チャプター52 もう一つの禁忌(パンドラ)
少女は先ほどまで震わせていた体を無理矢理立ち上がる。
「どうせわからないよ…他人には」
開口一番に飛び出してきた言葉をシロは受け止めることはできなかった。零花は血が滴る右手で端末を取り出すとすぐさまその身を本拠地へと帰還させた。シロはただ呆然とその場に立っていた。ただ無残に横たわる少年の父親を、その横で寄り添うことすらしない少年を見ていた。
後ろから気味の悪い笑え声が聞こえたのはそんなときだった。
「クックックッ…ハーハッハ。あー…面白すぎて涙、出てきました…」
その笑い声の主は大元。彼は片手で涙をぬぐいながらシロの背後から部屋へと入ってくる。怒りの感情よりも先に出てきたのは”呆れ”ただ純粋に大元にため息をついていた。
「なにが…何が面白いんだよ…」
「いやぁね、人が絶望にくれるときの表情って人それぞれで…それを見るのが私の楽しみの一つなんですよ…」
人として言っていいこと悪いことがある。人の死に様を笑うなんてどうかしてる。それがシロの想いだった。
零花の先輩であれば、彼女の気持ちがわからないわけではあるまい。そんな怒りの声が言葉の端々から聞こえそうなほどシロの言葉は重く響く。
「ふざけるなよ…」
「ふざけてませんよぅ~だって事実を言っただけですもん」
明らかに先ほどまでの大元の様子とは違っていた。それに気がつきシロは怒りを込めたまま聞いていた。
「お前…何者だよ…」
「あー…そういえば言ってませんでしたか、マンモンですよ、マンモン。お久しぶりですね…一之宮シロ」
そういうとマンモンはゆっくりとシロの背後から移動し、零花が守った少年の前に立ち、体の中から存在の結晶を抜き出した。抜き出すと同時に拳を振り下ろし、少年の頭蓋骨を叩き割る。
彼の言葉と行動でシロは天津の会話を思い出していた。
「悪魔憑依…」
自分が望むものが見れたことで気分の高揚したマンモンは笑い続けていた。マンモンが高らかに笑う中、シロは自身の中の怒りがこみ上げるのを感じていた。強く握り締められた拳は、自身の手のひらを傷つけ沸騰した血を足元に一滴落とした。マンモンはただ自身の望みをかなえようとしているのだった。
「私、強欲を司る悪魔でして、専ら知識に対しての欲望や、物に対しての欲望がどの悪魔よりも強いんです。他者が持っていて自分が持っていないものはその人を殺してでもほしくなってしまうのですよ。しかし…」
マンモンは腕を組み少しばかり残念だというボディランゲージをしながら言葉を続けていた。
「表情…こればかりは集めようと思っても集めることが適わない。人から表情を奪っても、無表情になるだけなんですよ…で、私は人が絶望に支配されたときの表情に…なんというかこう…欲情しちゃうんです。だから、彼女には絶望に支配された表情を作ってもらうことにしました。くくくッ」
先ほどの零花の表情を思い出して、気味悪く笑顔になる悪魔がそこにはいた。何かの快感を感じ、自分の腕で自分自身を抱きしめ、恍惚な表情が前面に現す。
シロの怒りは速度を増して彼を支配し始め、さらに拳を強く握り締めた。
「お前らの目的は…俺なんじゃないのか…」
「ええ、そうですよ。だから、あの子にとり憑いて貴方を殺そうと思ったのですが…うまくいかなかったものですから…暇つぶしに彼女の心を壊してしまおうと思いまして」
以前高笑いを続ける悪魔にシロはただ殴りかかっていた。
「いい加減にしろよ…なんで俺たちを苦しめる…」
「なんでって…別に君たち死神だけをいじめてるわけじゃないですし…」
「お前に…わかるか…彼女の痛み、恐怖、絶望が」
「わかるわけないじゃないですか、私は彼女ではありません。というか…その言葉、貴方に返してあげますよ、一之宮シロ。彼女の絶望を全て理解していないからこそ、彼女はさっき”他人にはわからない”って言ったんだと思いますが?くっくっ…」
「ああ、わかってない…けど!!絶望に満たされた苦しみはわかる…それをお前は楽しい?欲情する?てめぇだけは許さない…」
「許さない?いいですよ?別に。自分の欲望のためにやったことですし」
「お前ら悪魔が…俺たちの心を壊そうとするなら…俺はお前らの存在を壊してやる…」
