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第十四章 明かせない事実

 覚えず、顔が強張こわばった。

(……こいつ)

 改めて、目の前の男に視線を据える。

 ホンウィが、この男――チョン・スヌィと会うのは、今日で二度目だ。

 最初は父が亡くなった時。彼は父の枕辺にいたが、当時のホンウィに、彼の顔までしげしげと確認する余裕はなかった。

 よって、今日ほとんど初めてまともに顔を見たのだけれど、パッと見ても、年の頃はまったく分からない。ポフムと同年代にも思えたが、はっきりしたことは言えなかった。

 体つきはヒョロリと細身で、輪郭は丸に近いが、頬は削げ気味だ。鼻筋はゴツゴツと骨張っていて、眼光ばかりが鋭い。

 そして、これまで淡々として見えていた表情に、今になって混ざったモノがある。

(……苛立ち……か。いや……)

 それもあるだろうが、それにまさって感じるのは不信感だ。恐らくは、特権階級全体に対しての。

「……何を言っても……無駄なのか」

 ポツリと落とすと、スヌィは目を丸くした。

「は?」

「いや。さっきからあんた、やたら突っ掛かると思ってたけど、理由が何となく分かったよ。特権階級にいる人間が丸ごと信用できねぇんだな」

 スヌィが、かすかに肩を震わせる。

「……だったらどうだと?」

「だから突っ掛かんなよ、大人気おとなげねぇ。別にどうもしねぇよ。俺個人の考えだが、俺は身分や性別で人を差別しちゃならねぇって思ってる。自分と違う階級や性別だってことが、他人を遠慮なく踏み付けたり傷付けたりする理由にはならねぇともな。祖父じい様の教えでもあるし。でも、この言い分、多分あんたは信用してくれねーんだろ」

 やや疲れたような吐息を漏らしながら、ホンウィは無意識にうなじに手をやった。そんなホンウィに、スヌィは冷ややかな、それでいてどこか粘着質な視線を向ける。

「否定はしません」

「じゃあ、誰に義理立てしてるんだ?」

「義理立て、ですか?」

「ああ。あんたがかたくなに事実を言わねえのは、誰か庇ってんだろ? 多分、あんたに父上の治療をしくじるように指示した誰かを。そいつは、推測だけど、あんたより現実的に身分が上の奴なんじゃねぇのか?」

