第十五章 剥がれ始める仮面
立ち上がったついでに、ホンウィは首陽叔父を訪ねる前にと、思政殿の執務室へ立ち寄った。
司憲府へ行く時、散らかしっ放しにしていたのが、頭の端に引っかかっていたのだ。
康寧殿を出ると、尚宮や内官が、例によって無言であとを付いてくる。
執務室の前まで来ると、その前にいた内官が頭を下げた。室内からは、明かりが漏れている。
「……誰かいるのか?」
「はい、殿下。首陽大君様がおいでです」
「……そうか」
まさにこれから訪ねようとしていたところだ。ちょうどいいと言えば、ちょうどいいのだろうが、何やら違和感が頭をもたげる。
「お取り次ぎしましょうか?」
入るのを躊躇っていると思ったのか、内官が訊ねるのへ、今度ははっきりとした反感を覚えた。
「ここの主は、叔父上か?」
思わず声が尖り、内官は暗がりにも分かるほどさっと顔色を変えて首を縮めた。
「いえ、そんな! お許しを」
「……よい。どうせ中へ入れば顔を合わせるのだ」
扉を開けて、仕事場へ顔を覗かせる。そこにいた首陽は何と、王が執務を行う机に着いて書き物をしていた。
「叔父上?」
あからさまに眉根が寄ってしまう。声を掛けると同時に、首陽が顔を上げた。
「ああ、ホンウィか。取り調べは済んだのか?」
ニコリと笑った叔父は、椅子から腰を上げる様子はない。
ホンウィが台座代わりにしていた書物の包みは、処理済みの上疎入れの箱の前に置かれていた。
「外はもうすっかり暗そうだな。こんな時間まで掛かったのか」
訊ねながら、首陽は未処理の新しい上疎の筒に手を伸ばす。
「……まあな」
何でそこに座ってるんだよ、そこは王の席だぞ!? と叫びそうになるのを、ホンウィはどうにか堪え、執務机に歩み寄った。
「叔父上こそ、ここで何してんだ? 錦城叔父上と永豊叔父上は?」
「私はここで、批答の書き直しをしていた。二人は帰らせたよ。王がいないのに、王子がここで仕事をしているのも筋が通らぬだろう?」
「……それは叔父上にも言えることじゃねぇの?」
すると、首陽は刹那、明らかに不服そうな表情を浮かべた。だが、それは本当に一瞬のことだった。
「……これは手厳しいな」
無理に浮かべたように見える笑顔で言うと、「ところでホンウィ」と話を転じた。まだ首陽は、王の席に着いたままだ。
「お前の書いた批答は、やはり問題がある。上疎に対して平行線ではないか。ほら、ご覧」
首陽が、上疎と先刻ホンウィが書いた批答を比較するように並べて示す。
ホンウィは、小さく肩を竦めて、首陽の手元を見るべく彼の隣へ移動した。
示されたある上疎は、『身分秩序及び性別を無視した殿下のお考えは、この国の根幹を揺るがします。どうか、お考えをお改めくださいませ』と、簡単に言えばこんな内容だ。
対するホンウィの回答はと言えば、『生憎だがそうは思わぬ。どんな身分の者も男も女も等しく人間である。不満があれば直に会って、とことん話し合おう』という文面だ。
「……俺の考えを率直に言ってんのに、何が問題?」
「国王の仕事は上疎に批答を書くことがすべてではないのだぞ。さっきも言ったと思うが、このような上疎には相手に調子を合わせて書くのが望ましい。私が書き直しておいたからね。さあ」
言いながら、続けて首陽は自身が書いたと思しき批答案を見せる。
そこには、『そなたたちの意見はよく分かった。今後は身分秩序を重んじ、男女の別を厳格に守ることを約束する』と書かれている。
「……これじゃ、後々自分の思い通りになんてできないじゃん」
「仕方がないだろう。この国はそもそも建国当時、儒教を国是とすると定めた。結果、身分秩序と男女の別を重んずる国となったのだから、国王が国是を守らず重んじなければ始まらぬ。心の中で思うのなら、自由だがな」
先刻と、言っていることが違っている。
あれからまだ半日も経っていないのに、と思うと、開いた口が塞がらない。
「さあ、今回は真似をしても構わないから、この通りに書き直すといい。そなたたちが書いた批答は、処分するように手配しておいたからね。安心しなさい」
「は?」
今度こそ、ホンウィは眉根を寄せた。
「え、何……どういう意味?」
