『大いなる野望II 天下布武編』 第1話:新城主の血判状
『大いなる野望Ⅱ 天下布武』
第1話:新城主の血判状
山深い井伊谷の地を抜けると、眼下に広がるのは豊かな平野と、その中心に威容を誇る城郭――鷹ヶ峰城であった。
かつて弱小小領主に過ぎなかった井伊谷家を内側から呑み込み、主君・井伊谷盛定の首と引き換えにこの城を手に入れてから、疾風の如く一年が過ぎていた。
城主の間。
上座に座す織部信綱の前に、二つの文が並べられていた。
一つは、信綱子飼いの家臣団と、旧井伊谷家の遺臣たちとの間で揉めた、領地配分を巡る血判状。
そしてもう一つは、隣国の圧倒的覇者・佐久間景勝から届いた書状であった。
「――景勝め。父・景虎を追い落とし、佐久間家の全権を握るや否や、早くも動いたか」
信綱は冷ややかな目を書状に向けた。
書状に書かれていたのは、一見すれば戦勝の祝い。しかし、その真意は「織部家は佐久間家の下風に立ち、次の上洛(京都への進軍)において先鋒を務めよ」という、露骨な脅迫であった。断れば、即座に数万の佐久間軍がこの鷹ヶ峰城に押し寄せることになる。
「殿、受け入れてはなりませぬ!」
声を荒らげたのは、旧井伊谷家の筆頭格であり、信綱の宿敵にして現在は第一の猛将と称される柴崎左近であった。
「佐久間などの後塵を拝するなど、井伊谷の意地が許しませぬ! 先鋒など実質的に我らを使い捨ての肉の壁にする気でござるぞ!」
「左近殿の言う通り」
信綱の傍らに控える天才軍師・黒崎玄蕃が、扇子でトントンと膝を叩きながら静かに口を開いた。
「ですが、断れば明日にでも戦です。今の我らの兵力は一万足らず。旧家臣と新家臣の連携すら取れておらぬ現状で、佐久間と真っ向からぶつかれば、三日と持ちませぬな」
「ならばどうするのだ! 降るか、戦うか、二つに一つではないか!」
左近の苛立ちが室内に満ちる。
まさにその時、家臣団の席から不穏な私語が漏れ聞こえた。旧井伊谷派の武士たちが、信綱子飼いの若手武将たちを「成り上がりの卑怯者」と蔑み、子飼いの者たちは「手柄も立てぬ老害」と睨み返している。
城を得て石高が増えたことで、家臣たちの欲望と利害が膨れ上がり、内側から崩壊しかけていた。
信綱は黙って立ち上がり、文机に近づくと、旧家臣たちが提出した血判状を拾い上げた。
「左近」
「はっ」
「お前は、武士の誉れとやらで飯が食えると思っているのか?」
信綱の静かな問いただしに、左近は言葉を詰まらせた。
信綱は血判状を破り捨てはしなかった。ただ、それをじっと見つめながら、冷徹な笑みを浮かべた。
「佐久間の申し出は蹴る。だが、正面から戦いもせん」
「な……では、いかにして?」
「玄蕃。今井宗兵衛を呼べ。それと……お葉を」
すっと影が動いた。部屋の隅の暗がりから、町娘の身なりをした女忍び・お葉が姿を現す。
お葉の瞳には、微かな葛藤の色が宿っていた。彼女は元々、佐久間家から遣わされた間者。信綱を愛してしまった今も、佐久間からの密命と信綱への忠誠の間で、夜も眠れぬ葛藤を抱えていた。信綱はその秘密を知りながら、何食わぬ顔でお葉を見つめる。
「お葉。佐久間景勝の陣営に潜むお前の『仲間』に、こう伝えさせろ。『織部信綱は佐久間に降伏する気満々であり、すでに旧井伊谷派の重臣らを説得中である』とな」
「……はっ。承知いたしました」
お葉は頭を下げ、素早く姿を消した。
やがて、豪商・今井宗兵衛が揉み手をしながら姿を現した。
「これはこれは、織部様。新城主になられてから、ますます凛々しくなられましたな」
「無駄口はいい、宗兵衛。堺から買い付けた『種子島(鉄砲)』五十挺、あれを全て我が子飼いの兵ではなく、柴崎左近の部隊に引き渡せ」
その言葉に、室内がどっとどよめいた。
鉄砲という最新兵器を、一番信綱を嫌っている旧家臣派の左近に預けるというのだ。
「な……殿! 我らに鉄砲隊を!?」
左近が驚愕の声を上げる。
「左近。お前は武勇に優れ、部下からの人望もある。だが、時代が変わったのだ。槍と刀だけでは城も領民も守れん。お前の誇りをかけて、この鉄砲隊を完璧に使いこなしてみせろ。それができぬなら、その首、今すぐここで刎ねる」
信綱の鋭い眼光が左近を射抜いた。
左近は息を呑み、そして深く畳に頭をこすりつけた。
「……承知! この左近、命に代えても鉄砲隊を我が手足として見せまする!」
旧家臣団の不満は、信綱のこの「思い切った破格の重用」によって一瞬にして吹き飛んだ。子飼いの家臣たちにも、別の手柄の場を与えることを約束し、信綱は一晩にして家臣団の分裂を食い止めてみせたのだ。
夜。
天守の回廊で、信綱は一人、夜風に当たっていた。
隣に静かに玄蕃が立つ。
「見事な差配でございましたな、殿。左近殿を鉄砲隊の将に据えることで旧派の忠誠を買い、同時に佐久間には『降伏の準備中』と偽情報を流して時間を稼ぐ。……ですが、景勝は甘くありませぬぞ。偽りと分かれば、一気に攻め寄せてきましょう」
「分かっているさ、玄蕃」
信綱は月を見上げた。
手の中には、先ほど朝廷の公家・九条兼雅から届いたばかりの、極秘の密書が握られていた。
「佐久間景勝は強い。だからこそ、周り全てを敵に回している。……玄蕃、戦とは兵を殺し合うことではないと言ったな?」
「ええ。人の欲を殺し合わせることでございます」
「ならば、俺は天下の欲を買い叩く。佐久間を潰すための『盤』は、すでに京で動き始めている」
信綱の口元に、野望に満ちた笑みが浮かんだ。
城持ち大名・織部信綱の、天下を揺るがす第二の将棋が、今まさに指された瞬間であった。
(第2話へ続く)