「できるものなら、やってみてくださいよ。私はできなかったときの貴方の顔が待ち遠しくてたまらない!!」
「殺してやる…」
シロがマンモンに向けて踏み出そうとした瞬間だった。
ドクンッ…
今まで感じたことのない感覚に、力を込めたばかりの足を思わず緩め、シロは自分の体を駆け巡る感覚の正体を探し始める。
次に流れた感覚は”痛み””苦しみ””気持ち悪さ”どれにも当てはまることのないもの。それを形容するものがシロにはなく、彼はその場に蹲る。
その場で動かなくなった死神を見逃すほどマンモンは甘くなかった。
「あれぇぇ?どうしたんですかぁ?さっきまでの威勢は!!」
容赦なく腹を蹴り上げられたシロはその体を数メートル浮かび上がり、シロを浮かびあがらせたエネルギーは全て彼に伝わる。それはシロを悶絶させるには十分だった。先ほどまで戦っていた羅刹という鬼の腕力に匹敵するほどの力にシロは驚きを隠せない。
マンモンに攻撃の手を緩める理由はなかった。悪魔は両手を組み、宙に舞う死神の体を勢いよく叩き落す。
「まったく…神を復活させるためとはいえ…君みたいな死神たちの相手をする私の気持ちを理解して欲しいものですね…」
そういいながら地面に横たわるシロの頭を片手で掴み、持ち上げる。シロの顔を見つめ、マンモンは最大限のため息を吐き出すと渾身の力を込めて、死神を投げ捨てる。
「つまらないんですよ!!その表情は!!」
地面に勢いよく投げ捨てられたシロは全身を襲う未知の感覚と背中の痛みで動けずに這いつくばっていた。マンモンはゆっくりとシロに近づいていた。
「…まだ僕を殺す気で満々だね…けど、君にはできないよ」
マンモンはただただ地面に横たわる死神を蹴りつける。地面を這いつくばるシロはただただ耐えていた。蹴りつけられるたびにシロの体は機能を奪われていく、肋骨は砕け、打撃は内部へ容易に伝わる。内臓は破壊され、体の内部からでてきた血は口から吐き出されていた。それでもマンモンは攻撃をやめることはない。
「ほら!!ほら!!!ほらぁ!!…委ねろ、心から湧き出す絶望に…」
シロは先ほどから死力の開放を試みるがどうしてか、死力は発現しなかった。そのせいもあり、マンモンの攻撃は容赦なくシロの体に衝撃を与える。人として生存するための機能は破壊されつくしていた。しかし、寸前のところで命をつなぎとめていたのはマンモンがシロの絶望にひれ伏した表情を見るためにわざと生かしていたからだった。シロはそんなことに気がつくほど余裕はなく、ただ見つめるのは目の前にいる悪魔。
マンモンはそのシロの目が気に食わなかった。
「はぁ…もういいや…君に一つ教えてあげるよ…」
そういうとマンモンはしゃがみこみ、シロの体に触れていた。
「悪魔にはそれぞれ特殊な能力があるんだ。たとえば…レヴィアタン…彼は悪魔の中でもっとも強靭な体を持つ。ま、神の遺産にはどうしても負けちゃうし、特殊能力が丈夫なだけって笑えるんですが」
笑いながらマンモンは自分の中にある力を一気に開放する。力は光となって悪魔の体を包み込んでいた。光を発しながら悪魔は言葉を続けていた。
「そして、僕は”強欲の悪魔”…君が持っているものを奪うことができる…たとえば…」
マンモンが力を込めるとシロの体は悪魔の力を象徴する光に包まれる。瞬間、シロは視界を失った。
「ハーイ、君の視力は貰ったよ~…って言ってもこの能力も奪う相手に触れて長い時間、力を流し続けなきゃいけないから、あんまし使えないんだけどね」
「ふざ…けんな…返…せ」
「嫌だよ、僕は強欲なんだ。手に入れることができるものは全て手に入れたいのさっ…さて、本題」
そういうと悪魔は再びシロに力を込める。
「君の中から神の遺産を奪い取るよ」
その言葉でシロは焦っていた。それを奪われてしまえば現状を覆す手段がゼロになってしまう。
「や…めろ…」
「やめろと言われてやめるバカはいないよ」
初めて見せたシロの焦りという表情にマンモンは嬉しそうに、さらに力を込める。シロは必死に抵抗しようにも体は動かない。それでもシロは体に力を込める。
動け…俺はコイツを許さない…コイツの存在を壊す…マンモンだけは…殺す…
しかし、無常にも体は痛みを増大させるだけで、機能しなかった。
絶望がシロの心のそこからわき上がる。それは自然とシロの表情へ伝え、マンモンの歓喜の声が世界に響き渡る。