「言葉通りだ。これはお前の回答を例として見せる為に敢えて残しておいたのだが、お前に見せた以上、もう必要ないな。誰か」
「はい、大君様」
首陽の従僕と思われる内官が、さっと入ってきて頭を下げる。さっき、執務室の前で一度顔を合わせた男だ。
「これも、焼却場へ持って行くように」
「畏まりました、大君様」
首陽の差し出す批答の巻物に、内官が歩み寄り、恭しくそれを受け取る――より早く、それをホンウィの手が奪い取った。
「ホン――殿下?」
「その必要はない。それで、そなたはほかの大量の批答も処分したのか?」
王から突然下問があった所為か、内官は身を縮めた。
「え、は、いえ、あの」
「咎めはせぬから、正直に答えよ。批答を処分したのか?」
先刻の件もあってか、内官は完全に萎縮し、伏せた瞼の下で視線を左右させている。
すると首陽が口を開いた。
「構わぬから、下がれ」
「え、は……」
「話は済んでおらぬぞ。そなた、名は何という?」
「い、え、あの」
王と自身の主、どちらに従ったものかと、内官は完全に混乱している。首陽は、自分の従僕に、重ねて退出を促した。
「よいから下がれ」
「叔父上は黙っていてください。今、彼は私と話しているのです」
あからさまに苛立った視線を向ける。一瞬見えた首陽の顔は、驚いたように目を瞠っていた。
それが、次に何らかの表情に変わる前に、ホンウィは内官に向き直る。
「もう一度訊くぞ。名は何という?」
「あ、は、あの……尹璟伯、と申します」
「首陽叔父上の従か」
「左様です」
「それで? 誰の命令で、私が二日半ほど掛けて書いた批答をあっさり処分してくれたのだ?」
できるだけ穏やかに訊ねるが、二日半の苦労が吹っ飛んだかも知れない、となると、声に険が含まれてしまうのはどうしようもない。
その尖ったモノを、敏感に感じ取っているのだろう。ユン・ギョンベク、と名乗った内官はすっかり縮み上がっている。
「答えよ。もし、事実を答えなかったらすぐさま内官の任を解くぞ」
「殿下!」
「叔父上は黙っていてください。三度目は申しませんよ」
冷えた声音で落とすと、不承不承といった空気感が背後にこごるのが分かる。
だが、ホンウィはそれを意識的に無視してキョンベクを睨み続けた。
「ユン・ギョンベク。早く答えよ」
「あ、は……その、書き損じだと……大君様に言われて」
「処分に行ったのはいつだ」
「ミ、未時の正刻〔午後一時〕過ぎだったと……」
「その頃に、焼却場へ運んだのか」
「は、はい」
「すぐに火に投じた?」
「も、申し訳ございません! 人目に触れてはならぬ文書だから急げとのご命令で……」
「誰の」
「ス、……首陽大君様の……」
ガンッ! という甲高い音と共に、キョンベクが「ひっ!」と短く悲鳴を上げた。
ホンウィの手にあった自身の批答が、床の上で小さく跳ねる。
「それで、私が、命じた、わけでも、ないのに、私が、書いた……二日半も掛けて書いた批答を、すべて灰にした、と、そなたは、申す、わけだな」
一言ずつわざわざ区切った言葉は、低く地を這いずった。それにトゲが生えるのを、もう理性では抑えられない。
「あ、の、申し訳ございません! どうか、わたくしを殺してください!!」
ガバッと床へひれ伏す彼を見据える目の温度は、最早氷より冷たいと自分でも分かる。
できることなら本当に彼の言う通りにしてやりたいが、実行したところで燃えた批答は元通りにはならないのも嫌というほど理解できている。要するに、やっても不毛なことなのだ。
更に言えば、これは臣下の常套句だ。『殺されても仕方がないと腹を括るくらい反省しているから許してください』という、見せかけの態度に過ぎない。
実行する、と言ったが早いか、今度は命乞いが始まるに違いないのに、『殺してくれ』が聞いて呆れる。
思い切り苛立ちの混ざった溜息を吐いて、ホンウィは「もうよい」と吐き捨てた。
「……は?」
「下がれと申したのだ。そなたを殺したところで、燃えた文書は戻らぬのだから、身にもならん。そなたの処分は追って沙汰する。降格、配置替えは覚悟せよ」
「は……はっ! 誠に、申し訳ございませんでした!」