 すると、スヌィはまたもクスリと小さく嘲笑を漏らした。

「まったく……殿下もその辺はまだ、御年相応ですね。多分とか推測だとか、随分曖昧な、穴だらけの理論だ。それでわたくしを追い詰めたつもりですか?」

「さあな。事実に対して感じた矛盾に穴はないと思ってるけど、あんたが否定を続けるんじゃそう言われても仕方ねぇ。追い詰めたかどうかなんて、実感も持てねぇよ」

 舌戦ではとかく、相手に与えた損傷が測れない。単純な殴り合いのほうが、見た目にも簡単だと思う。

 今度は、睨み合いが続いた。だが、スヌィが何か言う様子はない。

 先に痺れを切らしたのは、ホンウィのほうだった。

「……分かった。今日は帰る」

 吐息混じりに言って、おもむろに立ち上がると、スヌィは一瞬目を見開いた。

「殿下?」

 声を掛けてきたのは、ポフムだ。

「あの、帰る……とは」

「山のよーな上疎に批答ピダプ書く作業がまだ残ってるんでな。コン」

「はい、殿下」

「悪いがこいつら、全員別々の牢に入れてしっかり監視と警備、頼めるか」

「それが御命ならば是非もありませぬが……理由をお訊きしても?」

「別々の牢に入れるのは、話し合いで口裏合わされない為だ。監視と警備は言わずもがなだろ」

「承知いたしました」

「念の為に言うけど、誰か面会に来ても通すなよ」

「心得ております」

 コンが、胸元へ手を当て、うやうやしく頭を下げる。

「悪いな。面倒掛けて」

「滅相もない。どうぞお任せを」

「ありがとう」

 小さく頷いて言うと、ホンウィは視線をスヌィたちに戻した。

「じゃ。明日また来るから。そん時には本当のコト聞かせてくれると嬉しいね」

 微笑付きで告げると、メンギョンとハンサン、ウプは明らかに動揺した表情を見せる。

 スヌィでさえ、この時になると何とも複雑な顔をして、「……お言葉ですが、殿下」と返した。

「何?」

「明日いらっしゃっても、我々の回答は変わりませんよ」

 にべもない言葉に、覚えず苦笑が漏れる。

「なら、明後日また来る」

「それでも同じです」

「その次の日も、あんたたちが話す気になってくれるまで、毎日通うさ」

何故なにゆえです!?」

 遂に、スヌィが声を荒らげた。

「拷問なさればよろしいではないですか! そうすれば、わたくしでなくとも誰かが殿下の望む言葉を漏らすでしょう!! 誘導して自白を引き出せば、今日中には片が付きます!!」

 横顔だけこちらへ向けた彼の目は、半ば血走っている。

 ホンウィは、益々疲れたような溜息を吐いて、肩を竦めた。

「……あんた、二言目には拷問拷問って言うけど、そんっなに拷問されんのが好きなのかよ。どーゆー被虐趣味だ?」

「誤魔化さないで頂きたい!!」

「答えを誤魔化してんのは、そっちだろーが」

 ホンウィは再度、うなじの辺りを掻いて、スヌィの正面へ戻る。

「こんなこと訊くのは、どーも本筋からズレてる気もするけどな。あんた、どうして欲しいんだよ」

「……どうして欲しいか、ですと?」

「ああ。拷問しろしろって騒ぐクセに、口を割らない気は満々。だったら我慢比べに出ようとすれば、癇癪かんしゃく起こすって……いい年して、俺よりガキみたいだぜ?」

「ガキ、ですって?」

「そ。『構ってくれ』『こっちを見てくれ』って泣き喚いてる自己中なガキだよ」

(もっとも、見た目がこんなおっさんじゃ、可愛がって構おうって気にもならねぇけど)

 口に出さない一言は、ばっちり顔に出ていたらしい。

 眼光鋭いその目で、凄まじく睨まれてしまう。

 おお怖、と、やはり口には出さずに、ホンウィは肩を竦めた。

「ま、そうは言っても、悪いが俺も暇じゃない。取り敢えず、明日また来るから。あんたも一応大人なら、何が一番得か、よく考えといてくれよ。俺だって、決着が延びるのは有り難くないんだからな」

 正直、もう付き合っていられない。ひとまず、今日のところは、だが。

 相変わらずギラギラとした目線を、弾き返すように睨み返すと、ホンウィは今度こそ、その場をあとにしようとした。

「……本当に、公正な裁きが下せますかな」

 低く落とされた声音に、ホンウィは動きを止める。

「……何の話だ」

「事実を聞いた上で、それでも殿下が公正な判断を下せたら、わたくしは殿下のしもべとなることをお約束致しましょう」

 拘束されていながら、まるで自室でゆったりとくつろいでいるかのように背もたれに背を預けたスヌィは、やはり陰惨な表情を浮かべてホンウィを見た。

「別に、無理に従ってくんなくてもいーよ。身分とか、位に対しての尊崇なら必要ない」

「でも、真実は聞きたい。違いますか?」

 試すように問われると、『違わない』と素直に言いたくなくなる。何をたくらんでいるか分からないくらい表情が、そう思わせるのだろう。

 素直に『聞きたい』と言ってしまったら、何か大事なものを失ってしまうような――あるいは、それと同等の罠が張られているような気がする。

 だが、真実を聞かずには、この件の解決はないのも現実だ。

 ホンウィの逡巡を敏感に嗅ぎ取ったのか、スヌィが面白がるような笑みを浮かべた。

「どうなさいました、殿下」

「……いや。さっきまで散々渋ってたクセに、気味が悪ぃと思って」

「では、お聞きにならずに、我々のこれまでの供述を元に裁かれませ。ただ、それは殿下の望む真実とは程遠く、公正な裁きとはなり得ますまい。殿下の、思っていらっしゃる通りに」

 ホンウィは、無表情に沈黙を返した。

(どうする)

