し訳ございません!!」
キュギュンは、直角に身体を曲げる勢いで、再度頭を下げた。
はあっ、と重い吐息を漏らして、「それで」と質問を続ける。
「誰に渡した。尚伝と一口に言っても二人いるだろう」
「は、はい。安勲順尚伝ですが、膨大な量でしたので、恐らく西泰英尚伝も手伝ったモノかと」
「膨大? どれくらいの量だ」
「ええと……あ、ちょうどその箱くらいの」
キュギュンが指さした先を目で追うと、それはまっすぐ処理済み上疎が満杯になっている箱へ行き着いた。
「ちなみに、全員に配り終えたかは分かるか?」
「恐らくは配り終えたと思います」
マジかよ、と頭を抱えたくなるが、どうにか堪える。
「両尚伝が誰に持って行ったかは、分からないよな」
「……申し訳ございません」
だが、十中八九、あの箱の中の上疎の主に届けたと思っていいだろう。
「分かった。では、至急あの箱の上疎の提出主を書き出して一覧にするよう尚洗〔正六品の内官。業務の一つに宮中の一般事務が含まれる〕全員に通達しろ。それから、尚伝両名も呼び出して、昨日渡してしまった批答を回収するよう伝えよ。それが完了するまで、尚伝と尚洗は全員、今日の業務は休んで構わない」
「は……ですが」
「何だ? だったら、それを全部そなたが代わりにするか? 言っておくが、上疎の回収に関してはすべて、そなたの怠慢が原因なのだぞ。文句を言える筋合いではないことは分かっておると思ったがな」
「もっ、申し訳ございません! どうか、わたくしを」
「殺したからと言って、すぐさま批答が回収できるのか? できるなら殺してやるが」
もう身の置き所がないとでも言わんばかりに、キュギュンはその大柄な身体を可能な限り縮めて、益々肩をすぼめた。
「おっ……お詫び申し上げます」
「少しでも申し訳ないと思うのなら、今後は私本人に確認をとってから行動するよう改めるのだな。それから、一覧作りだけで構わぬから、そなたも手伝え。通常業務は休むか、気になるなら合間に片付けよ」
「畏まりました、殿下」
慌てて執務室を飛び出す彼を見送る間も惜しく、ホンウィは一覧作りに取り掛かった。
©️神蔵 眞吹2019.