叩頭、という単語の見本のように、床へもう一度平伏した彼は、脱兎の如くその場を辞して行った。その背を追うように、もう一度深い溜息が漏れる。
そんな、子どもらしからぬ溜息を吐き出すのは、何日振りだろう。ただ、即位以後のことなのは確かだから、実際にはあまり日にちは経っていないはずだ。が、そもそも父が亡くなったのさえ、遠い昔のことのような気がする。
「……ホンウィ。その処分は、いくら何でも行き過ぎであろう。第一、あれは私の従僕だ。私の命に従ったとて、何の不思議も、責められる謂われもあるまい?」
「なら、叔父上が責任取れよ。思いっ切りヨケーなことしてくれちゃったんだからな」
「何だと?」
三度、溜息を吐きながら、ホンウィは、たった一通分残った批答を拾い上げる。
それを、肩先でトントンと跳ねさせるようにもてあそびながら、首陽を振り返った。
「叔父上の気持ちは、分かってるつもりだよ。俺が、国王としては年齢的に頼りないから、心配で仕方ないんだろ」
目が合った瞬間は、思い切り不快そうな様子を隠さなかった首陽は、何とも複雑な表情に変わり、沈黙を返す。
ホンウィも、肩先に上げていた手を下ろして、首陽と向き合い、彼を見上げた。
「今回、俺の原案で俺や錦城叔父上たちが書いた批答を断りなく処分したのも、心配が行き過ぎた結果だって……頭では理解してるつもりだから。だからって簡単に納得できないけど、その気持ちだけは……ありがたく受け取っとく。でも、今後、何かする時は、俺に確認してからにして貰えないか」
「どういう意味だ」
「確かに俺はガキだよ。たった十年ちょっと生きただけのヒヨッコだ。叔父上から見たらきっと、昨日生まれたばっかの赤ん坊が国の長になっちまった、くらいに思えてるかも知れない。だけど、だからっていつまで周りに手を助けて貰えばいい? 十五になるまでか? 十八? それとも二十歳か?」
「ホンウィ」
「今はまだ、叔父上たちに手を借りないといけないのも分かってる。叔父上たちだけじゃなく、父上の代の大臣にもだ。父上は、ファンボ・インたちを始めとする議政府や集賢殿の役人に俺の補佐を頼んだって、叔父上も言ってたよな。だから、手を借りるのは納得してる。でも、俺の知らないところで勝手なことされるのは気分がいいとは言えない。それが、俺を心配した結果だとしても、正直それはすんなり受け入れられない。ガキだからって、自分の意思のない人形と思って貰っちゃ困るんだ。それに、国政を間近で見ないと、いざ自分が執政しなくちゃならなくなった時、突然できるわけがないだろ。遠ざけられるのも困る。結果的に叔父上の行為が正しくても、行動する前に一言断りが欲しいと思うのは、そんなに筋の通らないおかしなことか?」
またも、首陽からは沈黙が返った。しかし、顔は如実に不快感を顕している。それでいながら、その不快感を口に出すまいという、必死の形相に見えた。
ホンウィもまた、懸命に首陽の目線を捉え、彼を睨むような勢いで見つめ返す。大好きだった叔父と、こんな風に衝突するのは初めてだ。できれば、衝突したくなどなかった。
けれど、意見が食い違ったら、実の親子でも衝突くらいはする。根底に信頼があれば、これで切れる関係ではないと、まだ心のどこかで思っていた。
今度は長い沈黙が室内へ落ちる。やがて首陽は、自身を落ち着かせるように深呼吸して「分かった」と言った。
「本来、国是として若輩が年長者を諫めることは許されないが……王の叱責としてなら、受け入れよう。お前が王なら、私は叔父である前に、お前の臣下なのだから」
「叔父上! 俺は別にそんな」
「よい。もしもお前が私と同年代なら、その同年代者の言うことと考えれば……確かにお前の言うことに筋は通っている。何もおかしいことではない」
疲れたように言って、首陽は立ち上がる。
「もう、私はお前のすることに口を挟まない。それでいいな」
「違うよ、そういう意味じゃない」
「いや。お前のすることを見ていたら、私は心配のあまりまた同じことを繰り返すだろう。当分、王宮を訪ねるのもやめるよ。ではな」
「叔父上……」
取り付く島もなくなった首陽に声を掛けるが、彼はもうそれも聞こえぬと言いたげに、執務室をあとにしようとした。
「待ってくれ、叔父上!」