 いや、どうするも何もない。彼が話す気になってくれたのなら、聞く以外の選択肢はない。

「どうなさいますか? 聞くのをおやめになっても構いませんが」

「……いや。聞かせて貰う」

「殿下、記録は」

 ポフムが訊ねるのを、手を挙げて遮る。

 否の意を、正確に察したのか、ポフムはそれ以上言わずに黙って一歩下がった。

 それを目の端で確認しながら、ホンウィは椅子に座り直した。

「でも、何で急に話してくれる気になった」

「その理由までお知りになりたいのですか。何とも欲張りなことで」

「悪いな。俺もまだガキなモンで。世の中知りたいことだらけなんだよ」

「左様ですか。まあ、減るものでもなし、まずはそのご質問からお答えしましょうか」

 スヌィは、昏い微笑を浮かべて続ける。

「単純な興味ですよ」

「興味?」

 ホンウィの眉間に、シワが寄った。それを見ながら、スヌィは面白がるように言葉を継いだ。

「ええ。真実を知っても、殿下はあくまで非情に、公正に裁きと判断を下せるか――下せなくとも……いいえ、むしろ下せないほうが、面白いモノが見られるのは間違いない」

「ふん。随分買い被られたな。俺が、ヒネクレモンのあんたを満足させるだけの、どんな面白い芸を見せられるって言うんだ?」

 投げるように返すと、スヌィの口元の微笑は益々深くなる。

「さあ。そこは、殿下が現時点でどれだけ純粋か、にもよりますかな」

「純粋、ねぇ……こう見えて、自分で言うのもナンだけど、かなりヒネてると思うぜ?」

「いえいえ。確かに、王室に生まれたにしてはお口が悪く、気がお強いようだが、それだけですよ。殿下は、まだご存知ない」

「まあ、人生経験分のことしか知らねぇのは認めるけど」

 直後、何がツボにハマったのか、スヌィは軽く吹き出した。

「ははっ……いや、失礼。わたくしが申しているのは、そういう一般的なところではございませんので」

 もう受け答えも面倒になって、ホンウィは腕組みし直して背もたれに背を預ける。

 するとスヌィも、不気味な微笑を浮かべたまま、顎を引いてホンウィを見つめた。

「お覚悟なさってください」

 スヌィの口元が動くのが、不意に緩やかになったように見えた。

「ここが、苦悩と絶望の始まりです――――――」


***


 司憲府サホンブから、居所である康寧殿カンニョンジョンまで、どうやって戻ってきたのか、ホンウィには記憶がなかった。

 ふと気付けば、周囲は暗くなっていたが、明かりも灯す気にもなれず、長座布団に横たわっていた。――三日前と、同じだ。

 宮殿へ戻ってから、執務室へ行った覚えもない。山と積まれた上疎への批答の残りが気にはなったが、続きを片付ける気分ではなかった。

 気分云々で職務放棄してはいけない仕事であることも、頭では分かっている。

 だが――


『先王殿下を、弑し奉るようご命じになられたのは、首陽スヤン大君テグン様です』


 その言葉が漏れた瞬間、『嘘だ!』と叫ばなかったのは、我ながら上出来だった。

 嘘、と断ずる要素が、なかったからかも知れない。

 あの時、目の前にいた男は、こちらの反応を面白がるような表情こそしていたが、嘘を吐いている様子はなかった。まっすぐにこちらを見据えて、スヌィは続けた。

『先王殿下の背面腰部分に腫れ物ができている、と知った首陽大君様は、わたくしに仰いました。わたくしの運を、大君様に賭けてみないか、と』

『……運を、賭ける?』

『左様です。大君様は、それから腫れ物の治療をわざとしくじって、それと見えぬよう先王殿下を死に至らしめることができるかどうか、お訊ねになった』

『それであんたは、それをご丁寧に教えて、実行したってのか?』

『はい、殿下』

 平然と答え、微笑すら浮かべた男に手が伸びたのは、ほとんど反射だった。

『ふっざけんな!』

 ガタン! と派手な音が上がり、椅子が蹴倒される。その時には、ホンウィは自身とスヌィとの間にあった机の上に乗り、彼の胸倉を掴み上げていた。

 コンやポフムの制止が遠くに聞こえた気がしたが、脳にはそれと認識されない。

『あんた、自分が何をしたのか分かってんのか!!』

