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第二話|物と役割に置換される


 朝、目が覚めると、掛け布団が床に落ちていた。

 落ちているのではなく、自分が「撥ね除けられた」のだと、肌の冷たさが教えている。

 寝返りを打つ。

 隣で眠っているはずの妻の体温が、霧のように遠い。

 手を伸ばしても、シーツの繊維に指が沈むだけだ。

 境界線が、もう機能していない。


     *


 洗面所に向かう。

 歯ブラシ立てを見る。

 昨日までそこにあった、自分の青い歯ブラシがない。

 代わりに、掃除用の古いブラシが一本、自分の位置を占拠している。

 妻が横から入ってきて、迷わずそのブラシを手に取った。

 彼女は蛇口の根元の汚れを、無心に擦り始める。

 「そこ、僕の……」

 言いかけて、口を閉じる。

 言葉の形が、空気に馴染まない。

 彼女は僕の横をすり抜け、コップを置いた。

 僕が使っていたコップだ。

 そこには「うがい用」というテプラが貼られている。

 物は、名前を書き換えられた瞬間に、別の物になる。

 自分という持ち主を、プラスチックの表面が完全に拒絶していた。


     *


 朝食のテーブル。

 自分の椅子に、大きな段ボール箱が置かれている。

 中身は、古紙や空き缶だ。

 「これ、邪魔かな」

 娘が言った。

 僕に向かってではない。

 キッチンにいる妻に向けてだ。

 妻は答えず、箱の上に新聞を重ねる。

 「いいのよ。そこはもう、置き場所だから」

 置き場所。

 自分が座るための空間は、すでに「整理」の対象に組み込まれている。

 僕は立ったまま、ラップのかかったパンを食べる。

 噛む音だけが、自分の頭蓋骨の中に響く。

 外には、一滴も漏れない。


     *


 クローゼットの奥で、自分のスーツが「貸出品」のタグを付けられていた。

 クリーニング屋のタグではない。

 妻の筆跡で、日付と管理番号が書かれている。

 袖を通す。

 肩のラインが、自分の骨格に合わせるのを止めている。

 スーツが、着る人を待っていない。

 ただ、吊るされている状態を維持している。

 鏡を見ても、そこにいるのは「出勤する機能」を詰め込んだ布の塊だ。

 顔は、もう情報のノイズとして処理されている。


     *


 リビングを出るとき、棚に並んだ写真立てが目に入った。

 数年前、海へ行ったときの家族写真。

 自分の姿だけが、日光に晒されたみたいに白飛びしている。

 輪郭が消え、背景の水平線と溶け合っている。

 隣で笑う妻と娘の色彩だけが、異常なほど鮮やかに残っている。

 「これ、綺麗に撮れてるよね」

 娘が通りすがりに写真を指差した。

 「ええ。二人ともいい顔してる」

 妻が答える。

 二人。

 その数え方に、狂いはない。

 欠員ではない。

 背景になったものは、数に含まれない。


     *


 玄関で、自分の靴を履こうとして指が止まる。

 靴のサイズが、明らかに小さくなっている。

 いや、自分の足が大きくなったのではない。

 靴という「物」が、自分を収容することを拒んでいるのだ。

 無理やり足を押し込む。

 痛くない。

 感覚が、既に役割の方へ移っている。

 歩くたびに、革が軋む音がする。

 それは悲鳴ではなく、固定されるための摩擦音だった。


     *


 夜、帰宅して暗いリビングに立つ。

 誰もいない。

 だが、部屋は完璧に整っている。

 ゴミ一つ落ちていない。

 自分が戻ることで、この秩序が乱れるような気がした。

 自分の存在は、この家において「ノイズ」に近い。

 椅子に座らず、壁際に立つ。

 そこが一番、収まりが良かった。


     *


 自分は、もう父ではない。

 この家を維持するための、一つの「項目」だ。

 振り込み、戸締まり、重石。

 役割に置換された心臓は、静かに、一定の速度で拍動を続ける。

 感情は、もういらない。

 便利であれば、それでいい。

 便利であるほど、自分はこの家の「正しさ」に同化していく。

 暗闇の中で、自分の吐く息が、換気扇の吸い込み口へと吸い上げられていった。

 痕跡を残さない。

 それが、ここでの礼儀だ。

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