とっさに、ホンウィは首陽の手を掴んだ。返事はなくとも、歩みを止めた首陽に、「訊きたいことがある」と続ける。
「この件とは別に、訪ねようと思ってたんだ。チョン・スヌィの、聴取の件で」
「……チョン・スヌィ?」
半ば呆けたような顔だけをこちらへ向ける首陽に、胸が痛まないと言えば嘘だった。
けれど、感傷を脳内から締め出して、言葉を継ぐ。
「そうだ。座ってくれないか。ちょっと落ち着いて話したい」
ホンウィは、首陽に有無を言わせず、掴んでいた手を引くと、執務机の前にある長方形の机の前へ彼を誘った。
彼は、手を引かれるまま、机の前の椅子の一つに腰を下ろす。その向かいの椅子に座ったホンウィは、まっすぐに首陽を見つめて口を開いた。
「今日、司憲府に行く前に、言ったよな。叔父上に、不利な証言が出たって」
「……ああ」
「チョン・スヌィや都承旨、ほかの医官にも訊いたことだから、気を悪くしないで答えて欲しい。父上の亡くなった日の午前中、思政殿の南回廊で話し込んでいたのは、首陽叔父上とスヌィ、都承旨のカン・メンギョンだって証言が出たんだ。一人や二人じゃなく、大勢な」
すると、首陽の顔は、わずかに固くなったように思えた。しかし、直後にはもう無表情になっている。
「……誰が、そんなことを言った?」
「今は言えない。証言者の名前も控えてあるけど、それは今叔父上が知るべきことじゃない。まず、俺の質問に、正直に答えてくれ。三人で、何を話してたんだ?」
「……都承旨やチョン御医は、何と?」
「それは答えじゃない。叔父上に、三人で何を話していたかを訊いてるんだ」
再度、首陽の表情が強張る。メンギョンのように目を泳がせることはなく、ただまっすぐにホンウィを見つめ返し、唇を固く引き結んでいた。
しかし、沈黙は長くなかった。
「……私は、何も」
「知らない、とか言わないでくれよ。調べは付いてるんだ」
「ならば、こんな所でぐずぐずしていないで、さっさと捕縛して裁きを下せばよいではないか」
「叔父上の口から、ちゃんと答えが聞きたい。でないと、片手落ちだ。そんなのは、公正な裁きじゃない」
首陽は、また一瞬口を閉じる。
「……私は本当に何も知らぬ。都承旨から、御医とヨン、ファンボ・イン、キム・ヂョンソらが話している現場を見たという話を聞いただけだ」
それは、以前に聞いたことと寸分違わぬ話だ。
「じゃあ、目撃証言や御医たちの証言はどう説明したらいい?」
「好きに取ればいい。私が言えるのは、都承旨から聞いたことだけだ」
「本当にか?」
「信じるも信じないも、ホンウィ、お前の自由だ。ではな」
「叔父上!」
腰を上げた首陽を追うように、ホンウィも椅子を蹴って立ち上がる。
だが、首陽はいつものように呼び掛けに答えてはくれず、ホンウィを振り返ることもしなかった。
***
その夜、碌々眠ることもできずに、ホンウィは翌朝を迎えた。
王の一日は、卯時の初刻〔午前五時〕から始まる。その後、半時辰〔一時間〕以内には、通常なら年長者への挨拶回りを済ませなくてはならないが、ホンウィの場合、それは省略できた。
ホンウィには、生きていれば大妃となっていた母や、大王大妃となっていた祖母がもう亡いからだ。
起床後、軽く身支度を整え、粥だけをいただき、卯時の正刻〔午前六時〕には業務報告を受ける。とは言っても、今はまだ、父である先王の薨去に関するあれやこれやが落ち着いていない。
今受ける業務報告は、ほぼ父の死に関するものだった。
三刻〔四十五分〕ほどで洗面まで済ませ、康寧殿を出て、思政殿の執務室へ向かう。その間も、ホンウィの頭の中は、昨夕の首陽のことでいっぱいだった。
どうすればいいだろう。
祖父の教え通り、両方の話を聞いたというのに、すっきりしない。
それは、首陽が周囲の証言とあまりに違う――最早、明らかに偽証と思えることしか言わなかったからだろう。
首陽の態度は堂々としていて、自分は本当のことしか言っていないという自信に満ちていた。メンギョンの、ある種の分かり易さと比べたら――ほかの証言を聞いていなかったら、絶対に嘘を言っているとは気付かない。
『あくまでも、俺の所見だけどな』