 しかし、スヌィにはそれもこたえなかったらしい。やや背を仰け反らせるようにしながらも、表情は淡々としている。

『無論です。先代国王殿下の治療過誤でございましょう』

『単なる治療過誤よりタチ悪いぜ……その上あんたは、首陽叔父上っていう部外者に、わざわざ、よりによって国王の健康状態を漏らすっていう守秘義務違反を犯したんだ』

『何を仰いますやら。首陽大君様は先王殿下の弟君です。立派にお身内でしょうに』

『俺は聞いてない! 俺は父上の息子で、当時世子(セジャ)だったんだぞ!? その俺に報せないで、何で叔父上は知ってんだよ!!』

 すると、スヌィは嘲るような笑いをこぼした。

『何がおかしい』

『いいえ。やはりこういうところは、王族だと思ったまでです。いくら頭で人間の平等を思い、口で大臣たちに説いていても、本質的なところはご自分本意だ。コトが思う通りに運ばなければ、暴力と威嚇と権力に訴える』

『ッ……!』

 覚えず、息が詰まる。理性を総動員して、スヌィの胸倉からまず手を放した。

『……暴力と威嚇は認める。悪かった』

 吐息と共に言うと、スヌィは何度目かで驚いたように目をみはった。しかし、それは一瞬のことだった。

『……権力、はお認めにならぬので?』

『悪いな。その辺は指摘して貰わないと分からない。自分で自覚できてないのに謝っても、意味がねぇだろ』

 スヌィが、再度瞠目し、今度は苦笑した。

『王の息子なら、もしくは王なら、すべてを他人に教えて貰えて当然、と考えているところが傲慢だと、分かりませぬか』

 グッと言葉に詰まる。

 祖父・世宗セジョンめいで民間で育ち、民間の感覚を身に着けていると思い込んでいても、血筋による考え方と価値観はどうにもならない、ということだろうか。

『……すまない。これからはもっと自覚して、直していく』

 ノロノロと机から下り、倒れ込むように椅子へ戻った。

『だけど、それとこれとは別だ。疑うわけじゃないから悪く思わないで欲しいんだが……本当にそれは……父上を、し、……死なせるようにと、言ったのは……首陽叔父上、なのか』

『はい、殿下』

 スヌィも、前の話題を引きずらず、ただうっすらと微笑した。

 ホンウィは、もうスヌィの顔を見られず、視線を落としていた。膝の上に置いた手が、無意識に拳を作る。

『じゃあ……思政殿サジョンジョンの南回廊で、首陽叔父上と話していたのは』

『計画完了が近い、とご報告申し上げていただけにございます』

『三日前に、首陽叔父上が資善堂チャソンダンに行ったのは?』

『口止めに来られたのです。我々が罪をかぶれば、今後必ず大君様が助けて下さるから、決して大君様の関与は漏らさないようにと。恐らく、都承旨トスンジの所にいらしたのも、同じ理由ではないでしょうかね』

 眉間にシワが寄り、整った顔立ちがクシャリと歪んだ。

『……助ける? 叔父上が、どうやって』

『さて、そこまでは我々の関知するところではございませぬ。大君様は、具体的にどうされるかまでは、仰いませんでしたゆえ』

 もうこの時、ホンウィの視線は下に落ちっ放しで、スヌィの顔などまともに見ていなかった。

『……叔父上が……口止めに来た、と言ったな』

『はい、殿下』

『だったら、何で今、あんたは俺にベラベラ全部喋ってんだ?』

『理由が必要でしょうか?』

『理由がないなら、気まぐれか? あんたは、首陽叔父上に運を賭けたんじゃなかったのか』

『どちらも“いいえ”ですね』

 一拍ののち、ホンウィは鈍い動作で目を上げる。

『どちらも……いいえ?』

『はい』

『気まぐれでも……叔父上に運を賭けたんでもない?』

『左様です』

『じゃあ、何なんだ?』

 理解できない。

 まったく理解できなかった。

 国王の弑逆という大罪に関わっておきながら、あっさりコトの真相を口にできる神経が。

 スヌィは、やはり楽しそうに笑って答えた。

『一つには、その顔が見たかったからですよ』

『……何だって?』

『凛と取り澄ましたあなた様のご龍顔が、どのように歪むか、見てみたかった。ご自分のお身内が、お父上を殺害したと知った時、あなた様はどういう表情をして苦悩されるのかをね』

