第3話 前世おっさん、現世女子高生
朝の洗面所で、毛先をブラシで梳かす。
鏡の向こうで、黒髪がサラリと肩を滑り落ちた。
寝癖直しウォーターをひと吹きし、丁寧にブローする。
指先で触れると、絹糸のように柔らかい感触が伝わってきた。
化粧水を手にとり、両頬を包み込むようにパッティングする。手のひらに吸い付くような、モチモチとした弾力。
(……うん、今朝の肌コンディションは良好)
唇にほんのりと血色感を与える色つきリップを塗り、制服のブラウスに腕を通す。
プリーツスカートのウエストを整え、紺色のリボンを結ぶ。
全身鏡の前に立つと、そこにはどこからどう見ても、瑞々しい華奢な女子高生――雨宮澪がいた。
生まれ変わって、もう十六年になる。
朝起きて女子の身体で息をし、スカートを揺らして学校へ通う生活は、とっくに日常の一部として馴染んでいた。
けれど――ふとした瞬間に、強烈な記憶の断片が脳裏をかすめる。
終電の吊り革に掴まり、ガタゴトと揺られながら見た暗い車窓。
そこに映っていたのは、くたびれた安物スーツを着た、冴えない三十代半ばの中年男だった。
テカテカと油の浮いた額、徐々に後退していく生え際、重く沈んだ眼の下の青黒いクマ。
理不尽な理詰めと謝罪に追われ、すり減らした自尊心。
胃薬を流し込み、コンビニのストロング系缶チューハイを片手に、冷え切ったワンルームのアパートへ帰るだけの毎日。
あの頃の私は、街ゆく少女たちのファッションや、コスメ売り場の華やかさ、画面の中で輝くアイドルたちを見るたび、胸の奥を激しく掻きむしられるような思いを抱えていた。
(いいなぁ。可愛いって、いいなぁ)
羨ましかった。喉から手が出るほど、その世界に憧れていた。
けれど、あのくたびれた中年男の肉体では、可愛いファンシーショップに入るだけで不審者扱いされるのがオチだった。
パステルカラーのスカートも、繊細なレースも、自分とは一生交わらない銀河の彼方の光。
居酒屋でポッピーを飲みながら焼き鳥の軟骨を噛み砕くのがお似合いの、くすんだ日常。
心の底に誰にも言えない熱い憧憬を閉じ込めたまま、私は若くして病でひっそりと人生を終えたのだ。
だからこそ――雨宮澪として目覚めたあの日以来、私の世界は奇跡の連続だった。
可愛い服を、自分の意思で選んで着ていい。
フローラルな甘い香りのハンドクリームを塗っても、誰からも嘲笑われない。
街のショーウィンドウに映る自分が、憧れていた「女の子」そのものであるという事実。
それは前世の渇ききった魂にとって、天から降り注いだ甘露のような幸福だった。
高校の教室でも、クラスメイトの女子たちの会話に自然と混ざることができる。
「雨宮さん、そのリップどこの? すごく発色いいね」
「あ、これ薬局で買えるプランパーだよ。ヒアルロン酸入りで縦ジワが消えるの」
「えーっ、放課後買いに行こ!」
そんな他愛もないガールズトークを交わすたび、私の胸の奥で、かつての中年男が成仏しかけるのを感じる。
至福だ。夢にまで見た、本物の女の子としての日常だ。
けれど。
思春期の身体と自意識が育つにつれて、私の胸には別の感情が芽生え始めたのだ。
(……これだけじゃ、足りない)
満たされないのだ。ただ女の子として生きているだけでは。
生身の肉体というのは、残酷なほど受動的だ。
雨宮澪という顔立ちも骨格も、生まれ持った遺伝子の偶然でしかない。
どんなに手入れをしても、朝起きれば寝不足で肌がくすむ日もあるし、湿気で前髪がうねることもある。
それに、ふとした瞬間に、前世のガサツな癖――あぐらをかいて座りそうになったり、大衆食堂の定食をかきこむような勢いで早食いしそうになったりする亡霊が顔を出す。
「……あぶないあぶない。おっさんの残滓、即刻排除!」
一人きりの通学路で、首を激しく横に振る。
すれ違うクラスメイトたちは、ありのままの自分で青春を謳歌している。それはとても眩しい。
でも、私が求めているのは「自然体の青春」ではない。
私が欲しかったのは――自分自身の美意識のすべてを注ぎ込み、一ミリの狂いもなく設計された、究極の「可愛い」そのものだ。
偶然与えられた身体をただ受動的に消費するんじゃない。
声のトーンも、瞬きのタイミングも、微笑みの角度も、衣装のフリルの一枚一枚に至るまで。
自分の手で選び取り、構築し、命を吹き込みたかった。
だからこそ、私には星祈ミウが必要だったのだ。
放課後、一目散に帰宅した私は、自室の遮音ドアを閉めて作業デスクへ向かった。
制服のまま、まず液晶タブレットに電源を入れる。
画面いっぱいに表示される、星祈ミウの立ち絵。
光を吸い込む淡い銀髪。胸元で小さく揺れる星のペンダント。
青紫の瞳の奥には、吸い込まれそうな銀河の瞬きが宿っている。
花守しずく先生が描いてくれた、私の祈りの結晶。
前世のくたびれた男の怨念でもなく、雨宮澪という生身の不完全さでもない。
私が夢見た「なりたかった女の子」の魂だけを凝縮した、純度百パーセントの器。
「……ミウ」
画面の中のアバターに呼びかける。
Live2Dのトラッキングカメラをオンにすると、私のまばたきに合わせて、ミウがふわりと睫毛を揺らした。
マイクの前に座り、ヘッドホンを装着する。
背筋をスッと伸ばし、喉の奥を開いて声を立ち上げる。
「今日も、最高の私でいようね」
鏡の中の女子高生が、ゆっくりと引いていく。
そしてモニターの向こうの星の少女が、呼吸を宿して目を覚ます。
前世で持てなかったすべてを、私はこの小さな四角い画面の上で、一つ残らず咲かせてみせるのだ。
ふと、デスクトップの片隅にあるフォルダが目に入った。
『制作アーカイブ/神絵師・花守しずく先生』
あの日――まだ星祈ミウという名前すらなく、ただ熱狂と切実さだけを抱えていた私が、震える手で依頼のメールを送った夜の記憶が、鮮やかによみがえってきた。




