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軽すぎる男

その男、成瀬は、取調室の椅子に座りながら鼻歌を歌っていた。

 彼の背後にあるデジタル表示は「〇グラム」。完璧なゼロだ。 だが、彼の目の前には、彼が昨夜「解体」した被害者の無惨な写真が並んでいる。成瀬は、この街を震撼させている連続猟奇殺人事件の最有力容疑者だった。


「成瀬、もう一度聞く。昨夜の午後十一時、お前はどこにいた」「言ったでしょう、刑事さん。公園で『迷える子羊』を天国へ送る手伝いをしていたんです。それはもう、神聖で美しい儀式でしたよ」 私は表示を二度見した。数値はピクリとも動かない。 通常、殺人を告白すれば、その罪悪感や事実の重みで数値は数キロ、あるいは数十キロへと跳ね上がる。


だが、彼は「殺した」と平然と言ってのけながら、羽毛よりも軽くそこに座っている。「……お前は、自分が何をしたか分かっているのか? 人を殺したんだぞ」

「殺した? いいえ、解放したんです」 成瀬は心底不思議そうに首を傾げた。その瞳には、一点の曇りもない。


「この街の人々は、嘘の重みに怯え、地面を這いつくばって生きている。可哀想だと思いませんか? だから私は、彼らの肉体という『重荷』を取り除いてあげた。私は救済者なんです。これのどこに、嘘があるというのですか?」 背筋に冷たいものが走った。

 この男にとって、殺人は「悪」ではない。本気で、心から、それが「善行」であると信じ込んでいるのだ。 審判秤の致命的な欠陥が、目の前で牙を剥いていた。

この装置は「客観的な事実」を測るのではない。語り手の「認識」と「言葉」の乖離を測るに過ぎない。

狂信者や、自己愛の塊のような人間が、自分の狂気を「真実」だと信じ切ってしまえば、秤は無力な置物と化す。


「成瀬、お前の主観などどうでもいい。法的にはお前は人殺しだ」「法? それこそが最大の嘘じゃないですか」 成瀬が身を乗り出す。数値は依然としてゼロのままだ。「刑事さん、あなただって本当は気づいているはずだ。この秤ができてから、人々は『正しいかどうか』ではなく『重くなるかどうか』だけで行動するようになった。

心の中で何を思おうが、秤さえ騙せれば聖者になれる。サミュエルのようにね」 私は言葉に詰まった。

前回の事件、聖者サミュエルの最期が脳裏をよぎる。

「……黙れ」「私は正直ですよ。あなたよりもずっと。ねえ、刑事さん。あなたは今、私を憎んでいる。それは『正義』のためですか? それとも、自分の信じるシステムを否定されるのが『怖い』からですか?」


 ドクン、と心臓が跳ねた。 私の椅子の下で、微かな金属音がした。デジタル表示は見えないが、自分の体がわずかに重くなったのを感じた。私の中に生じた「迷い」という名の乖離が、重力となって襲いかかる。


「私は救済を続ける。秤が私を『軽い』と認めている限り、私は神に許されているも同然だ」 成瀬は立ち上がった。その足取りはどこまでも軽く、まるで重力そのものを嘲笑っているかのようだった。 証拠は揃っている。凶器も、返り血も、目撃証言もある。彼を逮捕し、檻に入れることはできるだろう。 だが、彼を裁くための「秤」は、彼に対して沈黙を守ったままだ。 私は、手錠をかける自分の手が、かつてないほど重く感じられるのを堪えていた。 この街の正義は、狂気の前ではこれほどまでに無力なのか。


 連行される成瀬の背中は、夜の廊下で白く浮き上がるほどに軽やかだった。 私はその時、初めてこの街の「理」が崩壊し始める予感を抱いた。



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