 唖然とした。

 多分、周囲も同じだっただろう。だが、それを、ホンウィには認識する余裕すらなかった。

『……ほかにも、理由のあるような口振りだな』

 そう問うたのは、その場に同席していたコンだ。

『ええ。この真相を聞いても、殿下が公正に、冷淡に叔父君を処罰できるか……見物だと思いませぬか?』

『そのようなっ……!』

『やめよ、掌令チャンリョン

 コンとポフムのやり取りは、耳に入ってはいたが、どこか遠くに聞こえた。

『チョン・スヌィ御医オウィ

『何でしょうか、大司憲テサホン様』

『結局、そなたの目的は何なのだ』

『目的など、ありませぬよ』

『では何故なにゆえ、最初に大君様の命に従った』

 すると、クスリ、と小さな笑いを挟んで、スヌィは答えた。

『選択の余地がなかったからです』

『何?』

『そうでしょう? 御医とは言え、たかが一医官風情が、国王殿下弑逆のたくらみを聞いた上でお断りして、ただで済むとでも?』

『先王殿下に直訴するという手もあったであろう』

『あの先王殿下に? あの、過ぎるほど人のよい方が、弟君がご自身を手に掛けようとしているなど、信じるわけがないでしょう。そして、首陽大君様も外面の良さは完璧です。断っても密告しても、その時点で首が飛ぶのは確実。であれば、どこで首が落ちても、わたくしには大した違いはない』

『なれば、最後まで大君様の命に従わなかったは、何故だ』

『わたくしは、大君様を信用しておりませぬから。こちらが約束を守ったとしても、あちらが約束を果たしてくれるかはそれこそ賭に近い。しかも、負ける確率のほうが高い賭だ。大君様のみならず、王族や両班ヤンバンは皆、信用ならない。大司憲様や殿下も、わたくしにとっては、例外ではないのですよ』

『ではまさか、酌量か減刑を狙って自白を?』

『いいえ』

『ならば、一体』

『ここですべての罪をかぶろうが自白しようが、首が飛ぶのに変わりはない。よくて毒薬を賜る程度でしょう。名誉が守られるかどうかの違いしかない。でしたら、タダで死ぬのはどうにも詰まらない。どうせ死ぬのなら、王室を引っかき回してみるのも面白いかと思ったまでです』

『……どうして……急にそんな風に気が変わった?』

 ホンウィの力ない呟きに、コンとスヌィが同時にこちらを向くのが気配で分かる。だが、ホンウィには、いつしか俯けていた顔を上げる気力さえもうなかった。

『少し前まで、首陽叔父上にあれだけ義理立てしてたクセに』

 すると、クスリと嘲るような笑いを挟んで『殿下が、先程ご自身で指摘されたはずです』と答えが返ってくる。

『わたくしは、特権階級の人間を信用していないと。仰る通りです。わたくしは、両班ヤンバンも王族も信じない。信じない人間に義理立てなど、初めからいたしませぬ。喋ろうと思わなかったのは、わたくしの言葉が信用されないと思っていたからです。しかし、殿下があまりに純粋に、拷問せずともいずれ誠意が伝わって、わたくしが事実を喋ると信じ込んでいるのが滑稽こっけいでね。しげしげと何日も通われるのもわずらわしいゆえ、とっとと喋ってさっさと賜薬でも下していただこうかと思ったまでです。ついでに、殿下が公正な裁きを下せるかどうか、見届けるのも一興かと』

 ノロノロと視線を上げると、粘着質な微笑に行き当たる。


『罪をかぶってただ死ぬより、ずっと有意義な死を迎えられると、そう思っただけですよ――――』


「――――ッッ!!」

 チクショウ、と口走りそうになったが堪えた。代わりに、拳が結構な勢いで床へ叩き付けられる。

 不思議と、痛みは感じなかった。

 思い切り走ったわけでもないのに、弾んだ呼吸音が、誰もいない室内に残響する。

「……くっそ……」

 いっそ、思い切り走りたかった。できることならそうしたい。

 宮殿には、実行するだけの充分な広さもある。

 しかし、突然国王が駆け出したりしたら、それだけで一騒動あるのが王宮だ。なんて窮屈な場所なんだろう。

(……まどろっこしいな。正面切って言われりゃ、やりようもあるのに)