数日前に、永豊君が言っていたことが、不意に脳裏をよぎる。
『俺の目から見た首陽兄上は、ぶっちゃけ二重人格者だ。仮面をかぶるのがモノっ凄く巧い』
(……ヒョク兄の言ってた通りだってことか……)
嘘と分かったことは、それを理解した者にとっては、最早仮面ではない。
だが、首陽の昨日の様子は、数ある証言のほうが嘘なのではという錯覚すら覚えるものだった。
このあと、何度問い質したとしても、首陽の答えは変わらないだろう。
だとしたら、ホンウィはこの段階で出揃った証拠を元に、裁可を下すしかない。そして、その裁可は明らかに不公正なモノにしかならないのも分かっている。
どうすれば、という言葉が、もう一度頭をよぎった。直後。
「殿下」
声を掛けられ、顔を上げる。
執務室の前に、見覚えのある顔の男が立っていた。早暁の薄闇に、赤い官服が溶けている。
「ああ……確か……キェ・サンピル提調だったな」
「はい、殿下。おはようございます」
「おはよう。今朝の業務報告があるのは、そなただけか」
見回したところ、彼以外に役人の姿はない。
「まだ、卯時の正刻前ですから。追々集まるかも知れませんし、わたくしだけかも知れません」
「そうか。そなたは、義禁府の囚人と軍士殺害の件か?」
「はい」
「分かった。では、中で聞こう」
サンピルが頭を下げるのを目の端に捉えながら、ホンウィは先に執務室へ入った。
「座ってくれ」
「はい、殿下」
長机のほうへ促し、サンピルが腰を落とすと、ホンウィも上座に着いた。
「早速だが、報告を聞かせてくれ」
「承知致しました、殿下。こちらが、報告書です。お手元で保管をお願いします」
「分かった」
サンピルに差し出された冊子を受け取るが、それ以後、サンピルは中々口を開かない。
「……どうした。そんなに言い辛いことか?」
「……殿下。非常に申し上げにくいのですが……」
「構わぬ。申してみよ。どうせ、この中にも書いてあることなのだろう」
ホンウィは、トンと指先で突くように冊子を示す。
「それとも、あとで目だけ通したほうがよいか?」
「いえ……それでは、恐れながら申し上げます。調査の結果、しかとした犯人は、残念ながら特定できませんでした」
「どういう意味だ」
「実は事件のあった夜、一人だけ部外者が義禁府を訪れておりました」
「ほう。それで?」
「ですが、その者は、義禁府の敷地内に入ったものの、出て行ってはおらぬようなのです」
「しかし、その翌日、部外者は義禁府内にはいなかったのではないか?」
もし、部外者がぐずぐずと居座っていたら、そう報告があったはずだ。
「左様です」
「つまり、正面玄関から堂々と入って、裏か塀からお暇したと」
「そのようで」
「で、その者は何と言って義禁府に侵入したのだ」
「捕らわれていた医女の中の一人の家族で、差し入れに来たと申したそうです」
「なるほど……」
被害者は、女囚用の牢に拘束されていた医女と、そこを見張っていた牢番が二人だ。
医女の中の一人の家族だと言えば、標的の元へ労せず案内して貰える。
「考えたな。あとは、案内役に金目のモノでも握らせて、少し内緒の話があるから席を外して欲しい、とでも言えば、目撃されずに殺せるというわけか」
「殿下。お言葉ですが、そこは感心されるところではありませぬぞ」
「実際にしてやられたのだから、仕方ないだろう。だが、だとすると、厄介だな。名を名乗ったとしても、偽名だったのではないか?」
「仰る通りです。その男は、辛允贊、と名乗ったとか。しかし、医女の中の近しい者を調べても、そういう名の者はおりませんでした」
「……早い話が手詰まりか」
「ですが、人相書きはあります。こちらに」
言うや、サンピルは一度手渡した冊子を引き寄せ、頁をめくった。
やがて、目当ての箇所を捜し当て、ホンウィに示す。
人相書きの絵に描かれた男は、端正な顔立ちをしていた。面長の輪郭に配置された、目元は切れ長でどこか鋭く、鼻筋はまっすぐ通っている。
「……この者に、見覚えは?」
「ございます」
「誠か」
「はい、殿下。人相書きが確かであれば、この者の名は、ホン・ユンソン。現在は主に漢城府の参軍を務めている男です」
©️神蔵 眞吹2019.