「いいねぇ~いいねぇ!!その顔!!もっと!!僕を興奮させてくださいよぉおおおお」
その瞬間、シロは喪失感に苛まれた。体の何かが欠損したような不在感。
「へぇ…これが禁忌…神の遺産…しかも君二つも持っていたのか…」
悪魔の手に握られたのは正八面体の光り輝く結晶。結晶の頂点一点だけが光輝き、それがマンモンの視線を集めていた。しかし、マンモンにとってそれはただの結晶でしかなく、それほどの興味はなかったらしい。
「…さてと、あとは君を絶望させるように遊んだら、もう帰ろうかな」
再び、シロに手を添える。マンモンは再び力を込めようと意気込んだときだった。
カラン、カラン…
何かの落ちる音を聞き取り足元を見ていた。先ほどまで左手に持っていた神の遺産が落ちていた。
「ん?あれ?」
結晶を拾い上げようと左手を伸ばそうとしてみるが、マンモンは自分の左手が消えていることに気がついた。
「左手が…なくなった?いや、何を言っているんだ僕にはもともと左手はないじゃないか」
その様子を音でしか聞き取れていないシロにとってマンモンの独り言は意味がわからなかった。シロが最後にマンモンの体を見たときは間違いなく左手は存在していた。
元からなかったなどと言うとは何が起こっているんだ…そう思いながら彼は必死に体が動かそうとするが結局動くことはなかった。
マンモンはシロに添えていた右手を離し、落ちた神の遺産を拾い上げ、今度は自分のズボンのポケットへ入れ、再びしゃがみこみシロに右手を添える。
カラン…
再び物が落ちる音が響く。今度はそれと同時にしゃがみこんだ体を転倒させる。意味がわからず、すぐさまマンモンは横たわる体を無理矢理起こすと、自分の右手の付近に先ほどズボンのポケットへ入れたはずの結晶が落ちていることに気がついた。
「…なんで?」
恐怖を抱いたマンモンは辺りを見渡す。辺りには怪しい気配はなく、ただ痛みで悶える死神だけがいた。気味の悪さに右手の数センチ先にある結晶を拾うと立ち上がろうとするが、立ち上がれない。
「…そうか、僕には右足がなかったんだ。それなのに普通に立ち上がろうとして…何をしているんだ僕は?」
マンモンは数秒の間、先ほど起こった不思議な現象の原因を考えていた。すると、今度はどんどんと何かがなくなる感覚に襲われる。その感覚は強欲の悪魔には拷問のようなもの。
「消える!!何かが消えていく!!やめろ、消えるな!!全て僕のものだ!!」
マンモンの右手から白い光が発生し、その光が悪魔の体を包み込んでいく。
「ん?…僕は…マンモン?…マンモンは…強欲?…マン…モン…って何だ?」
悪魔を包み込んだ光はより強く光ると、ついには悪魔の体を消し去った。悪魔が持っていた二つの結晶は、シロの近くに落ちていた。
悪魔が消えたことでシロは視力を取り戻し、自分が置かれている現状をようやく知ることができた。
「体中痛ぇ…なんで…?何かと戦った…のか?」
シロもまたマンモンが白い光に包まれ、消えてから記憶が失われていた。しかし、彼自身が気がつくことはなくただ痛みに悶えている。
シロは体を動かすことができなかったため、眼球だけを動かし辺りを見ると、二つの正八面体の結晶が落ちていて、一つの頂点だけが光るその結晶に興味を引かれ手を伸ばす。
「うわっ!!!」
指先が触れた瞬間にその結晶はシロの体内へと入っていったのだった。
「とりあえず…帰らなきゃ…レイに会わなきゃ…」
シロはどうにか体を仰向けにしたが急遽限界を向え、意識を失っていた。彼が意識を取り戻したのは数時間後、すでに日が昇っていた。意識を取り戻したシロは胸ポケットに入った端末を取り出し、死神の本拠地へ帰還したのだった。
シロは自身の言葉を悔やんでいた。それは彼女の痛みを理解できなかった、しなかったために生まれでてしまった言葉。彼は本来知っていた、根本的に自分の絶望が他者には理解されないこと、けれど他者に理解してほしいということ。だからこそ彼女が絶望を吐露したとき、自分は少しでも彼女に寄り添う必要があった。けれどそれができなかった自分を責めていた。
過去にシロが自分の絶望を吐露したときに支えてくれたのは彼女であることを思い出し、死神の本拠地にたどり着いたシロは零花の元へ走り出した。