 遠回りな主張や、兄を殺すようなことはしないで、『その座が欲しい』と言えばいい。

 祖父や父はどうか分からないが、ホンウィは世子の座なら譲り渡したかも知れない。国王となってしまうと、宮殿は本気で息苦しい。

 けれども、それ以上に、知ってしまった事実が苦しくて受け入れられない。

 国王の座、その地位。

 それは、とても重いものだ。

 大臣たちの意見に耳を傾け、時に国中の役人の意見を聞いて決済し、民の生活にも気を配る――そんな地位を、実の兄を殺してまで、手に入れたい叔父の気持ちが分からない。


『うまくやって、当たり前なんだ』


 ふと、祖父の言っていたことを思い出した。


『毎日、何不自由なく食べられて、両班や役人に虐げられず、明日明後日その翌日も、将来を心配せずに、平穏に自分らしく生きる。民が求めるのはそういう暮らしだ。そして王は、民がいつも笑って暮らせることを約束しなくてはならない。その暮らしが守られる限り、民は何も言わぬモノだが、少しでもそこに影が差せば、たちまち不満を噴出させる。我々のやることは、場合によっては民の命や、或いは不幸に関わるだろう。だから、ヒャン。そしてホンウィや。時に大臣たちと衝突しても構わぬ。民の目線に立って、彼らの幸せをこそ、一番に考えなさい――』


 ヒャンと自分を応分に見ながら言った祖父に対し、特に何も考えず、ただ『うん』と答えた自分は、今よりもっと幼かった。

 祖父の言ったことの重みが、今は何分の一かは理解できるようになっていると思っていた。

 けれども、そうではなかったと、スヌィとの会話で思い知らされた気がする。

 彼の人生にあったどんな出来事が、あれほど特権階級層に不信と憎しみを抱かせる原因になったかは分からない。だがそれは、彼に『殺人』さえ『大したことでない』と思わせるような何かだということは、嫌でも理解できる。

 彼がそれほどの目に遭ったというのに、ホンウィにはそれを宥めることはできず、慰めるすべもない。

 しかし、彼がホンウィの父を手に掛けたことも事実だった。

 許せないと思うし、許すつもりもない。スヌィの過去と父とは、恐らく何の関わりもないのだ。だのに、父は病を利用され、命を絶たれた。

 父を殺したことも許せないが、医官という、よりによって人の命を預かる職務にある人間が、簡単に人をあやめて悔いないような思考の持ち主だということにも、怒りと寒気を覚える。

 そして、そんな人物に、殺人をそそのかした首陽叔父にも。

 しかも叔父は、先々代王の王子だ。王族という、この国の身分秩序において最高の階層にある人間が、それより下の人間に何かを頼んだら、それは命令と同意だ。しかも、拒否することは、その人間の死に直結している。

 今日、スヌィの言った通りだ。もし本当に、首陽がスヌィに、王を死に追いやる方法を訊ねたのだとしたら、スヌィにはほかに選択肢がなかったのも事実だった。

 それを思えば、一方的にスヌィだけを責めることはできない。

(……くそっ……どうしたら)

 そこまで考えて、ハタと思い至る。

(……そうだ……スヌィの話は聞いた。でも、この件について、叔父上の話は聞いてないじゃないか)

 少なくとも、首陽本人の口からは、何があったかを聞いていない。ホンウィがたださなかったからだ。


『――もし、裁きの判断に迷うようなことがあったら』


 思い出の中の、祖父の言葉に後押しされるように跳ね起きる。


『当事者全員から話を聞くんだ。片手落ちがあってはいけない。身分に関係なく、すべての者の話に、真剣に耳を傾けなさい。不公平な裁可は、王や、上に立つ人間がもっともしてはならぬことだよ』


(……分かってるよ、祖父様)

 自身の中の祖父に、力強く答えて、ホンウィは立ち上がった。


©️神蔵 眞吹2019.

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